結城浩
1997年の日記からの抜粋です。
原稿を書いたり、プログラムを書いたりしていると、 自分が今どこにいるのか忘れていることがある。 「ふう、できた」と思って顔を上げ、 「あ、そうだ、いま自分は電車の中だったのだ」とか、 「そうだった、会社にいたのだった」とびっくりするのだ。 知人にこの話をすると、 「すごい集中力ですね」 とほめられる。 ほめられるのはうれしいが、 でも、集中力なんていうのは、 自分で努力して得たものや訓練して得たものではないから、 ほめられてもね、という感じもする。
奥さんの解説によると、 ファンタジーの基本的構造というのは、 「別世界に行き、そして帰ってくる」というものだそうだ。 それはあるときは「死と再生」というかたちになるし、 またあるときは「地下へもぐり、また地上へ」というかたちかもしれない。 「井戸を通ってむこうへ行き、また帰ってくる」ときもあるだろう。 どんな場合でも、 別世界へ行き、そして帰ってくる。帰ってきた後、同じ世界のはずなのに、 何か(自分か世界か)が変わっているというものらしい。ふむ、なるほど。
原稿を書いたり、プログラムを書いたりしている最中というのは、 私の心はどこか別世界に飛んでいっているらしい。 文章の国、あるいはプログラムの国へ。 右脳と左脳の谷間を抜け、 データ構造の森に分け入り、 また帰ってくる。 そして「あ、電車の中にいたのだ」とびっくりする。
こころゆくまで別世界で活動し、 きちんと帰ってくる。 それこそが日々の喜び、という感じがするのですが、 これを読んでいるあなたはどう思いますか。
唯物論(ゆいぶつろん)って何ですか? 一言で言えば「物がすべてである」という考え方ですね。 「物がすべてである」ってどういうこと? 「精神なんてものはない」って考え方ですね。 精神なんてものはないから、感情もない、意志もない、知性も理性も何にもない。 あなたが感情と感じるものは、単なる化学変化、物理法則の結果にすぎない。 脳内物質の分泌とか何とか、そういうものの総体にすぎない。 唯物論というのは、おおよそそういう考え方ですね。 (哲学の専門家から、間違い、と言われるかな)
そこから考えを進めると、世界は偶然できた、そこには何の意味もない。 あなたも偶然、私も偶然できた。そこには何の意味も意義もない。 いや、そもそも「あなた」とか「私」とかいうのは錯覚にすぎない。 こういう風に考えを進めていくと、虚無に至ります。
キリスト教的世界観ってなんですか? この世界は神がつくった、と聖書に書いてあります。 聖書の記事の細かいところを読む前にしっかりと目を止めるべき 一番大きな大前提がそこにあります。 まず神がいて、神がこの世界をつくったのだ、 という主張です。
世界は偶然できた、という主張と、 世界は神がつくった、という主張は まっこうから対立します。
先日C.S.ルイスの『悪魔の手紙』を読んでいたら、 次のような意味のことが書かれていた。
人間は、自己卑下のことを謙遜だと思っている。
本当は、自己忘却のことなのに。
つまり、こういうことだ。 「私などはつまらん人間でして」というのは謙遜ではない。 むしろ、何か(為すべきことや好きなこと)に没頭していて、 自分のことなんかすっかり忘れている、 そういう態度のことを謙遜というのだ。 ゆえに「私は謙遜です」と言うのも「私は謙遜でない」と言うのも、 どちらも「謙遜ではない」ということになる。 発想が自分の状態から離れていないからだ。
夫婦別姓の議論、ってありますね。 結婚したとき同じ姓にしなくてはならないというルールについての賛否の議論。 私が結婚したのはもう数年前なので、婚姻届のフォーマットがどうなっていたか 詳しく覚えていません。でもたしか「同じ姓」にする必要はあるけれど、 「夫の姓」にする必要はなかったような記憶があるのですが、 もしかして、夫婦どちらの姓にする必要もなくって、 新しい姓にもできるのでしたか? 詳しい方教えてくださいませんか。
もし「夫の姓」への強制がないのであれば、 夫婦別姓の議論というのは男女差別の議論とは無関係という理解でいいのかしら。 つまりどちらの姓にするかは男女でまったく対等であり、 夫婦(になろうとしている二人)の間で話し合って決めればいいことだから。
私の意見ですか? 私の個人的な意見としては、 「夫婦は一体」という観点から、 夫婦の姓は一致しているのが適当ではないかと思います。 それから、 「男性が夫婦のかしら」であるという観点から、 男性の姓にあわせるのが適当だとも思います。
ただし、 法律はクリスチャンにもノンクリスチャンにも適応されるということを考えると、 上記のルールを法律にしてしまうのはまずいようにも思います。 それに夫婦のあり方(姓の選択は重要なことです)は強制されるべきものでは ないように思いますので、 法律としては、 同姓でも別姓でも選択できるようにする方が望ましいのかな、 と思います。(でも思いはゆれています)
別姓が許可された場合、 私は離婚率が上がるような気がするのですが、 みなさんはどう思いますか。
「魔法使い」って何だろう。
ここでいう魔法使い、というのは、 クリスチャンが対立すべき存在としての魔法使いである。
例えば唯物論者もまたクリスチャンと対立する。 唯物論者とクリスチャンは次の一点で大きくたもとを分かつ。
質問1:「精神(あるいは霊)というものは存在するか?」
唯物論者は「いいえ」と答える。
(この世界には物しかないのであるから、
霊なんてものは存在しないのだ)
クリスチャンは「はい」と答える。
(だって、神は霊ですから。天使も、悪魔も、肉体を持たない「霊」です)
じゃあ「魔法使い」とは何か。 魔法使いはさきほどの質問1に「はい」と答える。 ただし、魔法使いは、 その霊が(あるいは精神が)「善いものであるかどうか」ということは考えない。 たとえ悪い霊が相手であっても積極的に交渉し、それを信奉する。 それが魔法使いである。
クリスチャンは霊の存在は信じている。 しかも、それが「善き霊」であるかどうかに関心を持つ。 言い換えれば「神からの霊であるか」に関心を持つ。 (持つべきではないか、と私は思う) そして善き霊に従い、悪しき霊を忌み嫌う。 自分の中に入ろうとする悪しき霊をイエスの名により追い払い、 善き霊で満たしていただこうとする。
注:ここでは「クリスチャン」と総称してしまいましたが、あまり適切ではないかもしれません。
無神論(むしんろん)と不可知論(ふかちろん)について。
無神論というのは「神はいない」という主張であり、 不可知論というのは「神がいるかいないか知り得ない」という主張である。 この二つは異なる主張である。
なぜわざわざこういうことを書くかというと、 不可知論者であるにも関わらず、この用語を知らないために 「私は無神論です」と主張している人がいるように思うからである。
(あ、私は哲学・神学の専門家でないので、この主張、 はじめから間違っているかもしれません。 間違っていると思ったら、教えてくださいね)
結城が個人的に思うことは、
無神論(すなわち「神はいない」という主張)は無謀すぎるように思う。 神の存在ってそもそも証明できないように思うからである。 数学でもそうだけれど、 特に何かが「存在しない」ことの証明は難しい。 ですよね。 「存在する」という証明は一つ見つければいいけれど、 「存在しない」という証明は、実例(ここにはない、あそこにもない)ではだめで、 論証(これこれこういう理由により、ない)でなければならない。 だから「無神論」ってすごい(無謀)なあ、と思うのである。 何で「神がいない」っていえるんだろう。 個人的には、神がいるかいないか関心がない人とか、真剣に考えたことがない人が 「私は無神論です」といっているのではないか、と思っている。 (挑発的言明)
不可知論(すなわち「神がいるかいないか知り得ない」)の方が納得がいく。 おそらく、神に関して、理性と論証で深く追った場合にいきつく終点が 不可知論なのではないか、と想像する。 つまり、もし神がいるとしてもそれは理性と論証で知り得る範囲内にはいない。 という結論だ。
自分は無神論、と言っている人の中には、 「神はいない」と主張するのではなく、 「私は神を信じていない」と主張する人もいるかもしれない。 これはこれで納得がいく。 「私は神を信じていない」という主張は、論証によるものではなく、 個人的信条の表明だからだ。
話は大きく横にそれる。
結城がよく思うのは、 「自分の存在そのものが特異点である」 ということだ。
証明はできないけれど、自分自身が存在している。 汎用性を持たず、ある姿を持ち、ある時代に、一人の父と一人の母のもと、 自分が生まれて、いまこうして生きていること。 その特異性を私は深く味わう。
なぜイエスなのか、なぜキリスト教なのか、 私は論証することができない。 自分の特異性と同じように。
話はもっとそれる。
この「特異性」という感覚は、 恋をしたことのある人には、 とても説明がしやすい。そう、あの感じです。と言えばいいから。
聖書において、 キリストと教会の関係が花婿と花嫁に例えられているのは、 ゆえなきことではないのです。
「あなたの神は小さすぎる」 というのはあるクリスチャンの先生が翻訳なさった本のタイトルです。 でもその本を私は読んだことがないんです。 しかしこの本のタイトルを聞いたとき、とても印象深く感じられ、 ずっと心に残っているのです。 今日は「あなたの神は小さすぎる」という話をします。 本とは直接関係はないのですが。
神さまはとても大きくて、私たちの理解を越えている。 クリスチャンになりたての頃「神さまはこういう方だ」と思っている。 でも信仰生活を送っているうちに、 それは神さまを過小評価していたのだと気がつくときがある。 「神さまはこれほど大きい方だったのだ」 「神さまはこれほどまでに自分を愛してくれていたのだ」 と驚くときがある。
でもってしばらくすると、同じ事がまた起こる。 前回の修正にも関わらず、まだ自分は神さまを過小評価していたのだ。 …これの繰り返しである。
クリスチャンになる前だったか後だったか忘れたが、 私の中では「神さま」というのは「長くて白い髭をはやしたおじいさん」 のようなイメージしかなかった。 仙人みたいなもんですな。 いま思うに「なんと貧困なイメージ」と笑ってしまう。
信仰を得て、 神さまが自分になしてくれる恵みに感謝するようになっても、 まだ自分の神は小さすぎるのだと思うときがある。 神を過小評価するというのは、神の恵みを過小評価しているのだ。
結婚した直後のことだったかな。
夜中、家内と一緒にワインか何かを飲みながら、 いろいろなことを話していた。世間話だ。 ふと、話が途切れた後、家内がじいっと私の目を見てこう聞いた。
「ねえ、もしも明日死んでしまうとしたら、あなたは何をする?」
急に難しい質問をされて、私はしばらく黙っていた。 家内は続けてこう言った。
「誰か会いたい人とか、したいこととか、見たいものとか、そういうこと、何かある? 今日一日しかないとして」
私は考えた後にやっとこう答えた。
「そうだなあ、田舎の親にあって、いろいろ謝りたいこととかあるなあ…。 うん、そう。謝りたい人が何人かいる。 おばあちゃんにも会いたいなあ…。」
それを聞いて、家内はちょっと首をかしげて、静かにこう言った。
「どうして、それを今日しないのかしら」
もちろん、私には答える言葉がなかった。 生きている間に絶対やっておきたいことを、 私はどうして、今日やらないのだろう。
例えば行き付けの(でもそれほど親しいわけではない)そばやさんで、 お金を払って出るとき、そこのおばちゃんに、
「ごちそうさま、おいしかったです。いつもおいしい おそばをありがとう」
と声をかける。 おばちゃんは嬉しそうな顔をする。
店を出ると、私の心にさっと、 「ああいう一言って『偽善的』だと思わないか?」 という声がよぎる。 私は「思わないね」と一言返して、心にささやいた相手をけとばす。
こういう声、あるいは「それは偽善的」という概念に従うことで、 私はこれまでどれだけ多くの「善いこと」をなさずに来ただろう。 「偽善的」という言葉の意味をろくに考えることもせず。
心にささやいてくるありがちな声の例をいくつかあげてみよう。 「おまえなんかそんなにイイ子じゃないくせに、イイ子ぶろうとしちゃってさ」 「いくらイイことをしようとしても、おまえは悪いヤツなんだよ」 「心の底ではウラミを持っているくせに、そんなキレイゴト言っても無駄だよ」
結城はこれらの声は多くの場合、悪魔の声だと思っているので、 あまり深くは関わらないようにしている。 うるさく寄ってくるときにはイエスの御名によって追い払う。
悪魔の声は巧みに「良心」に働きかけてくる。 そのとき、いわば「良心」は検事の役目を果たすからだ。 悪魔は良心に働きかけてくる。 そして私たちが萎縮したり(やっぱり駄目なんだ)、 必要以上に罪の意識に苦しんだり(ああどうしたらゆるされるだろう)、 自己嫌悪に陥ったり(どうせボクなんかボクなんか) するのを見て、悪魔は楽しむ。 裁判長は神、弁護士はキリストだ。 (注意:この例えは非常に不完全であることをご了承ください)
罪を自覚することは重要だが、 必要以上に苦しむのはよくないことである。 特に自己嫌悪には注意が必要だ。 まったく反省しないのも、反省しすぎるのも、 どちらも自分しか見ていない。 大事なのは神を見ることだというのに。
いろんなことがふと、心に浮かぶ。
「あ、ここでこういうことしたら喜ばれるだろうな」
「この人はこれを求めており、私はそれを提供できる」
「しまった。すぐに謝らなきゃ」
そのときに、自然に、さらりと、それを行動に移せるようになりたい。
心に浮かぶこと。 それが神からなのか、悪魔からなのかを見分け、聞き分けるのは 容易なこともあるし、困難なこともある。 聖書を読み、イエスの御名によっていつも祈っていると、 聞き分けるのは少し容易になる。 神の声の「トーン」に慣れるからだ。
羊が、いつも聞いている羊飼いの声を聞き分けるように。
寒い朝。
道を歩いていた。
いつもの道だ。
いつもの小さな交差点にさしかかり、ちらっと歩行者用信号を見る。
青だ。
横断歩道を歩きながら、私は証券会社のことを考え、
よかった探しリースのことを考え、トーキー!のことを考えていた。
今年初めてのコートのことを考え、今日の仕事のことを考えていた。
ドン。
ものすごい音がした。
横断歩道を渡っている私のすぐ右、
20cmくらいのところでトラックが急ブレーキをかけたのだ。
トラックは慣性の法則にしたがって前につんのめり、
そして、大きく揺れながら停止した。
私は足がすくんだまま、道路の真ん中に立っていた。
前方不注意のトラックが、
横断している私に気づかずに交差点を曲がって突っ込んで来たのだった。
一瞬の後、私は小走りに横断歩道を渡りきり、
トラックの運転手を見た。
運転手はびっくりしたような、ふぬけたような顔をしていた。
きっと私も同じ顔をしていただろう。
私と運転手はちょっと手であいさつを交わして別れた。
道を歩いていた人は、
大きな音にみな立ち止まって私たちを見ていた。
この全てが、ほんの数秒の間のできごとだった。
停留所でバスを待ちながら、私は考えた。 本当に、ほんの数秒のことだった。 本当に、本当に、ほんの数秒のことだったのだ。 ちょっとしたタイミングで、私は大けがをするか、 へたをしたら死んだかもしれない。 たぶんその自覚もないままに。
バスに揺られながら、神さまに感謝の祈りをしながら、 私は何とも言えない気分を味わっていた。
死というものは、すぐそばにいる。 テレビに登場する「死」のようなドラマチックな音楽も、派手な画面もない。 ただ、死はすぐそばに、静かにいる。
いま、自分が生きていることは、実際、奇跡なのだ。
「ある金持ちの畑が豊作であった。 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。 『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、 穀物や財産はみなそこにしまっておこう。 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分も いっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。 そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
(ルカによる福音書12章16節〜21節より)
「僕」の実感としての神さま。
神さまのことを書こうとするときに思い出すのは、病院のベッドだ。 20代前半のあるとき、ある事情があって、病院に入院していた。 情けない思いと自己嫌悪と将来への不安と…そういうものにひしゃげながら 僕はベッドに寝ていた。 まだ、僕はクリスチャンではなかった。
あるクリスチャンの方からはげましの電話があり、 そのとき聖書の言葉を読んでもらった。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
(イザヤ書41章10節)
僕は「ありがとうございます」と言いながら、泣いていた。 でもそれと同時に「わたしがあなたの神だから」という言葉に反発を感じていた。 「わたしが」の「が」にひっかかっていたのだ。その強さに。
でも、そのとき、僕は、僕の手に、誰かの手が添えられているのを感じた。 もちろん、僕のまわりには誰もいない。誰も見えない。 でも、僕は、僕の手を包み、しっかりと握り、支えてくれる手を感じた。 僕はそのとき思った。
「ああ、あなたが神さまなのですね」
ああ、あなたが、神さまなのですね。 あなたは本当にいらしたのですね。
神さまは、 僕の弱さや情けなさや傲慢さを責めるのではなく、 ただ、その御手をもって僕を包み、支えてくださったのだった。
これが「僕」の実感としての神さまです。
あのとき出会った神さまについて詳しく知るのは また後のこととなります。
駅のベンチに座って思いを巡らす。
祈りの小部屋で祈ることに、どんな意味があるのだろう…。 クリスチャンである私は答えを知っている…。 神さまを知ること、神さまを信じることが大きな解決への一歩だと知っているのに、 それを直接メールの送り手に訴えず、 この世の知識で返事を書くことにどんな意味があるのか…。 「宗教を押し付けないので、いいページです」というメールが来るが、 このメールに喜んでいいのだろうか…。 もしかしたら、きちんと語るべきことを単に水増ししているだけではないか…。 いや、そうではない…。 特に未信者に単に神さまを信じろ、といって何の意味があろうか…。 そうではなくて、相手の立場に立って思いを巡らすところに意味があるのだ…。
多くの思いが心に渦を巻く。 すると、即座に、 大きな声が心の中に響き渡る。
おまえは自分を何だと思っているのか。
いったい誰が主なのか。
すべてのことをつかさどるのは誰か。
あなたはあなたの なすべきことをせよ。
その一声が、議論をするふりをしておじ惑っている私のおそれを吹き飛ばす。
神の声。 聖書を通して感じているあの声、 教会で信徒同士の祈りを通じて耳慣れているあの声、 迷っている羊を集める羊飼いの声、 万軍を指揮する王の声、 そして、放蕩息子をかき抱く父の声。 その声が心の中に響くとき、私は神の存在を深く確信する。