ヒューマニズムとキリスト教

結城浩

1999年9月8日

ヒューマニズムは人間を第一とする。 キリスト教は神さまを第一とする。 その点では、 ヒューマニズムとキリスト教はまっこうから対立する。

でも、キリスト教が人間を大切にしないのか、というと絶対にそんなことはない。 クリスチャンは隣人を愛せよ、と命じられている。 クリスチャンは、神と人を愛さなくてはならないのだ。

人を愛するのは神さまの命令だ。

というと違和感を感じる人もいる。 「愛するっていうのは心のうちから湧いてくる気持ちであって、 命令に従って愛するというのは本物の愛じゃない」 と思う人がいる。

私は違うように思う。 心のうちから湧いてくる気持ちにしたがって愛せる相手って、 正直言ってすごく少ない。 しかも、心のうちから湧いてくる気持ちにしたがって <いつでも>愛せる相手となると皆無に近い。 そんなことはないですか。私だけかもしれませんが(^_^;

人間って(いや、私って)愛の足りない存在なのだ。 命じられなければ、思い起こさなければ、 愛を忘れている存在なのだ。

そういう現実に立って、でも、いかに生きるべきかを思うとき、 私は「聖書」というのは「現実的で、しかも楽観的」な指針を与えてくれるように思う。 私には愛がない(現実)、だが神がおられるから大丈夫(楽観的)という立場だ。 「人は自然に人を愛することができる」というような非現実的な立場でもなく、 「私はもう何をやってもだめなのだ」というような悲観的な立場でもない。

ええと、何でヒューマニズムの話をはじめたんだっけ。 そうだ、電車の吊り広告だ。

電車では、宗教関係の吊り広告は出せないのだそうだ。 でも本の広告ならよいらしい。 思想的な本、宗教的な本の広告を見るとき、 私はよく「キーワードは何だろう」と思う。

キリスト教の場合には、 キーワードは「神」「イエス・キリスト」「愛」「聖書」などであろう。 仏教系の場合には、どうも「人間」がキーワードらしい。 「ヒューマンドキュメント」「人間がいます」「ヒューマニズム」 というキーワードが広告で掲げられている。 今度電車で吊り広告を見たときには「キーワードは何か」をチェックしてみてください。

注:私は上記で「ヒューマニズム」という言葉を、 「人間を何よりも優先させ、人間を第一とする考え方」という意味で使っています。 「ヒューマニズム」という言葉は「なんとなく心地よい」言葉であり、意味があいまいになりがちです。 実際に人の口から発せられたときには「それはどういう意味ですか」と確認するのがよいと私は思っています。