礼拝の日曜日 / 祈りについて

結城浩

2003年6月1日

礼拝。

日曜日は教会に行く。 これは大事なことだと思っている。 行けばよい、というわけではない。 でも、行き続けること、少なくとも教会に行くのが基本であると考えることは大事だ。 教会にいって、神さまを賛美する歌を歌う。 教会にいって、牧師さんのメッセージを聞く。 そして神さまに祈る。 感謝、悔い改め、賛美、願い、…いろんな思いを神さまに捧げ、神様と対話する。 それは一週間をはじめるにあたってよい習慣だと思っている。

信仰を持っていながら、どうしても仕事の都合や家庭の都合(たとえば家族の反対など)で、 教会に出席できない人は、なかなか大変だ。 どうか祈祷会や家庭集会などを通して、クリスチャンとのよき交わりの時がもたれますように。 しかし、いつもよい教会に導かれるようにと祈り、教会の礼拝に出席できるようにと祈ることも大事だ。 そして、教会になかなか出席できないときも、それを欠けと見るのではなく、 祈りのチャンス、伝道のチャンス、別の面で神さまにつながる道を探るチャンスを見ることが大事だと思います。

祈りについて。

私たちは祈るとき、つい自分の望みばかりの祈りになりがちです。 「○○してください」「○○ができますように」「○○が起こりますように」… 神さまに対して願いごとをするのは決していけないことではありません。 しかし、願いごとばかりをする習慣になってしまうのはとてももったいないことです。 神さまを自分の願いをかなえる道具のように考えてしまいがちだからです。 そういう習慣ができてしまうと、簡単に失望が襲ってきます。 「こないだ○○って願ったのに駄目だった。祈りは無駄だ」とか、 「○○してほしいって祈ったのに叶わなかった。神さまは何を考えているんだ」という風に。

神さまに祈るときには、 神さまの主権を認め、神さまが主であることを認めます。 「神さまの御心がなされますように」という祈りはとても大切な祈りです。 たとえば、イエスさまを身ごもるときのマリアさんがそうでした。 「あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38より) それからゲッセマネのイエスさまもそうでした。 「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42より)

神さまの主権を認め、 いったん自分の手から自分の願いを離すのはとても大切なことだと思います。

あなたの今の願いはなんですか。 その願いを自分の手から離して、神さまにお預けしてみてはどうでしょうか。

自分の願いごとが思い描いたまま成就することは、 (意外に思われるかもしれませんが)必ずしもあなたの幸福にはならないかもしれません。 しかし、あなたの願いごとを自分の手から離し、神さまにお預けし、 イエスさまにならって 「神さま。わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」 と祈ることができたなら、きっとすばらしい実を結びます。 聖書の神さまは、最善をなしてくださる方だからです。 私はそのように信じています。