バックアップのタイミング
- Backup -

夢空間への招待状

結城浩

「あっ」

大きく叫んだ後、私の声は凍りついた。キーボードの手は硬直し、目は大きく見開かれた。いま消えたディスプレイ同様、頭の中はまっ暗になった。誰かがマシン系統のブレーカを落としたらしい。コンピュータ、ハードディスク、ディスプレイ、モデムの電源がすべて消えてしまったのである。

超一級の非常事態の発生である。

 * * *

私の叫び声に前後して、同じセクションで仕事をしていたプログラマからも叫び声が上がった。彼らも私と同じ電源系統だからだ。十数台のマシンの電源が一斉に落ちたようである。ブレーカ近くにいたスタッフがすぐに電源のようすを調査しはじめた。いままではマシンとキーボードの音だけが響いていたオフィスに急に人間の声が広がりはじめた。

その騒ぎをよそに、私の頭はフル回転で「何日、いや何時間前まで仕事がバックするか」を考えていた。まず最悪の事態として、今の電源ダウンでハードディスク全体が壊れていたとしよう。すると勝負は「最後にフロッピーにバックアップをとったのはいつか」にかかっていることになる。たぶん昨日の昼にとった定時バックアップが最後だから、24時間程度仕事がバックすることになる。昨日から今日にかけて頑張ってたくさんプログラムを書いたが、それはあきらめなくてはならない。壊れたハードディスクを初期化しなおす手間を考えると復旧には結構時間がかかりそうだな。

もし今の電源ダウンで、最後にディスクに書こうとしていたファイル、 record.c だけが壊れていたとしよう。すると勝負は「最後にそのファイルを保存したのはいつか」ということになる。保存した時点でバックアップファイル record.bak が自動的に作られるからだ。たぶん10分前ぐらいに仕事が戻るだけですみそうだな。ファイルをいったんフロッピーにコピーしておいて chkdsk をかける手間くらいですむだろう。

とりあえずバックアップフロッピーを探してみた。確かに昨日の昼に定時バックアップを取っていることを確認して一安心。よしよし、これで昨日より前に仕事がバックすることはない。定時バックアップは一種の保険である。

 * * *

定期的にバックアップを取るときのコツが二つある。一つ目は 仕事が中途であっても取る ということである。つい陥りがちな過ちは、「この機能がうまく動いたところでバックアップしよう」と思ってしまうことだ。こう思ってしまうとバックアップのタイミングを失ってしまう。またあわててキリをつけようとして操作ミスでファイルをクラッシュしてしまうこともある。何を隠そう、私自身がそういうミスを何度もおかしたものだ。バックアップを取るべき時が来たら、仕事をとめてバックアップを取るのが正しい。

定期的にバックアップを取るときのコツの二つ目は、 他のメディアに取る ということである。バックアップを取れと言われて、あわてて同じハードディスクの別のディレクトリにファイルをコピーする人がいる。同じハードディスク内でファイルをコピーしても、それはバックアップにはならない。ハードディスクの管理領域やルートディレクトリが壊れたら、そのハードディスク全体が読めなくなるからだ。バックアップするなら、フロッピーや磁気テープや光磁気ディスクなど、とにかくいま使っているメディア以外にコピーしなくてはならない。

 * * *

電源が復旧した。深呼吸をして自分のマシンを起ち上げ、ファイルが壊れていないかどうかを確認する。ふむ、ファイルは壊れていないようだ。安全のために現在の状態をバックアップしておこう。よしよし。

私がコピーしていると、隣のセクションから友人がニヤニヤしながらやってきた。「電源が落ちたんだって? ファイルは大丈夫かい?」彼のセクションは電源系統が違っているため、ダウンしなかったらしい。彼は私たちの叫び声を聞いて見物にやってきたのだろう。その男は、私たちが復旧しているようすを見て、面白そうにしている。

ややあって、隣のセクションで先ほどの私たちの悲鳴と同じ悲鳴があがった。ブレーカを調整していたスタッフが誤って隣のセクションのブレーカを落としてしまったらしい。ニヤニヤしていた男は顔色を変え、自分の席にあわててもどっていった。

 * * *

バックアップを取るときのコツをもう一つ。 人がクラッシュしているのを見たら、自分のバックアップを開始せよ。

(Oh!PC、1992年10月15日)