旅の終わり

結城浩

2000年9月29日

私はときどき、こんなことを考える。

私たちが見ているこの世の姿って、何だろう。 私たちが見ている自分の姿って、何だろう。 そんなことを考える。

分子や原子や素粒子のことを考えると、 何だか自分が見ているものが、いつか、はかなく崩れ去り、 夢のように過ぎ去るものだということが、 なぜかしら、よく納得できる。

そうなのだ。 この世のものはみな過ぎ去る。 いま自分のまわりにあるものも、いつか終わりを告げ、消えていく。 この世界全体も、いつかは終わりを告げ、消えていく。 もちろん、それよりずっと前に、自分自身がこの世からは消え去るわけだが。

この世では、私たちはみな旅人である。 はっと気がつくと、私たちはこの世に生まれており、 自分の体というハードウェアが与えられ、 自分の心というソフトウェアが与えられ、 よたよたと、旅を続けている。

この世のものに執着をしてはいけないのは、それが旅を妨げるからだ。 もしも旅人が、山ほどの荷物や使いもしない道具類を抱えて歩いていたら、 それはこっけいな姿だろう。 重たい、疲れた、とうめいていたら、「それはそうだろう」と思うに違いない。 でも、それがこの世での私たちの姿なのではないか。 本来持ち歩くべきではないものまで抱えこみ、自分で勝手に重たがっている。 それが私たちの姿ではないか。

旅人は、我が家へ帰るときを待ち焦がれる。 なつかしの我が家に帰りつくとき、 旅装束を脱ぎ捨て、ぼろぼろになった靴や、 汚れた帽子を捨て、お風呂にざぶんと飛び込んで、本来の自分の姿に返る。 そして、その家には、自分を愛してくれる方がいる。

旅の途中に持っていた物のことなんか、もうすっかり忘れてしまう。 ただ、懐かしい、愛するあの方がいることに満ち足りる。 愛してもらえることに満ち足りる。

この人生で歩んでいくこと、 そして終わりの時に主のみもとへいくことについて、 私はこんなふうに考えているのです。

クリスチャンになったからといって、 すぐさま「よい人間」になるわけではない。 完全無欠の間違いをおかさない人間になるわけではない。 やはり、悩み、傷つき、疲れ、この人生をよたよたと歩いていく。

ただ、クリスチャンは、自分がどこに帰るかを知っている。

天国に入るとき、 私たちは「ただいま」と言うのではないでしょうか。

ただいま、イエスさま。