真面目ゆえの苦しみ

結城浩

2000年7月14日

朝、ファミリーレストランで原稿書き。 書いても書いてもやることあるなあ、ふみい…。

仕事そのものがうまく行かないことはそれほど苦しくないのだけれど、 仕事がうまく行かないのをねたにして自分が自分を攻撃する声を聞くのは苦しいものだ。 マジメにそういう声に耳を傾けるときも必要かもしれないけれど、 適当にやり過ごすときも必要である。

結城のところにはいろんな方からいろんなメールがやってくる。 それを読んでいると、真面目で苦しんでいる人がとても多いように感じる。 社会のちゃらんぽらんさや、職場の同僚のいい加減さや、 自分のだらしなさ(私にはとうていだらしないとは思えない場合多数あり)に 身もだえせんばかりに苦しんでいる繊細な神経の方々がたくさんいらっしゃる。

真面目なのもいいのだが、自意識が強すぎるのはとても苦しいものである。 私はそういう方の気持ちがほんとうによくわかる(ような気がする)。 私自身がまったくもってそういう性格だからだ。 気分転換しようとか、気を楽にしようとかするときも、 真面目に気分転換したり、 一生懸命気を楽にしようとする性格なのだ。 やれやれ。

そういう性格はやっかいなものですが、 その繊細さ(敏感さ)ゆえにできる仕事というものもあって、 単純に対症療法的に性格を変えることは難しい、と私は思っている。 だから、神さまとの交わりが必要なのだ。 祈って、神さまに整えていただくことが必要なのだ。 そうすれば、自分にとって重くてしょうがない性格が、 まさにうまくピタリとはまる時空間があったりするのである。

自分のプライドや自我を捨てるというのは、 スタートのようなゴールのような。 でも、プライドを捨てよう、 自分のプライドを捨てようというのも自意識が強すぎるかもね。 むしろ、自分のことを忘れるほどの何か、が大切なのだろう。 私の場合には文章を書くこと、プログラムを書くことがその一つだが、 もちろん、神さまとの交わりも大事なことだ。 他者への愛を真に求める人は自分のことを忘れていられるのかもしれない。

そういえば、 はちこさんとクララさんが発行している「VIP Family Magazine」の明日の記事(Vol.12)は、 結城の文章「神さまのことを知らなかった頃」になる予定です。 購読申し込みがまだの人は以下から急いでどうぞ。