恋人たちは約束したがる

結城浩

1999年の日記からの抜粋です。

目次


祈りながら歩き、歩きながら祈る

祈りながら歩く。歩きながら祈る。 手のひらを上に向け、心を主に注いで祈る。 聖霊の油注ぎを求める。主が私を満たしてくださることを求める。 主よ、私を満たしてください。

クリスチャン(教会)がキリストの花嫁にたとえられていることを思う。 花嫁は花婿から目を離さない。花婿の語る言葉に耳を傾ける。 花婿からの愛を心から求める。

花嫁は花婿をかしらとして仰ぎ、 花婿は花嫁をいのちがけで愛す。

主は私を愛してくださる。 それは私にその資格があるからではなく、ただ主のあわれみと恵みによる。 主は私に愛を注いでくださる。 それによって私は生き、歩み、そして人を愛することができる。 私のうちには愛のかけらもないけれど、 主が私に愛を注いでくださる。

主は救い主。聖め主。贖い主。王の王、主の主。

万物は主によって創られた。 万物はみな主によりたのめ。

主の御名をほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。 自分の問題、思い煩い、悩み、焦り、恐れをすべて主にゆだね、 自分を見るのではなく、主を見上げよう。

「でも」や「やっぱり」や「そんなこといっても」は、もうたくさんだ。 言い訳を考えたりせず、主をほめたたえよう。 小理屈を言ったりせず、主をほめたたえよう。 聖書に書かれた御言葉をそのまま信じ、主にゆだねよう。

ハレルヤ! 主の御名はほむべきかな!


主に感謝

日曜日なので教会で礼拝。 今日は特に神さまの深い臨在の中で礼拝がもたれた。感謝。 参列者それぞれに悔い改め、主の赦しときよめを受け、 新たな油注ぎと力と信仰と恵みをいっぱいに受けるひとときであった。

聖霊さまに触れていただくとき、言うに言われぬ感動がある。 自分の問題に目をとめるのではなく、ただ神さまに目をとめる。 信仰を持って主を仰ぎみ、主に触れていただくとき、 超自然的な力を上から与えられ、大胆に歩むことができるから感謝である。

どんな問題がやってきても、ただ主に信頼すること。 主の前にへりくだること。 罪は、どんなに小さな罪でも、主に告白してゆるしていただくこと。 他の人を赦すこと。 自分が人から傷を受けたならば、それを恨みに結晶させず、主に明け渡すこと。 主によって完全ないやしを信じて求めること。 主を疑わないこと。 聖書の言葉通りに神を信じ続けること。 聖書をよく読み、信仰をもって祈ること。 自分の肉も魂も霊も、自分の生活の全領域を主に委ねること。 いつもイエスさまの十字架の信仰にたつこと。 いつも聖書に基づいた信仰にたつこと。

そして、すべての栄光を主にお返しすること。


自己卑下は自分のことしか考えていない

自己卑下は傲慢だ。 「自分は愛されていない」という自分の意見しか聞こうとしないのだから。

他の人が何と言おうと、自分の意見が正しいと考えているのだから。

神さまは「愛している」とおっしゃっている。 自己卑下によってその言葉を退けるのは、 自分に神以上の判断力があると主張していることになる。

謙遜と自己卑下は異なる。 謙遜は自分のことなど忘れているのに、 自己卑下は自分のことしか考えていない。


結城さんは人が恐くなるときってありませんか

結城さんは人が恐くなるときってありませんか?

あります。 打ち合わせに行きたくなかったり、人と会いたくなかったり。 私の場合にはたいていは「自意識過剰」のときが多いようです。 「これしかできていないのに、おめおめと打ち合わせに出られない」 とか思っちゃうのですね。 自分のメンツとか、自分のプライド、自分のちっぽけな思いを守ろうとするとき、 なぜか人が恐くなります。 そういうときは、家内にそう言います。「行きたくない」って。 家内は「大丈夫。外に一歩出ると気分がカチッと変わるわ」とはげましてくれます。 そして、そのとおりになります。

結城さんは信仰をもっているから強いのですか?

私はそんなに強くはありません。 けれども、もし強いところがあったとしたら、 それは神さまが働かれているから強いのでしょう。 私が信仰をもっているから強い、というのは少し違っていて、 神さまが働いておられるから、強いのだと思います。 私の側で意識しているのは、 神さまに心を開き、神さまにおまかせするということです。

結城さんはいつ眠っているんですか?

これ、よく聞かれるんですけど…(^_^; だいたいは夜眠っています。 睡眠時間は5〜6時間だと思います。 家族が眠ってから寝て、家族が起きるよりも早く起きるのは確かです(^_^)

悪魔っているんですか?

います。聖書に書いてある通りです。 悪魔も悪霊もいます。 だから、オカルトは絶対やっちゃ駄目です。 コックリさんとか、占いとかね。 面白半分でやっている人も、今すぐやめましょう。


親から受けた呪いから解放されるには

私たちの多くは「親からの呪い」を受けている。

「おまえは駄目だ」 「おまえは何をしても役に立たない」 「おまえが何を考えても、ものにはならない」 「親戚の○○さんも○○という病気で亡くなったから、 おまえもきっと…」 「結局のところ、おまえは何も成し遂げたことはないじゃないか」 「おまえは理屈ばかりで、社会に出て働いているものの気持ちはわからんのだ」

私たちの多くは、 そのような呪い、そのようなネガティブなメッセージを親から受ける。 あるときにははっきりと言葉で、あるときには態度で、 そのようなメッセージを受ける。

そして、恐ろしいことに、私たちの多くは、そのような親からの呪いを そっくり自分のものとして受け入れてしまっている。

「そうだ、わたしは駄目なんだ」 「そうだ、わたしは何をしても役に立たないんだ」 「そうだ、わたしは…」

このようなネガティブなメッセージ、 このような呪いは、親が現在生きているかどうか、 親と現在一緒に住んでいるかどうかには関係がない。

私たちが呪いを自分のうちに感じるとき、というのは 親が直接、私たちに語りかけるときとは限らないのだ。 語るのは私たちの記憶だ。 私たちの記憶のうちの親が(あるいは、ぼんやりと親のような何かが) 私たちに語っているのだ。

親が眼前にいなくても、あるいは親が他界していても、 親の呪いは生きていて、私たちの生活に影響を与える。

親からの呪いはたいてい、理不尽で論証も何もできない。 呪いやネガティブなメッセージは根拠が薄弱なのに、 ただ、なぜか、自分の心の奥に染みついて、 自分の人生の通奏低音になってしまっている。

私は、そのような呪いは、よくないものだと思う。 そして、そのようないわれのない呪いは打ち砕くことができる。

この世の親から、本当の親に「親替え」をすればいいのだ。 私たちの本当の親、天の父なる神さまに「親替え」をすれば、 私たちの呪いを打ち砕くことができるのだ。

神さまは私たちを個別の人格としてお作りになった。 いわれのない呪いで親の人生に縛りつけるためではない。 神を信じ、人を愛し、実り多き人生を送るために神さまは私たちをお作りになった。 誰のコピーでもなく、誰のまねごとでもなく、 私たち一人一人がユニークな存在として生きるのだ。 私たち一人一人の人生がかけがえのないものとして築かれるのだ。

親の呪いは親のせいばかりではない、ということも忘れてはならない。 親自身も傷を負い、また親の親からの呪いを引きずってきている。 そしてまたその親はその親から…そして傷はアダムに至る。 でも、イエスキリストの御業、イエスキリストの十字架によって、 呪いの連鎖は自分のところで断ち切ることができる。 イエスの御名には権威があるからだ。

聖書を通して、私たちは「神」が私たちひとりびとりを深く愛してくださることを知る。 そして、私たちの罪、私たちの傷、私たちの呪いを、 イエスさまはすべて背負って十字架にかかってくださったのだ。 イエスキリストを信じるということは、 イエスキリストが自分の罪を背負ってくださったのを信じることだ。

イエスさまに自分の罪を背負っていただき、神さまからゆるしていただく。 そして親から受けた呪いから、親から受けてきたネガティブなメッセージから解放される。 イエスの御名の権威によって、そのような解放を宣言する。 …そうすると、私たちはふと気付くのだ。 いままで恨んでいた親、憎しみをもってみていた親だが、 その親もまた、自分と同じように傷を負っていることに。 罪を自分で背負ってしまい、苦しみもがいている姿に気付くのだ。

わたしが神さまからいやされ、ゆるされるとき、 今度はわたしに呪いをかけていた親をゆるすことができる。 わたしにネガティブなメッセージを送っていた親… 苦しみのあまり、わたしにネガティブなメッセージを送らざるを得なかった親… その親を「ゆるします」と神さまに向かって宣言することができる。

自分が「被害を受けた」「打ちひしがれた」「呪いを受けた」「傷つけられた」 という被害者でいるうちは、状況の半分も見えていない。 神さまの恵みと御力によって傷がいやされ、束縛から解放されたとき、 はじめて、もう少し状況を広い見地から見ることができる。 いつくしみの目で「加害者」を見ることができる。

そのような呪いからの解放、束縛からの解放、傷のいやし、愛の回復は、 決して人間の力、人間の努力、人間の修行で達成できるものではない。

それはすべて、聖書に書かれている本当の神さまがなさることなのだ。 神さまがどうして、一人息子であるイエスさまを十字架にかけたのかを、どうか悟ってほしい。 それは、あなたが呪いから解放され、神さまからの愛を受けるためなのだから。


「私は愛されていない」という思いから「憎しみ」に至るプロセスについて

昨日、すごく体調が悪くなり、午後から家で寝込んでいた。 寝込んでいると妙に心が騒ぎ、以下のようなメモを書いていた。 (なお、以下の文章は、誰か特定個人に対する皮肉やあてつけではありません。念のため)

「私は愛されていない」という思いから「憎しみ」に至るプロセスについて

(1) 「私は愛されていない」

「私は愛されていない」という気持ち、感情はさまざまに言い換えることができる。
「誰も私を大事にしてくれない」
「私を受け入れてくれる人はいない」
「何で私はほめられないんだろう」
「誰も私をわかってくれない」
「私のいうことを聞いてよ」

この感情は不快なものだから、さまざまなアクションを取りたくなる。 例えば、典型的なものは以下の二つである。

(A) あきらめる
(B) 人に期待する

(A) あきらめる

「しょせん、人生はそんなものだ」
「私はこれまでもずっとこうだった、だから一生このままだろう」
「期待するから失望が生まれるのだ」

シニカルな視線、クールで厭世的、評論家的な態度。

しかし、まったく自分と異なる人生を歩んでいる人を見るとむかむかしてくる。 自分が得られないものをやすやすと得ている人がいるのを見ると、 憎しみがわいてくる。

そのような相手を汚し、自分の不幸と同じレベルまで引き下げてやりたくなる。 しかし、たとえその引き下げに成功したとしても、 それだけ自分に注がれる愛が増えるわけではない。

(B) 人に期待する

これはまた、次の二つに分けられる。
(i) 他の人に期待する
(ii) 自分に期待する

(i) 他の人に期待する

「あの人から大事にしてもらおう」
「あの人に受け入れてもらおう」
「あのグループからほめてもらおう」
「あの人たちに聞いてもらおう」

この気持ちは、時に、自分の「属性」の強化につながる。 「これだけ尽くせば大事にしてもらえるだろう」 「これだけがんばったんだからほめてもらえるだろう」 「相手の話をこれだけ聞いたのだから、自分も聞いてもらえるだろう」 「私はこんなに偉いのだから、みんな尊敬を示してくれるだろう」

でも普通は、属性(お金、知識、能力、奉仕…)によって人が人を愛するわけではない。 また、もしも属性によって得られる愛ならば、その属性を失ったとき、 愛もまた失われてしまう。

属性の強化によっては時に人は確かに賞賛を与えてくれる。 でもそれは自分自身をまるごと愛してくれる愛ではない。

そして、愛を得るための属性確保に費やされた努力の分だけ、 愛が失われたときの恨みや憎しみも大きくなる。

あるいは人の評価が変化して、 自分への愛(誤解した賞賛)が失われるのではないか、 という恐れが生じることもあるだろう。

(ii) 自分に期待する

「私は自分のやっていることを知っている。他の誰にほめられなくてもかまわない」
「自分で自分をほめるだけで私は幸せだ」
「私は一人で完全だ。ほかの人はどうでもいい」

他者を見くびり、他者を無視し、自分の世界を小さく区切る箱庭的な平安。

しかし、人間は一人で自足するようには作られていない。 少なくとも長い時間を一人で過ごすようには作られていない。 何らかの人格的な交わりを欲する。

自分自身が自分をまるごと愛しきれないことに気がつくと、 不思議なことに、それは他者への憎しみに変化していく。 特に、自分が耐えた状況に耐えられないでいる弱い人に対して、 過酷な刃を向けてしまう。(これはうまく説明できないけれど)

また、完全な自分でいられないとき、 自分の中の不完全さと同じ性質の不完全さを他者の中に見出し、 そこに過酷な刃を向けてしまう。 一言で言えば、 「自己の中のゆるされていない罪を他者の中に見出して断罪する」ようだ。 きっと、自分を責める代わりに他の人を責めているのだろう。

ところで…そもそも、このような悲しい流れはなぜ起きるのだろう。 それは「愛」を人と人の間で奪い合っているからではないだろうか。 無尽蔵に愛を注いでくださる神さまからの愛を受けずに、 人から愛を奪い取ろうとするからではないか。

(A)の「あきらめ」
(i)の「他人に期待」
(ii)の「自分に期待」

このいずれも、神さまを知らなかったときの自分の姿である。 いや、いまでも(i)についてはときどきおちいる穴かもしれない。 頑張って仕事をすれば報われる、みたいな。

「私は愛されていない」から 「いや、神さまは私を愛していてくださる」へ、 いつも自分の視線を変えることが必要だ。 人を見、人に期待する視線から、神さまを見上げる視線への変更。 自分の内面を見つめて自分だけの世界にこもるのをやめ、 神さまを仰ぎ、神さまに従う態度。

そして神さまからの無条件の愛をいっぱいに受けたとき、 はじめて、他の人を受け入れることができる。

自分がゆるされた分だけ人をゆるし、 自分が神さまに聞いていただいた分だけ人の話を聞き、 神さまから受け取った愛の分だけ、人を愛することができる。

人は努力して幸福になることはできない。 人は修行で愛されるようになるわけではない。

聖書に書かれている本当の神さまの存在に気づき、 自分の身勝手さを悔い改め、神さまに心を開く。 そして神さまから無条件の愛、無尽蔵の愛をたっぷり受け取る。 そして十分満たされることで、他の人にその愛をたっぷり注ぐことができる。 その愛のあり方が完全に示されているのが、イエスキリストの十字架である。

人が愛し合うようになるためには、人だけを見ていては駄目だ。 人の中から愛が出てくるのではないからだ。 聖書の神さまこそが愛なのだから。

私たち一人びとりが神さまと正しい関係にあるときはじめて、 私たちは互いに正しい関係に入ることができる。 (主はぶどうの木、私たちはその枝です) 神さまを抜きにして、 私たちが互いに正しい関係(愛の関係)を持とうとしても、 それは無謀というものだ。

人生の鍵は「愛」だ。 それも「聖書の神さまの愛」だ。

一言祈ります。

ハレルヤ、天の父なる神さま。あなたの御名を賛美します。 あなたは素晴らしい方、あなたにできないことは何一つありません。 あなたは愛なるお方。私たち一人びとりに無尽蔵の愛を注いでくださるお方。 あなたの御名を心からほめたたえます。

「愛」についてつたない文章を書きましたが、 どうぞ主がこの小さき者の文章を整え、用いてください。 自分の思いで語った不適切な表現を隠してください。 どうか一人でも多くの方が神さまに気がつき、 主からの愛に満たされる人生へと歩み出すことができますように。

あなたが絶えずノックしていてくださる心の扉を開き、 イエスさまを心の王座へと迎えることができますように。

にせものの愛、偽りの教えに満ちている現代ですが、 あなたからの「聖書」が与えられている恵みを心から感謝します。 ひとりびとりが、 聖書を通してあなたのことをもっと知り、 イエスさまに示されている愛を知り、 あなたからの愛をたっぷりと受けることができますように。

そして、あなたから受けた愛を他の人と分かち合うことができますように。

この整わぬ祈りを、 結城のページのために祈ってくださる兄弟姉妹の祈りにあわせて、 イエスキリストの御名を通して神さまの御前におささげいたします。

アーメン。


ほほう、きれいな指ですなあ

クリスチャンは、キリストを指さしている。

  「あの方が、私の救い主です。あの方を見てください」

でも、なぜか、多くの人はキリストを指差す「指」だけを見てしまう。

  「ほほう、きれいな指ですなあ」

誤解を解こうとして大きな声でクリスチャンが叫ぶ。

  「ちがうんです、ちがうんです。私の指なんかじゃなく、
   私の指差している先にいらっしゃるあの方に気付いてください」

でも、なぜか、多くの人はその声が意味するところを悟ってくれない。

  「よく通る、きれいな声ですなあ」

それにも関わらず、 クリスチャンは今日もキリストをしっかりと指さして、 大きな声でキリストを宣べ伝える。

  「あの方が、私の救い主なんです。あの方を見てください。
   私ではなく、あの方を見てください」


あなたの御心のままに私を変えてください

C.S.ルイスの『キリスト教の精髄』を読んでいた。 道徳の問題に関連してルイスは艦隊の例を出していた。

艦隊の航海が成功するためには、 船が互いの関係を正しく保ちつつ航海するとともに、 船の内部も正しく整備されていなければならない。

道徳の問題も同じだ。

社会生活が平和に営まれるためには、 人間同士が互いによい関係を保つとともに、 個々人の内部もよく整備されている必要がある。

この「互いによい関係」と「個別に整えられる」というのは 実は片方だけでは意味がない。 船が整備されていなければ、 あっちこっちの船にぶつかってしまい、 全体としてもうまく航海できないからだ。 また個々の船が整備されていても、 みなが勝手な方向に進んでいては艦隊としての体をなさない。

これは人間社会においても同じで、 つまり、「人に迷惑をかけなければ、(自分の内部で)何をしてもよい」 というのは間違っている考え方なのだ。

ルイスはさらに、もう一つの観点を持ち出してくる。 個々の船がよく整備され、また互いの船の関係も良好であるとして、 「艦隊全体としてどこに向かっているのか」ということだ。 艦隊全体が南極に向かうべきだったのに、 気が付いたら北極海をうろうろしていたら、成功した航海とはいえない。

ここから先は私が思ったこと。

多くの人は、他の人との関係を良好に保ちたいと願う。 でもまた、多くの人は、自分自身は変わりたくないと思う。 自分のやり方、自分の考え方を変えたくないと思う。 (でも、他の人は変えたい、と思う) なかなかやっかいなものだ。

結婚する前の彼女(現在の家内)が祈っている祈りを聞いて、 非常に驚いたことがある。 そのときの彼女の祈りは、 「神さま。あなたの御心のままに私を変えてください」 というものであったから。

そうか。わたしを造ったのは神さまであったのだ。 神さまが私をお造りになったのだから、 神さまが御心のままに私を変えることもできるのだ。


不安のような心配事のような

仕事のことで、何とも表現できない気分が消えない。 不安のような心配事のような。 今朝、心に浮かぶまま家内にしゃべってみる。 家内はふんふんと聞いていて、別にコメントも何も言わなかったのだが、 いつのまにか私の方が落ち着いてきた。ちょっと不思議。

落ち着いてくると、何とも表現できない気持ちが少し表現できるようになる。

・仕事そのものをやろうとせず、自分の身を守ろうとしていること。
・意見を言ってくれる人の言葉を情報として受け取らず、自分に対する非難として受け取っていること。
・自分の中に「問題をうまく取り扱えていない」という思いがあり、それがきちんと考える妨げになっていること。

という感じだ。 いわば、重たい剣を両手で握り締め、 ねじれた姿勢でダンスを踊っていたのである。


失敗しちゃったら

今日、息子はゆでたまごの殻をむいていた。 殻をごみ箱に捨てようとして、うっかりごみ箱の外に大半をこぼしてしまった。 すまなそうな顔、どうしたらいいのかわからない顔をして私を向くので、 「こぼしちゃったの?」と聞く。 「うん」と答える。 「じゃあ、いっしょに片づけようか」と言うと、 「うん」と答えていっしょに片づけはじめる。 片づけながら、静かな声で、 「失敗しちゃったら、もう一度やりなおせばいいんだよ」と私が言うと、 「どうやったら、やりなおせるの」と聞き返す。 私はにっこりして、 「今やってるじゃない。こぼれちゃったのを拾って、もう一度捨てるのさ」と言う。 息子は「ふうん」と答える。


物事はあなたの信じる信仰の通りになる

「祈り」はとても素晴らしいものだ。 神さまに直接お話できる道として備えられている「祈り」ほど強力なものはない。

「祈っても何も変わらない」とか、 「祈りは何の役にもたたない」とか、 「祈りには何の力も意味もない」とか思う方が数多くいるかもしれない。 しかし、物事はあなたの信じる信仰の通りになるのだ。

他の人がどう思うか、他の人がどう感じるか、はいったん脇に置いておき、 自分の願いをそのまま神さまにお伝えしよう。 自分の悩みや苦しみ、現在の必要を神さまにそのままお話しよう。 神さまの御力を過小評価するのをやめよう。 自分の考えで神さまをコントロールするのをやめよう。

まず、自分と神さまのしっかりした一対一の関係を築こう。 そして神さまの命令の通りに神を信じ、人を愛そう。 イエスさまの十字架のうちにとどまり、イエスさまの福音を大胆にのべ伝えよう。

クリスチャンでない方でも、神さまに祈ることはよいことだ、と私は思っている。 しかしその場合でも「信じて祈る」という態度はとても大事だ。 それから、もちろん、聖書に示されている唯一の神に祈ることが大事。 仏像とか御札とかそういうものを拝まないようにしよう。 以下の「祈りの心がけ」のリンクもご参考にどうぞ。


夫婦のトラブルの原因は


教会での結婚式について

ノンクリスチャンであっても「教会で結婚式を挙げる」人は多いと思います。 神さまを知らなくても、礼拝に出たことがなくても、聖書を読んだことがなくても、 結婚式を挙げるなら「やっぱり教会」と思っている人は多いと思います。 (教会がノンクリスチャンの結婚式を行なっていいのだろうか、  という問題もあるのですが、ここではふれません)

教会で結婚式をあげたがるのは、 ロマンチックな雰囲気や神聖な感じを求めて、なのかな?と想像します。 でもそこには微妙なものがあります。 ノンクリスチャンは確かに神さまのことは知らないわけですが 「教会での結婚式」を求める奥のところには、 不思議な知恵があるように思います。

C.S.ルイスも書いているのですが、恋人どうしは自然に「約束したがる」ものです。 「誓う」とか「約束する」というのは人生で本当に大きな意味を持ちます。 ノンクリスチャンであっても、 結婚は重大な約束であり、 何か人間を超えて確固たる存在の前で約束しなければならない、 と感じているのではないでしょうか。 つまり、ノンクリスチャンであっても、 キリスト教の結婚観である「結婚は契約」を直観で感じているのではないでしょうか。

結婚式に参列する場合、あるいは自分自身が結婚する場合、

「誰に向かって何を誓おうとしているのだろう」 「結婚の本当の意味は何だろう」

という思いを持っていただきたいなあと願っています。

結婚という約束を軽んじてはいけません。


「にもかかわらず」の愛


約束をして、それを守る(結婚式)

洗礼式って、結婚式ととても似ている。 クリスチャン(教会)はキリストの花嫁なのだから、当然だけれど。

両方とも、「神」と「人」の前での宣言と誓約がある。 両方とも、古い自分が過ぎ去り、新しい自分がやってくる。

そうか、誓約って「神に対して」と「人に対して」の両方なのだね。

ねえねえ、 「約束をして、それを守る」というのは聖書によく出てくるパターンだと思いません? (「預言とその成就」がその典型) きっと「約束を守る」っていうのは、深い意味があるんですよ。 私たちが道徳的に考える以上の霊的な意味が。

恋人たちは約束をしたがる。結婚も約束の一種だ。 すべての商売は約束(契約)を基本としている。 信頼関係は約束を守るところから生まれる。

「口で告白する」というのも約束と関係がありそうだな。 救いも告白からだし(ローマ10:10)、告白は約束の表明でもあり、 また告白は意志の現れでもあるし。


コンピュータの本を出版したいというあなたへ

(以下の文章は、コンピュータの本を出版したいという方から来たメールへの返事です)

結城です。書籍のご購入感謝します。 また、結城の仕事への励ましの言葉もありがとうございます。

プログラミングの本を出版するまでの行程についてのご質問ですね。 私は、確かに書籍を出版していますが、一ライターにすぎませんので、 以下の情報は参考程度に考えておいてください。

結城が最初に商業的な原稿を書いたのは10年以上前のことです。 それは、あるコンピュータ雑誌への「投稿記事」でした。 雑誌の記事募集に応じて、プログラミングに関する記事を一般投稿し、 その原稿を読んだ編集者の方から雑誌連載をしないかというお誘いがあったのでした。

書籍を出すきっかけとなったのは、細かい経緯は覚えていませんが… お付き合いのあった月刊誌の編集者を通して書籍部の編集長とお会いし、 書籍を出版する話になったように思います。 最初の本『C言語プログラミングのエッセンス』は、 雑誌連載を加筆修正してまとめたものでした。

あなたが書籍を出版なさりたいのなら、方法の一つとしては、 企画書や書籍原稿(例えば1章分)を編集部へ持ち込むやり方があると思います。 もちろん、持ち込みといってもいきなり編集部へ行くわけではなく、 電子メールなり手紙なりで編集部にあなたの意図を告げてコンタクトをとるわけですが。

書籍出版に関して参考になるいい情報をご紹介します。 オライリーのページに執筆著者募集のご案内があり、 そこに本が作られていく過程が詳しく書かれています。 これはオライリー社だけにあてはまるものではないと思いますので、 ぜひご参考に。

蛇足ながら、本を書くことについて少し。

もしあなたが、 本として書くべき内容を持ち、書く技術を持っているなら、 ぜひ本を書いてください。 特に「よい本」ならば、努力を惜しまず書いてください。 よい本は、いつの時代でも、どの分野でも必要とされています。

本を書くのは、本を読むのとは異質の仕事です。 それはフランス料理を作るのと食べるのが違うのと同じくらい違うのでしょう。 想像以上に大変です。でも、想像以上に面白いです。

短期的な自分の道と、長期的な自分の道の両方を見ましょう。 はじめから全部が全部うまく行くわけではありません。 失敗しても簡単にはあきらめないでください。 また最初は自分の方向と少しずれていても、チャンスは生かしましょう。

とりあえず、以上です。 あなたのご健闘をお祈りしています。