怒りと祈り

結城浩

2001年6月11日

連載原稿は出したし、デザインパターンFAQも収束に向かおうとしているし、 今日の「お仕事」はもう終わり終わり。 神さまに感謝し、よく冷えた白ワインを傾けることにしよう。 ワインをコップに入れ、アップルジュースで割り、 大きな氷をぼんぼんと入れるという乱暴な飲み方。 飲みながら、C.S.ルイスの『サルカンドラ』をぱらぱらと読む。 私の読書の範囲はとても偏っていて、またとても狭い。 同じ本を何度も何度も読んでいる。 『サルカンドラ』なんて何回読んだだろう。

世の中を生きていると、腹の立つこともあれば、いらいらすることもある。 腹が立ったりいらいらしたりするのはしょうがないとしても、 その状態で「あり続ける」かどうかは一考の余地がある。 一言で言えば、腹を立てて時間を過ごすには、一生は短かすぎるということだ。 腹を立てるのは感情の問題だから、その瞬間はしょうがない、としよう。 でも腹を立て続けるのはもったいない。 いらいらしてすごすのは時間の無駄だ。 怒りは何も生み出さない (もちろん、時には正当な怒り、愛から生じる怒りというものもありうる。 しかしそれは割合としてはとても少ないのではないか)。

怒るとき、怒りつづけたくなるときというのは 「自分にはそのような怒りを持つ権利がある」 という意識が根底にあるのではないか。 でも、本当かな。

先日、教会で礼拝をしているときにふと心に浮かんだこと。

ろうそくの光を探しているとき、周りを電灯で明るくしたら、
かえって本当の光が見えなくなる。
逆に周りを暗くしたほうが、本当の光が見つかる。
たとえそれがどんなに小さい光でも。

神さまを求める心、 自分の救いを求める心、 自分の現在の状態から脱出する道を求める心があるとき、 本物の救いである神さま以外で心を満たそうとしても駄目だ。 かえって、救いから遠ざかってしまう。 ひとときは気分がまぎれたとしても、 根本的な解決がなされていなければ、 あっという間にもとの木阿弥。 状況はさっぱり変化しない。

ひとときはさびしくても、しばらくは進む道がはっきりしなくても、 自分の信仰を堅く持って、 たった一人の救い主、イエスさまのことをしっかりと仰いで、 求めているほうがよいのではないか。 神さまの御声は最初はか細く聞こえるかもしれない。 けれどもそれは本当の導きなのだ。 御声がか細く聞こえるのは、神さまの声が小さいのではなく、 自分の霊の耳が開かれていないからだ。

信仰は聞くことから始まる。 聖書を開いて神さまの御声を聞く。 ほかならぬ天地創造の神さまが、 今、ほかならぬ小さき自分と対話をなさろうとしている。 神さまに心を開き、耳をよくすまし、神さまの御声を聞く。 信仰は聞くことから始まる。

たった一人で祈るとき、誰に何を遠慮しよう。 自分の本音の祈りを神さまにおささげしよう。 しかしその前に神さまの御名を賛美しよう。 神さまがこれまで自分になしてくださったことを1つ1つ思い出し、1つ1つ感謝しよう。 そう、感謝しよう。自分を、いま、この場に生かしてくださっている神さまに感謝しよう。 たしかにつらいことはたくさんあるかもしれない。とほうにくれることもたくさんあるかもしれない。 でも、でも、神さまに感謝しよう。もっと感謝しよう。 そして神さまに祈りをささげ、神さまの御声に耳をすまそう。