世の中にはいろんな人がいる

結城浩

2003年3月21日

ねえ。

と、わたしは、思いつくまま長男に話しかける。

世の中にはいろんな人がいるよ。 本当にいろんな人がいる。 世の中には、うまく人とやりとりすることができなかったり、 自分の気持ちを素直に表現したりすることが苦手な人もいる。

うれしいときにうれしいという。 かなしいときにかなしいという。 よいことをしてもらったり、ほめられたりしたときに、ありがとうという。 ひどいことをされたら、やめてくれ、という。 そういうシンプルでストレートな表現がどうしてもできないひとは世の中にたくさんいる。

さらに、 自分の気持ちを他の人に伝えることがうまくできずに乱暴な言葉を使ったり、 言葉だけではなく乱暴な行為におよぶ人もいるかもしれない。 何もできずに他の人とのかかわりが切れてしまうくらいなら、 乱暴な行為によって他の人と切り結んだほうがよい、と感じているのかもしれない。 乱暴なことをしたら、嫌われたり、文句を言われたりするだろう。 けれども、そういういやなやりとりであっても、 人とのかかわりがなくなってしまうよりはましだ、 と感じているのかもしれない。

つまり、うれしい・かなしい・ありがとう・やめてくれ…という言葉が言葉にならず、 おもわず握りこぶしになってしまう人がいるのだ。 でも、そういう人はおうおうにして嫌われる。 そして悪循環におちいる。

だから、もしもそういう人を見かけたら、 その人のために祈らなければならない。 直接やりとりできればよいのかもしれないが、 なかなかそうはできないことも多いだろう。 直接やりとりしない方がよい場合もある。 けれでも、その人のために祈ることはできる。 それは、相手を見下す気持ちからであってはいけない。 自分は安全な場所にいて相手を救ってあげるという気持ちとも違う。 その人の姿は、ほんのちょっとしたことで、自分の姿ともなりうるのだ。 自分がその人のために祈るのは、自分のためでもあるのだ。 何よりも、祈りは、自分とその人に神さまが関わってくださることなのだ。

そしてまた。 その人は、乱暴しながら苦しんでいるかもしれない。 他人を傷つけながら自分も傷つけているのかもしれない。 他人や自分を傷つけることでしか「生」を感じ取れなくなっているのかもしれない。 だから、その人のために祈らなければならない。 傷があるなら、癒されるように。 孤独を感じているなら、必要な慰めが与えられるように。 失望しているなら、希望が与えられるようにと、 神さまに向かって祈らなければならないのだ。