別世界に行き、
そして帰ってくるのが
ファンタジー

結城浩

1997年5月14日

原稿を書いたり、プログラムを書いたりしていると、 自分が今どこにいるのか忘れていることがある。 「ふう、できた」と思って顔を上げ、 「あ、そうだ、いま自分は電車の中だったのだ」とか、 「そうだった、会社にいたのだった」とびっくりするのだ。 知人にこの話をすると、 「すごい集中力ですね」 とほめられる。 ほめられるのはうれしいが、 でも、集中力なんていうのは、 自分で努力して得たものや訓練して得たものではないから、 ほめられてもね、という感じもする。

奥さんの解説によると、 ファンタジーの基本的構造というのは、 「別世界に行き、そして帰ってくる」というものだそうだ。 それはあるときは「死と再生」というかたちになるし、 またあるときは「地下へもぐり、また地上へ」というかたちかもしれない。 「井戸を通ってむこうへ行き、また帰ってくる」ときもあるだろう。 どんな場合でも、 別世界へ行き、そして帰ってくる。帰ってきた後、同じ世界のはずなのに、 何か(自分か世界か)が変わっているというものらしい。ふむ、なるほど。

原稿を書いたり、プログラムを書いたりしている最中というのは、 私の心はどこか別世界に飛んでいっているらしい。 文章の国、あるいはプログラムの国へ。 右脳と左脳の谷間を抜け、 データ構造の森に分け入り、 また帰ってくる。 そして「あ、電車の中にいたのだ」とびっくりする。

こころゆくまで別世界で活動し、 きちんと帰ってくる。 それこそが日々の喜び、という感じがするのですが、 これを読んでいるあなたはどう思いますか。