結城浩
2000年9月5日
頭が何だか煮詰まっているので、ふらふらと出かける。 ふと、大学に行ってみようと思う。 もう十何年も前なのに、大学は何も変わっていない。 雨の中、構内をとぼとぼと歩く。 生協に入る。 足はコンピュータ書籍のコーナーを覚えていて、まっすぐそこに向かう。 つい、自分の本を探す。 棚には二冊しかなくてちょっとがっかり。 でも下を見ると『Java言語プログラミングレッスン』が平積みになっていて、 何だかうれしくなる。げんきんなものだ。 十数年前の自分のような若い人が立ち読みをしている。 自分が本を物色していたコーナーに、自分が書いた本が置いてある。 変な感じ。 大学時代もいろいろあった(ため息)。 あのころは、自分が本を書くなんて一度も考えたことがない。 本を通して、少しは若い人の役にたっているのかなと思うと、素直にうれしい。 立ち読みしている「若い人」へ、 「いま、あなたが考えているあなたの姿がすべてではないよ。 これからもっといろんな自分に出会い、 いま想像もしないような活動をしていくよ」 というエールを送りたくなる。 疲れてるのかな。
大学生の頃は、自分は何をしていたのかなあ。 いま直接的に役に立つ勉強はしていなかったなあ。 結局、いまでも身についていることというのは、 大学で「教えてもらった」ことではなく、 「自分からやった」ことだけだなあ、と思う。 机にかじりついてたくさんたくさん文章を書いたこととか、 コンピュータルームに泊まり込んで端末のキーを叩いたこととか (泊まり込むのはご法度だったから、 夜中にチキンラーメンを持って大学に忍び込んだ。 セキュリティチェックが甘い時代であった<おい)、 同じ学科の仲間と「美しいプログラム」を競ったこととか。 規格にはまった「お勉強」よりも、自分の興味からやろうと思ったことの方が、 はるかにいまの自己の形成に役立っているように思う。 いや、しかし大学の勉強は無駄ではなかった。 それは、むしろ、自分が「体験的に」得たことを整理する場であったかもしれない。 ははあ、 この間コンピュータルームでラーメンをすすりながら悩んだ問題は、 そういうことであったのか。 ふむふむ、そのアルゴリズムにはちゃんと名前がついていたのね。 …授業の中ではそういう思いをいだくことが多かった。
郷愁という感覚。 しかし、それにひたってばかりもいられまい。
さて、次の一歩。