今日、という日

結城浩

2004年1月12日

昨日の礼拝もたいへん恵まれた。 ほんとうに私たちは、この世では旅人に過ぎないのだと思った。

旅人。

私たちはいつかこの世を通り過ぎていく。 この世自体もまた過ぎ去ってしまう。 はかなく消えるこの世に、必要以上に思いを寄せることは、 いつまでも虹を消さないでおきたいと願ったり、 修学旅行の枕投げをいつまでもやっていたいと思うのに似ている。

虹の美しさを楽しむなというのではない。 枕投げはつまらないというのでもない。 それを必要以上にとどめようとするのは不可能であり、 無為だというのだ。

私たちはこの世でいつか死ぬ。 「いつか」というのは「遠い遠い未来のいつか」という意味ではなく 「自分にわからない いつか」という意味だ。 自分の死はもしかしたら今日かもしれない。明日かもしれない。 でも100年後ではない(すでにそのころは死んでいる)。

私は、死を思うとき、生もまた思う。 自分には、神さまからこの世で時間が与えられている、と思うからだ。 時間が与えられている。それは、限られた時間だ。 神さまが与えてくださる今年。 神さまが与えてくださる今日。 そして今。

神さまのご命令は「神を信じ、人を愛する」ことであり、 「よき知らせ(イエスさまの福音)を知らせる」ことだ。

神さまを信じ、人を愛そう。 イエスさまの十字架を伝えよう。

神さまから与えられた、かけがえのない「今日」という時間に。