人は、教えられることよりも、愛されることを求めている

結城浩

1997年7月25日

人は、教えられることよりも、愛されることを求めている。

…と、よく思います。
でも、我が身を振り返ると、愛することよりも、
人を教え諭すことを好んでいるように思う。
そのずれが人間関係のトラブルを引き起こすのかもしれませんねえ。

「愛」という言葉を、
「性愛」にすりかえて理解している人がいる。
言葉に出しては言わないけれど
(そして言葉に出せばすぐその嘘に気づくのだが)、
「愛する」という言葉を「セックスする」という意味で使っている人がいる。

もちろん、セックスも、男女の愛の示し方の (大切な)一部分である。でもそれが、度を越したり、正しくない相手とだったり、 ふさわしくない時だったりすると、それは愛とはいえないものになる。 むしろ正反対になりうる。 この世の多くの事物や行為と同じく、セックスそれ自体はよくも悪くもない。 ちょうど、それは、ピアノの鍵盤のどのキーがよくてどのキーが悪いと言えないように。 正しいときに、ふさわしい程度の力で鳴らすとき、そのキーがよいキーなのだ。 (この比喩はC.S.Lewisから借用)
私は、「愛する」という言葉にとても近い意味を持つ言葉は、 「受け入れる」 「ゆるす」(許す、ではなく赦す) ではないかと思っている。 だから冒頭の「人は、…愛されることを求めている」というのは、 「人は、…受け入れてもらうことを求めている」 「人は、…ゆるしてもらうことを求めている」 と言い換えることができる。 私のささやかな経験では、 人は、自分の受けた分しか愛することができない。 言い換えれば、人は、ゆるしてもらった分だけ他の人をゆるすことができる。 人から受け入れてもらった分だけ他の人を受け入れることができる。 親や、家族や、知人や、先生や、同僚や、恋人や、伴侶から たっぷり愛してもらった人は、その分だけ他の人を愛することができる。 人間から愛してもらうのはとても大切ですが、 本当の愛の源泉は神さまです。 神さまから愛してもらう。 神さまから受け入れていただく。 神さまからゆるしていただく。 その経験を日々味わっている人は、 他の人をもたっぷり受け入れることができる。 いや、その前に、自分自身を受け入れることができる。 ああ!私は駄目だ!他の人をゆるすことなんかできない! …という自分をゆるしてやることができる。 他の人を受け入れることなんかできない! …という自分自身を受け入れてあげることができる。 自分は自己嫌悪、自己卑下に凝り固まっている! …という自分をそのままそっくり受け入れる。 そう、そうなのです。 そこがスタートです。 「そうか、いままで私は○○だと思っていた。  だが実は自分は××だったのだ。  これが本当の私の姿だったのだ。  過大評価でもなく、過小評価でもない。  お世辞でも侮辱でもない。  これが現実の私の姿なのだ」 評価は後。事実をそのまま受け入れるのが先。 「そうか…これが私の姿なのだ」 人は、愛されることを求めている。 人は、受け入れられることを求めている。 人は、ゆるしてもらうことを求めている。 …人? そう、私自身も人であった。  私は、愛されることを求めていたのだ。