> 結城浩の日記 > 2007年9月 | 検索 |
プロフィール | 日記一覧 | 日記ダイジェスト | Twitter | RSS |
|
雨。午前中は礼拝。賛美。感謝。夢、夢、夢。 喜び、恵み。 お昼は魚中心の定食。 午後から少し勉強。 今日はお昼寝はあまりしなかった。 細切れの時間を使ってちょっとうとうとしたかな。 それから原稿を書く。 夜にメールを送る。 静かに更けていく、九月最後の夜。
…あれ?
…あれれ?
きゃあ、晩ご飯食べるの、忘れてるう!
家族が眠ったので、自動書記。 空に向かって話し、夜に向かって語る。 考えてみると、私はずいぶん幸せ者だと思う。 家族をはじめ、たくさんの人から愛されている。 感謝なことである。 自分の中にはたくさんの傷や、欠けがあるはずなのだが、 あまり気にならない。年齢のこともあるのかもしれない。 若い時代はどうしてもセンシティブ。敏感に自分のゆらぎに反応してレイシング。 あるいはハウリング。でも反応が鈍くなる世代に入ろうとしているいま、 あまり自分の不足分については気にならなくなった。 これが等身大の私ですから。 それに加えて毎日学ぶことの楽しさはどうだろう。 もくもくと大きな入道雲が浮かぶ青空に向かって、 思いっきり船をこぎ出すような喜び。 わからないこともある。難しいこともある。 でも、それも含めて楽しみであり喜びである。 本を書くとき、同じ曲を何度も何度もかける。 数学ガールを書いているときには、たとえばバッハ。 あるいは奥華子。何度もかけて飽きることがない。 同じ原稿を何度でも読む。プリントアウトした数章分をいつも持ち歩き、 駅で読み、電車で読み、マクドナルドでサラダを食べながら読む。 そんな風にして一冊の本を書き進めていくことの喜び。 もうすぐ今日が終わる。 一生のうちで一回しか出会えない今日が。 もうすぐ明日が始まる。 生まれて初めて出会う明日が。 ぴかぴかの明日が、今日という姿になって、私に出会う。 聖日だ。教会に行く日だ。
ぱたぱたとお仕事。
疲れた夜には、祈り心をもって自動書記。 毎日、仕事をしている。エディタに向かって原稿を書いたり、参考書を読んだり、Webで調べ物をしたり。 でも一番大事なのは「自分で考える」ということだ。自分で考える。調べ物をした結果がすぐに原稿になるわけではない。 調べた内容を自分なりに咀嚼して、消化して、その上で自分の表現に置き換える。そのプロセスが原稿という結果になる。 自分の中にいったん取り込んで「ぐっ」と考える時間がどうしても必要になる。 自分の頭で考えたからといって、すばらしい考えがいつも浮かぶとは限らない。 ありきたりの、あたりまえのことしか思いつかないかもしれない。 でも、それでもよい。いったん自分の中を通すことが大事だと思っている。 祈り。祈り、祈る。神さまは私の上にいらっしゃるし、私の傍らにいらっしゃるし、私の内にいらっしゃる。 祈りを捧げる対象は神さまであり、私を祈りに導かれる方も神さまであり、私の唇に祈りの言葉をのせてくださるのも神さまだ。 そこがとても不思議で、でも当然で、何とも言えない香りを放つところでもある。
連休明けで、動き出すのがおっくうな方もいらっしゃると思います。 その方の上に、神さまからの励ましと守りが特別にありますようにとお祈りします。
♪ 主がついてれば こわくはないと 聖書のうちに 書いてあります
あれ? 昨日の日記を書き忘れている。 昨日の午前中は礼拝。 お昼ご飯は外で和定食。 夜は…何食べたか忘れた。
今日は…朝はシリアル。昼はざるそば。夜はチキンサラダ定食。
本を書いています。 今日はメモをたくさん取った日でした。 家族といっしょに一日出かけていたのですが、 細切れの時間に本のことを考えています。 ふと思いついた内容や表現などを忘れないようにメモします。 一つ一つのメモはそれほど長くありません。 心に浮かんだことを後で再生できるほどの手がかりになればよいわけなので。 家に帰ってきてから、たくさんのメモをコンピュータ内の勉強メモに移します。 そのときに表現を補足します。 ときどき勉強メモをプリントアウトして読み返すと、 「なるほど」とか「確かにこういうことを考えていたけど すっかり忘れていたなあ」とよく思います。
以下は作業ログや勉強日記を書く話題の過去日記。
本を書いている。 夜であまり頭が動かないので、各ファイルをぱらぱらと見ながら、 各ファイルに入れる話題をファイル末尾に追加する。 「あまり深く考えなくて良いからね」とか「重複がいくらあってもあとで直せるからね」などと自分に言い聞かせてやるので、 仕事がはかどるはかどる(はかどっているのか?)。 でもそんな風に内面的編集者の検閲スレショルドを下げておくと(まあ要するに何でもOK状態にしておくと)、 思いもかけない面白い話題に気づいたり、深いレベルでの各章の関連が見つかったりして、なかなか楽しい。 書いているわたしは一人で視点は限られているはずなんだけれど、 元気なときや、疲れているときなど、いろんな自分の多彩なモードを利用して、 多元的な視点を手に入れ、本が持つ厚みと深みとを増すことができ、 さらにはポリフォニックな構造を……
ε( v ゜ω゜) < あなたは何をおっしゃっているのでしょうか?
ごめん、何か錯乱してた。
ε( v ゜ω゜) < 早く寝た方がいい。
そだね。
本を書いている。 今日は、前から第5章のオープニングに使おうとしていた題材をきちんと書くことにする。 勉強ノートから第5章のファイルに移し、清書していく。 ちょっとどきどきするほど面白い話。 荒くても構わないので、未来の自分に説明する感じで、 とにかくここの場所で書きたい情報をどんどん追加していく。 なかなかよい感じ。 でも、書けば書くほど書くべき内容が見つかって膨れていくのはどうしたものか。 まあ、いまはどんどん書く時期だからこれでよい。
本を書いている。 頭からぱらぱらと読んできて、その勢いで第2章にざくざくと加筆。 昔の勉強ノートに書いていた自分のメモから関連している題材をピックアップしてぺたぺたと貼り付けてみる。 で、じっと眺めて順序を入れ替えたり、さらに加筆している。 …ということをやっているうちに37ページまで膨れあがってしまった。 多すぎだ。詰め込みすぎ。まあ、でも、削るのは後だな。 この調子で第3章ものぞいてみようか。
本を書いている。 参考書を読んで、これは大切なところ、良いアイディアがここから広がっていくという部分を勉強ノートに書き抜く。 自分が書いた原稿と混ざらないように、書き抜いた部分はきちんと区別してメモを取る。 読み返してみて「自分だったらこういう風に表現するなあ」とか「こういう例よりもこっちの例がよいな」と思いついたら、 それをメモする。 そのまま文章が展開していくようならば「手に任せて」どんどん書き進める。 文章が多少おかしくても構わない。とにかく頭に浮かんだものをひたすらアウトプットする。 文章はあとでどうせ全部書き直すのだ。 でも、自分の頭と親和性のよいアイディアは有益なのでとにかく記録していく。 自分が話し、エディタに聞いてもらう感じ。
あなたは、自分が破産しているという気分になることはないだろうか。 破産している気分(あるいは事実)。 自分の力では「やっていけない」という状況。 これは駄目だ、このままでは駄目だという焦り。 何かが違っている。ボタンを掛け違ったように、先へ進めば進むほど、「間違った道だけれど後戻りしにくい」という事態。
そういう立場に自分がいることに気づくことはないだろうか。
ちなみに私はそういう気分に陥ることがよくあります。 いや、よくありました、と過去形にしたほうがよいかもしれない。
聖書の神さまを信じる前は、イエスさまを信じるよりも前には、 そういう「自分は破産しているのだ」という感覚は間違っていると思っていた。 何とか立て直せる、自分の力で何とかなる、時が経てばうまくいく、単に錯覚に過ぎない、と思っていた。 でも、それは間違いだった。 「自分は破産している」や「自分の力ではやっていけない」という感覚は、真実だったのだ。
イエスさまと出会って、私は愛されていることに気づいたし、 破産している感覚というのは実は正しいということにも気づいた。 自分の力ではやっていけないというのも真理だった。 そして、私はほっとした。 もう頑張らなくて良いのだ。 頑張る、というのはちょっと違うかな。 自分を何かしら凄い存在だと見せかける必要はないのだと思った。 私は、私のままで良いのだと思った。 イエスさまは、私が悔い改めて良い人間になってから私を愛してくれるのではないと知った。 イエスさまは、私がどろどろともがいているときから、 神さまのことを知らないときから、 「母の胎にいるとき」から、私のことを愛していたのだと知った。 私が良いことをしたら、神さまは喜ぶだろう。 私が悪いことをしたら、神さまは悲しむだろう。 しかし、どちらにしても、神さまの私に対する愛は変わらないだろう、と思った。 完全な愛。
失敗しても良いのだ。 うまくいかなくても良いのだ。 私は私のままで良い。 神さまに信頼し、毎日、毎日、今日という一歩を誠実に歩めば良いのだ。 何度も何度も失敗するだろう。 同じ間違いを何度も引き起こすだろう。 そのたびに、私は神さまにごめんなさいというだろう。 何度でも言おう。何度でも神さまに、ごめんなさいしよう。
うまくいかない。だから神さまに祈ろう。
自分の力でやっていけない。だから神さまに依り頼もう。
現在のすべてを、自分のすべてを、神さまに感謝しよう。感謝してみよう。 一度きりの人生で、神さまが用意してくださった状況。環境。人間関係。 そこに自分が置かれている意味は何なのか、神さまに問うてみよう。 しかし、疑いとして問うのではなく、不信として問うのではなく、 「願わくはその意味を理解することができますように」と神さまへの信頼として問おう。 「でも神さま、たとえ状況が理解できなくても、私は神さまを信頼します」と宣言しよう。
感謝しても、愚痴っても、同じ時間が過ぎる。 それなら、私は感謝するほうを選ぶ。 まずは感謝。まずは賛美。 自分の生きている時間を、神さまへの信頼で満たしていこう。 自分の貴重な時間を、喜びと、祈りと、感謝で、埋め尽くそう!
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 5章16節から18節)
本を書いている。 先日、期せずして第6章を書いたときに「この話題は第6章の後に書こう」と思っていたことがあった。 それを一応第7章のファイルに移して、少し膨らませてみた。うん、これは標準的に良い話題。 このくらいの難度なら、読者もすうっと理解してくれるだろうと思う。 サンプルをきちんと示したら、概念も理解しやすくなる。 現在書いている新しい本は、まだまだ書きかけだけれど、 大きな枝振りがそろそろ見えてきている。 そしてあちこちに小さなつぼみや芽も。 これらをうまく広げて、大きな枝振りの美しい樹に育ってもらいたいものである。 今回の本の魔法の呪文はまだ発見していない。 「みどりのゆび」が必要になるのかもしれない。
今日は珍しく朝の打ち合わせで、本書きはお休み。
本を書いています。 期せずして第6章が膨らんだので、 一度プリントアウトして読み返してみた。 走り書きなので、論旨の乱れや説明になっていないところが多数見つかる。 そこでそれをちまちまと直す。 プリントアウトして読む。 そうこうしているうちに、その章の構成が少しずつ見えてきた。 具体的に作業を進めていくと、 一章に収めるべき内容(および収められる分量)が 「頭だけ」で考えていたときよりもはっきりしてくる。 たいていは、かなりの部分を捨てることになる。 つまり、実際の本にはそんなに内容を盛り込めないということだ。
午前中は礼拝。教会に行ける恵みに感謝。 午後から本屋さんでゆっくりする。 帰ってきてからぐっすりお昼寝。 夕食は軽くすませてお風呂に入り、少しお勉強。 混乱していたメモをときほぐした。 ときほぐしてみると、 このメモの内容はおそらく新しい本の第6章になるものだと思う。 説明の順番として、第6章の前に第1章、第2章の内容が必要になる。 まあまあ妥当だろう。目次を考えるときに検討していた6,7,8章の順番が正しいということもほぼ確認できた(と思う)。 ちょっと考えると6章と7章を逆にした方がよいのかもしれないが…まあそれは後で考えることにする。 全部で10章になる予定だが、何となくもう1章か2章だけ増えていきそうな気もする。 …ん? あ、いやいや。第6章の前に1,2だけではなく、3章の必然性も判明。うん、いい感じ。
新宿紀伊國屋書店で数学の棚に行きました。 おお『数学ガール』平積み!感謝!
で、ふと「数学セミナー」に目がとまりました。特集が「オイラー生誕300年」とな。ふむふむ…と目次を読んでいると、 数セミブック・プラザに『数学ガール』の文字が(p.87)。きらりーん☆ 埼玉県立浦和高校の仙田章雄先生が『数学ガール』の書評を書いてくださっていました。 感謝です!
「数学セミナー」の、しかもオイラー生誕300年の特集をしている号に拙著の書評が載るとは…感慨深いものがあります。 感謝します。
別件でまたまた嬉しいお話が到着。 これもまた具体的に決まったならアナウンスする予定です。
本を書いている。 昨日の続きで、第1章を書き進めようと思ったけれど、 紙にメモしていた内容を勉強ノートに書き写しただけで終わってしまった。
* * *
新しい本のことはさておき、『数学ガール』ですよ。 先日編集部から入った嬉しいお知らせは、 『数学ガール』に翻訳のオファーが来ているという話題。 韓国をはじめとして数カ国から来ているとのことです。 本書を応援してくださるみなさんに感謝します!
本を書いている。 昨日の続きで、第1章を書き進める。 技術的な内容はちょっとわきにおいて、ざくざくと書き進め、節の見出しだけは書いてみた。 それから勉強ノートに含まれていた、この章に入れるべき内容をコピー。 それからこの章に書くのかな?と思っていたけれど違う内容を別の章に移動。 もう一度最初からゆっくり読み直し、章の冒頭部分とまとめの部分を呼応させる。 ページ数を調べて、分量感をつかむ。この感じだと、現在入れている技術内容は盛り込みすぎっぽい。 あとで、もう少し練って、絞り込む必要がある。 でも、いまはもう一度最初から読み直して形を整えることに専念しよう。 「これが生まれて初めて書く本である」かのような気持ちで。
本を書いている。 昨日の続きで、第1章を書き進める。 あまり考えずに、自然な流れで「手に任せて」書いている状態。 とりあえず思いついたことを全部書こうとしてみる。 図が必要なところには(図)とだけ書いておく。 表が必要なところには(表)とだけ書いておく。 それで、まずは先に進んでみる。 疲れたら勉強ノートを読み返す。 無駄な作業かどうかは気にせず、分量や時間のことも気にせず、 思うとおりにまずは書いてみる。
夕方、編集部からちょっと嬉しいお知らせが入る。 いまはまだアナウンスできないけれど、詳しくはそのうちに。
家に帰ると、長男が背中が痛いというので押す。 手持ちぶさたなので、背中を押しながらロマ書をちょっと読み上げる。 ふと思うことがあったので話す。
…神さまは人間をお造りになったときに、 ほかの人の心はわからないようにお造りになった。 私が心で考えていることは、あなたにはわからない。 あなたが心で考えていることは、私にはわからない。 だから、人間相手では、いくらでもごまかすことができる。
でも、神さま相手では事情は異なる。 神さまは私たちの心をすべてご存じだ。 私たちが心の中で考えていることはすべて神さまには丸見えだ。 私たちが一人になったとき。私たちは実は一人ではない。 神さまと共にいるのだ。
朝。 本全体の構成ができつつあるので、「はじめに」や「第1章」を少し書いてみた。 勉強ノートやメモはどこまでいっても勉強ノートやメモに過ぎない。 本物(?)の「原稿」を書き始めるのは緊張するけれど楽しい。 進めれば進めただけ進んだ感じがする。 まずは感触を見るために、ざくざくと先に進んでみよう。 疲れたら勉強ノートを読んで元気を出そう。 いま悩んでいるのは第1章のサンプルの部分。 それから最終章のまとめかた、かな。 第1章のサンプル部分はきっとそのうちに思いつくだろう。 最終章のまとめかたは、最終章まで書き進めるうちにきっと何か「はっ」と気づくだろう。 毎度のことながら、魔法の呪文は毎回発見する必要がある。 それでこそ、活きた本になる。
午前中は礼拝。 午後はゆっくり勉強ノートを読み返し、 鉛筆で書き込みしていたメモをファイルに転記する作業。 過去の自分と協力して、少しずつ少しずつ本の全体像をつかもうとしているようである。 記憶力は衰えているけれど、その分ツールを使うのがうまくなっているからあまり支障はない。 むしろ、記憶力が衰えているせいで、新鮮な感覚で読み返すための「寝かせる」時間が短くてすむ。 その代わり、同じような発想のメモが繰り返し書き込まれていたりする。
『数学ガール』に関連して、 高校一年生の読者さんからいただいた、嬉しいメッセージをご紹介します。
読者さんから
すごくおもしろかったです!
僕は数学が好きです。でも、得意ではありません。。。
でも、この本を読んでやっぱ数学っていいなぁって思いました。
今はミルカさんの数式を理解しようと頑張ってます!♪
数学は美人です。 w
ぜひ、また続編でも、違うシリーズでも本出してください!!
たのしみにしてます♪
結城から
メッセージありがとうございます。とてもうれしいです。
数学って難しいけれど、何だか良いですよね。
ミルカさんの数式、がんばって解読してください!
また、これをきっかけにぜひ数学のいろんな世界を探ってみてくださいね。 (^_^)
『数学ガール』が好きそうなお友達にも、
ぜひ本書のご紹介をお願いします♪
お約束はできませんけれど、 続編も書きたいなあと思っています。 気長に待っていてくださいね。
早朝、リンゴをかじりながら食卓で本を読む。楽しい。 数ページ読んでから台所を片付け、今度はバナナを食べながら本の続き。美味しい。
今日も淡々と勉強ノートを書き進める。 調べたことを書き留め、思いついたことを書き留める。 そして、もう一度、読み返す。
台風のせいか、変な時間に目が覚めた。 次の本を書くための勉強ノートを読み返して少し時間を過ごす。
もう9月ですね。
何だか最近忙しくて、落ち着いてWeb巡回できてなかった。 でも、あまり困っていないことに気づいた。 Webもテレビっぽくなってきたのかなあ。
今日の一言「クオリティ・オブ・ライフは、クオリティ・オブ・タイムの積み重ね」
あなたのご意見・感想をお送りください。 あなたの一言が大きなはげみとなりますので、どんなことでもどうぞ。