夫婦が別れるのはダンスのパートナーチェンジではない

結城浩

1997年9月2日

離婚についての質問への回答:

不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。 (マタイによる福音書5章31節、32節より)

妻は夫と別れてはいけません。−−−もし別れたのだったら、 結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。 −−−また夫は妻を離別してはいけません。 (コリント人への手紙I 7章10節、11節より)

もはやふたりではなく、ひとりなのです。 …人は神が結び合わせたものを引き離してはなりません。 (マタイによる福音書19章5節、6節より)

離婚に関する聖書の記述の一部を抜粋してみました。 注意しなくてはならないのは、 ここに抜き出した部分だけで判断すべきではなく、 聖書の箇所を調べ、その前後の文脈もきちんと読むべき、 ということです。

聖書は積極的な離婚は勧めていないように読めます。 勧めていないどころか、ほとんど禁じているように読めます。

じゃあ、どんな状況下であっても離婚してはいけないのか? それは聖書に反する行為なのか? と言われれば、結城の聖書理解では何とも言えなくなってしまいます。

個人的な意見としては、 原則として離婚はいけないことである。 本来あるべき姿ではない。 しかし、多分にケースバイケースじゃないのかな、と思わざるを得ない。 このまま結婚生活を続けていたら、 自分の命があぶないとか、 生活が続けていけないとか、 多くの人が不幸になってしまうとか、(具体的にはわからないが) そういう場合には次善の策として離婚という手段もありうるのではないかな、 と思います。

何かそこには単純にルールをあてはめておしまい、 とできないようなものがあるように思います。 聖書はなぜ離婚を勧めないのか、 マタイ19:5、6にあるイエスの言葉は意味が深いように思う。

「もはやふたりではなく、ひとりなのです」

神の前で、また会衆の前で宣言し夫婦になった二人は ふたりではなく、ひとりである。 C.S.ルイスの言葉を借りれば、夫婦が別れるというのは、 ダンスのパートナーをチェンジすることではなく、 体を二つに引き離す外科手術のようなものなのかもしれない。

「離婚は聖書の教えに反するか?」 ということを純粋に神学的に考える研究者はさておき、 普通の人が真剣に「離婚」を考えるときというのは、 けっこうせっぱつまった状況だと思います。 そしてかなりつらい状況だと思います。 いつもならまず第一に相談する配偶者がまさに問題の当事者であり、 相談できない状況だからです。

そばにいて、あなたの話を聞いてくれる人は誰かいるでしょうか。 迷いや愚痴をそのまま聞いてくれる友達や先輩や相談相手は いるでしょうか。そのことが気になります。

答えになっているかなっていないかよくわからなくなりましたが、 ともあれ、あなたのことをお祈りしております。 また、いつでも、気が向いたらメールしてください。