1999年の終わりと2000年の始まりを迎える祈り

結城浩

1999年12月26日

毎日、テレビは「新発売」の宣伝をしている。 車は新たに「誕生」し、 「新開発」や「新発見」で世界は満ちているようだ。 もうすぐ2000年がやってくる。 イエスさまが生まれてから約2000年が過ぎたことになる。

あなたの中で「イエス様」はどんな方ですか。

クリスチャンは「はい、イエス様は私の救い主です。 こんなどうしようもない(誰にも言えないぼろぼろでどろどろの)私を変わらずに愛してくださり、 救ってくださる救い主です」と告白する。

ある人はイエスさまのことを「立派な方だそうですね」と言いつつ、 (でも私には何の関係もない。宗教は嫌いだ。怪しげだし)と心に思う。

ある人はイエスさまのことを何とも思わない。 ただ知識として「イエスが実際に生まれたのは西暦0年じゃなく、4年ずれているのだよ」と語ったり、 「キリスト教?十字軍の残忍さをあなたは知らないのか。旧約聖書の残虐さを知らないのか」と語る。

そんな風にして、いろいろと語りつつ、各人は自分とイエスとの距離を定め、 ほっと一息をつこうとする。

…でも、実際のところ、真実はどこにあるのだろう。

本当の真理は一つのはずだ。その真理はどこにあるのか。 本当の真理は、すなわち人間の狭い知恵を超えた真理は、時間に依存しないはずだ。 だから永遠に真理であり、何年たとうが、何千年たとうが真理のはずだ。 キリスト教が提示するものは、聖書が伝えているものは、真理だろうか。 あなたはどう思いますか。

結城はキリスト教は本物であり、聖書は真実を伝えている、と信じている。 それは(少なくとも私の)耳には痛く、しかし同時に完全な喜びをもたらす。 自分がどんなにうまくやったとしても傲慢になってはならないという戒めを受けると同時に、 自分がどんなにぼろぼろになっていたとしても絶望するには及ばないという慰めを受ける。

そうなのだ。

神さまのなさりかたはいつもそうだ。 とても厳しく、けれども本当の愛に満ちている。 パウロは信仰義認を宣べ伝える。 義とされるのは行いではなく信仰による、と。 何かいいことをしたから神さまに「よし」とされるのではない。 他の人の役に立つようなことをしたから「よし」とされるのではない。 もちろんよいことはよいことなのだが、それが救いの条件ではない。 救いは神様の恵みによるのだ。

神さまの愛は完全であり、私たちをまるごと愛してくださっている。 私たちが何かを行なったからその愛が増すわけでもなく、 私たちが失敗したから愛が減じるわけでもない。

謙虚に自分を振り返り、 「神様、私はこんなこともできません。 またこの罪をおかしてしまいました。 ごめんなさい、神様。 ただ、ただ、あなただけが頼りなんです。 時にふと、自分の力でやっていけそうな錯覚にとらわれるのですけれど、 他の人とぶつかったり、困難にぶつかったりすると、 すぐにばけの皮がはがれてしまうんです。 神様、神様。わたしを捕まえてください。わたしを支えてください。 罪深い私をおゆるしください」 …神様はそのような砕かれた魂をこそ求めておられるのだ。

人の目には、きらびやかなもの、派手なもの、美しいもの、目立つもの、 能力の高いもの、新しいもの、…ばかりが有益とうつる。 それは人間の目が何も見えないからなのだ。

神様の目には、砕かれたもの、小さいもの、取るに足りないもの、 他の誰からも無視されるもの、…もきちんと見えているのだ。

クリスマスの頃は自殺も多くなると聞く。 孤独に悩まされ、寂しさとせつなさに悩まされ、 自分の無力さや、誰にも相手にされないつらさ、 誰も自分のことをかまってくれない・理解してくれない悲しさ、 …そんな苦しい思いに耐えきれない魂が自らの命を絶とうするのだろう。 そのような思いを、あなたも感じていらっしゃいますか。

イエスさまは、そのようなあなたのためにこの地上に来られたのです。 あなたの苦しみを受け取り、あなたの犯したすべての罪を受け取り、 あなたの身代わりとなって十字架にかかるために。 それによって、他の誰でもない、あなたが救われるために。

イエスさまの救いを信じるかどうかを、あなたに強制することは誰にもできません。 それはあなたの自由意志にまかされています。 他の人がどう言うかとか、他の人がどう思うとかは、わきに置いておきましょう。 もしあなたが(誰にも言えない)苦しみを持っていらっしゃるなら、 それをそっくりそのままイエスさまのところへ持っていき、 神様にあけわたしましょう。

2000年を迎えるにあたって、あちこちで馬鹿げた騒ぎが繰り広げられています。 しかし、どうぞ、あなたの救い主イエスさまのことを思ってください。

あなたがどんな人であっても、これまでどんなことをしてきた人であっても、 神さまはあなたのことを丸ごと愛しているのです。

ごいっしょに、お祈りしましょう。

ハレルヤ、天の父なる神様。
あなたのお名前を賛美します。
今日という日、あなたのことを祈る機会を与えてくださって感謝します。
主よ、私はほんとうに愚かな人間です。
ほんとうにほんとうに愚かな人間です。
愛されるに値しない人間でありながら、
神様がイエスさまをこの地上に送ってくださり、
イエスさまが十字架にかかってくださり、
私の罪をゆるしてくださったことを思います。
神様。
失敗ばっかりの人生ですけれど、
どうか、聖霊様が私を満たしてくださり、正しい道を歩ませてください。
自分を頼りにするのではなく神様を頼りとし、
何度失敗しても、あきらめずにまた神様に立ち返るような、
堅い信仰を与えてください。

これまでの私の罪をすべてイエス様の十字架のゆえにゆるしてくださり、
新しい年、誘惑やすべての悪しきものから守られますように。

この祈りを、いま祈っている愛する兄弟姉妹の祈りにあわせ、
イエス・キリストのお名前で御前にお捧げいたします。

アーメン。  ハレルヤ!