結城浩
2002年9月29日
礼拝。
今日は聖霊様が触れてくださったのか、 礼拝中に涙がぼろぼろとこぼれてしかたがなかった。 それは、感謝の涙なのか、感動の涙なのか、よくわからないのだけれど、 泣いているうちに、何だか涙でいろんな思いが洗い流されるような気持ちになった。 私は本当に小さな存在で、弱い弱い存在で、 ちょっと何か出来事が起こるとすぐに悩み果てたり考え込んだり、不安の雲に覆われたりする。
けれども、神さまはそんな私もあわれんでくださっている。 イエスさまはそんな私の弱さのために十字架にかかってくださった。 イエスさまの血が流された。 そのことをもう一度思い返した。 ああ、いままで何度も何度も思い返しているのだけれど、さらにもう一度、ということだ。
永遠の時間について考える。 この世で生きている時間はほんのわずかだ。 この世で肉体を持って生きている時間はほんのわずかだ。 けれども肉体が命を終えた後にも、永遠の時間が続いている。 私には天国に入る資格はないけれど、 イエスさまが引き入れてくださる。 聖書にそう書かれているからだ。 だから、実存の一番深いところの問題はすでに神さまによって解決がついている。 そのことは何と大きな恵みだろう。
20代はすでに過ぎ、30代も終わろうとしている今、 クリスチャンになってからの日々を振り返る。 そのとき、私は「ああ、クリスチャンになってよかった」「イエスさまを信じることができてよかった」と思う。 これもまた誤解される危険があるから書いておくけれど、 クリスチャンになる資格があってなったわけではなく、 それはひたすら神さまの哀れみと恵みによるのだ。
20代の ある時、私が「決心」することができた。 それは確かに私が決断した一歩かもしれないけれど、 そのために多くのクリスチャンの背後の祈りがあったはずだ。 そしてもちろん神さまのご計画がそこにあったと思う。 ずっと、ずううっとイエスさまは私の心の扉を叩いていておられたのだ。 私は、自分勝手に・自分の思い通りに生きようとすることで必死になっていて、 イエスさまのノックの音が聞こえなかったのだ。 いや、聞こえていたのだけれど、聞こえないふりをしていたのかもしれない。
20代に洗礼を受けて、私の生活はずいぶん変わった。 いや、私の生活を襲うさまざまなトラブルや人生における困難が変わったわけではない。 変わったのはまわりではなく、私自身だったのだ。 そして、苦しくてしょうがないときも、うれしくてたまらないときも、 呼びかける「あのかた」がいらっしゃることは何と大きな恵みでしょうか。
この日記の読者には、いろんな方がいらっしゃるでしょう。 いま苦しみのうちにある方、 病を負っている方、 誰にも言えない秘密に押しつぶされそうになっている方、 将来の不安に悩んでいる方、受験生、人間関係(会社・恋愛・家族・親戚・近所づきあい・介護…)で壁にぶつかっている方、 過去の失敗や取り返しのつかない出来事で悩んでいる方、人生に喜びや希望を見出せないでいる人… いろんな方がいらっしゃると思います。
この天地をお創りになった神さまの御もとにいきましょう。 私たちには聖書を通して神さまの愛が語られています。 私たちがいくら弱くても、いくら罪深くても、何度トラブルを起こしたとしても、 イエスさまの十字架にすがりましょう。 人間にはできなくても、神にはどんなことでもできるのです。 神さまは私たちの想像をはるかに越えた恵みを信じる者に与えてくださいます。
疑う者ではなく、信じる者になりましょう。 シニカルにえらそうなふりをするのではなく、素直に幼子のようになってイエスさまの前に行きましょう。 そして自分の罪を悔い改め、神さまに心を開き、イエスさまからの愛をたっぷりと受け取りましょう。 自分の過去に引きずられるのではなく、 他の人の目を気にするのではなく、 いま、ここで、神さまの前に、自分の心からの祈りを注ぎだしましょう。 すべてをご存知の神さまの前で、気取りや隠し事をするのは無駄なことですから、 すべてを神さまにさらけ出しましょう。
いままで祈ったことのない人は、祈り方を知らないかもしれませんけれど、 神さまは、あなたの真実の叫び、心からの叫びをきっと聞いてくださいます。 あなたが神さまの愛に触れ、イエスさまを信じることができますように。 あなたが現在かかえている問題が、イエスさまによって一掃されますように。