異言を伴う聖霊のバプテスマ

結城浩

目次

はじめに

はじめの前に

( この文章は「異言を伴う聖霊のバプテスマ」というタイトルになっていますが、 聖霊のバプテスマのすべてについてバランスよく書かれた文章ではありません。 誤解されがちな「異言」についての記述が中心になっています。 そのことを踏まえた上でお読みいただければ幸いです。 )

この文書の目的

主の御名を賛美します。

この文書は次の以下のことを目的としています。

  • 聖霊と異言に関連した聖書箇所のいくつかを示すこと。
  • 異言に関わる私の体験の要点を示すこと。
  • 異言に関わる私の現在の理解を示すこと。

一つ目は、この文書の「パート1:聖書に書かれていること」に示しました。 ここでは、聖書の解釈はできるだけ避けて、 異言について聖書にはどのように書かれているかを示します(すべてではありません。要点だけです)。 聖書本文の引用はしませんでした。 その箇所の前後の文脈がありますので、ぜひあなたがご自分で聖書を開いてご確認ください。

二つ目は、 この文書の「パート2:私が体験したこと(していること)」に示しました。 パート1とは異なり、こちらは私が体験したことを簡単にまとめてあります。 これはあくまで私の「体験」です。 異言に関して、あるいは聖霊に関して、これらの私の「体験」がどれだけ一般化できるものなのか (つまり「異言というものはいつもこういうものなのだ」と言えるのか)は、 私には判断できません。 ですから、読者のあなたはパート2を一つの「体験」としてお読み下さい。

三つ目は、 この文書の「パート3:異言に関する私の理解」に示しました。 これはあくまで私の「個人的な理解」です。 複数のクリスチャンから受けた質問のメールを元に、 私自身の理解していることを答えています。

異言に関しては、正統的なキリスト教の教会でも意見を異にすることがある、 取り扱いが微妙な話題の一つです。 この文書は、聖書箇所の紹介と、私の個人的な体験と、 私の個人的な理解をのべているにすぎません。 それ以上でも、それ以下でもありません。 お読みになる方の何らかの助けになれば幸いです。

私は一人の信徒にすぎません。 牧師でも神学者でもありません。 間違ったことを語ってしまう可能性も大いにあります。 しかし、もちろん、主にあって、できるかぎり誠実に、 また自分の知り得た範囲で語ろうと思っています。 聖霊様が適切な表現を教えてくださいますように。 もしも、何か誤りや不適切と思われる表現がありましたら、 ぜひお知らせください。

ノンクリスチャンへ

この文書は、クリスチャン向けに書かれています。 そのため、もしもあなたが(まだ)クリスチャンでないならば、 ここに書かれている内容はあまり理解できないかもしれません。 また、あなたの信仰の助けとはならないかもしれません。 どうぞご了承ください。

ここに書かれている内容を知らなくても、 あるいは理解できなくても、 聖書に約束されているイエスさまの救いには何の影響もありません。

クリスチャンへ

ここに書かれている内容はあなたの何かのお役に立つと思って書きました。 しかし、もしこの文書があなたの信仰の助けにならないなら、 無視してくだされば幸いです。

ここに書かれている内容を知らなくても、 あるいは理解できなくても、 聖書に約束されているイエスさまの救いには何の影響もありません。

一方、もしこの文書があなたの信仰の助けとなるなら、 この文章を必要としていると思われる、 お知り合いのクリスチャンにもご紹介くださればありがたいです。

このページの取り扱い方について

このページの内容は、全体に変更を加えず、 作者名(結城浩)と出典(URL)を明記する限り、自由にコピー・印刷・配付してかまいません。 ホームページからのリンクも自由にどうぞ。 結城の許可を取る必要はありません(というか、許可をとらないでください)。

パート1:聖書に書かれていること

聖霊と異言について、聖書に書かれていることを以下に示します。 ぜひ、あなたご自身で聖書を開いて、そこに書かれている内容をお読み下さい。

父なる神さまが助け主をお与え下さるというイエスさまの言葉(ヨハネ14:16)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • 助け主を与えてくださるのは誰ですか。
  • それは何のためですか。
  • ルカ24:49もお読み下さい。

助け主とは聖霊さまであるというイエスさまの言葉(ヨハネ14:26)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • 助け主とは誰のことですか。
  • 聖霊さまは何をしてくださる方ですか。
  • ヨハネ15:26もお読み下さい。

聖霊を受けるようにというイエスさまの命令(ヨハネ20:22)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • イエスさまの命令は何ですか。

聖霊が臨まれるときについてのイエスさまの言葉(使徒1:8)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • 聖霊が臨まれるとき、何が起こりますか。

聖霊に満たされ、他国の言葉で話し出す使徒たちの様子(使徒2:1-4)

  • 激しい響きはどこから起こりましたか。
  • 炎のような分かれた舌はどこにとどまりましたか。
  • 使徒たちに何が起こりましたか。使徒たちはどうしましたか。

聖霊を受けるという約束の成就を証しするペテロの言葉(使徒2:33)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • 聖霊をお注ぎになったのは誰ですか。

聖霊を受ける約束を証しするペテロの言葉(使徒2:38-39)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • この約束は、誰に与えられているものですか。

聖霊が与えられるときの様子の例(使徒8:14-18)

  • 人々は神のことばを受け入れていましたか。
  • 人々はイエスの御名によってバプテスマを受けていましたか。
  • ペテロとヨハネは何と祈りましたか。
  • 人々は聖霊を受けましたか。
  • シモンは何を見ましたか。

聖霊が臨むとき、異言や預言が語られる例(使徒19:1-7)

  • パウロが弟子たちの上に手を置き、聖霊が臨んだとき、何が起きましたか。

異言よりも預言を望むというパウロの言葉(Iコリント14:1-5)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • 異言を話す者は、誰に話しているのですか。
  • 預言を話す者は、誰に話しているのですか。
  • パウロはみんなが異言を話すことを望んでいますか。
  • パウロがもっと望んでいることは何ですか。

知性と霊で賛美しようというパウロの言葉(Iコリント14:14-17)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • 異言で祈ることを何と呼んでいますか。
  • 異言ではなく祈ることを何と呼んでいますか。
  • パウロはどのように祈ろうと言っていますか。

教会で異言で話すことについてのパウロの言葉(Iコリント14:18-19)

  • パウロは異言を話しますか。
  • パウロは教会で異言を話すこと、異言以外を話すことについてどのように言っていますか。

集会の秩序についてのパウロの言葉(Iコリント14:26-33)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • 集まるときには、どのように異言を話すようにと勧めていますか。

異言と預言の取り扱いについてのパウロの言葉(Iコリント14:39)

  • これは誰が語った言葉ですか。
  • 異言について、パウロはどのように言っていますか。

パート2:私が体験したこと(していること)

聖霊と異言に対する私の理解

パート1で示した聖書箇所や、その他の聖書箇所を開いて読み、私は以下のように理解しました。

  • 聖霊様は助け主であり、父なる神さまが約束し、イエスさまが注いでくださる方であること。
  • イエスさまご自身が聖霊さまを受けることを命じておられること。
  • 使徒たちはイエスさまがおっしゃる通りに待ち、聖霊様を受けたこと。
  • 聖霊様を受けた使徒たちは力を受け、イエスさまを証しするようになったこと。
  • そのことは、イエスさまが語った通りであること。
  • パウロは異言を誰よりも多く語っていたこと。
  • 異言はスタートに過ぎず、預言も求めるべきこと。
  • 教会では異言・異言の解き明かし・預言などは秩序だって語られるべきこと。
  • 普通の言葉でも、異言でも祈るべきこと。
  • 異言は、聖書に書かれていることであり、オカルト的なものではないこと。
  • その他。

私が異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたときのこと

私と家内は教会で牧師に祈ってもらい「異言を伴う聖霊のバプテスマ」を受けました。 要点を以下に示します。 以下はあくまで私の体験したことにすぎません。 こうでなければならないという主張ではありません。

  • その教会は主の祈りを唱え、使徒信条を告白し、聖書のみを聖典として、聖書を通して説教し、聖日礼拝を守り、イエスの福音をのべ伝える、要するに正統的なキリスト教会でした。
  • その教会では日常的に信徒がほぼ全員異言で祈っていました。
  • すでに私たちは洗礼を受けたクリスチャンでした。
  • 牧師からの勧めで、上記の聖書箇所を中心に聖書の勉強をしました。そして聖霊さまの働きと、異言での祈りが聖書的であることを理解しました。
  • 私たちは聖霊や異言に対しての抵抗感や不安感はほとんどありませんでした。
  • 牧師に聖霊が臨むことを祈ってもらい、按手してもらい(つまり頭に手を置いて祈ってもらい)ました。
  • 私ははじめは「ハレルヤ」とか通常の言語で祈っていました。
  • しばらくして私と家内はほとんど同時に、異言で語りだしました。
  • 異言でしばらく語り/祈り続けた後、牧師は感謝の祈りを神さまにおささげしました。
  • 以上が私の体験した「異言を伴う聖霊のバプテスマ」です。

私が語っている/聞いたことのある異言の特徴

私が語っている/聞いたことのある異言は次のようなものでした これはあくまで私の体験した範囲の話です。 一般的にこうでなければならないという主張ではありません。

  • 異言は日本語ではなく、意味のわからない言葉です。
  • 現在も私は毎日異言で祈りますが、意味はわかりません。
  • 異言は、催眠術でも、暗示でもなく、また自分の意志を離れたものでもありません。
  • 通常の言葉と同じように、異言が思わず口をついて出てくることもあります。
  • いつでも異言で語りはじめられるし、いつでもやめる気になればやめられます。
  • 異言の声を大きくするのも小さくするのも自由です。
  • それは通常の言語と同じく、自分の口から出てくる普通の音声ですが、ただその意味だけが自分にはわからないのです。

私が異言を伴う聖霊のバプテスマを受けてどのように変わったか

異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたのち、私に起こったことは次のようなものでした これはあくまで私が個人的に体験したことです。 こうでなければならないという主張ではありません。

  • 大胆に祈り、大胆に証しすることができるようになった。
  • 両手を上げて祈ることができるようになった。
  • 聖霊による聖書の解き明かしが行われるようになった。特に旧約と新約の呼応の理解が(うまく言えないけれど)急激に深まった。私はこれを聖霊様の働きだと理解している。

異言について心がけていること

以下は私が異言について心がけていることです。 これは私個人の心がけであり、 こうしなければならないという主張ではありません。

  • しょっちゅう異言で祈る。異言以外でも祈る。
  • 異言について尋ねられたら、相手がクリスチャンかどうかを確かめてから適切な表現をする。
  • 未信者には、異言について語るよりも前に、イエスさまの救いを宣べ伝える。
  • クリスチャンには、異言が聖書的であることと、自分が体験したことを中心に語る(ちょうどこのページのように)。
  • 異言を認めない教会では、秩序を守るために異言では祈らない(少なくとも他の人に聞こえるようには)。
  • 異言を語ることを誇りにしたり、特権意識を持ったり、異言を語らない兄弟姉妹を見下ろしたりしない。

パート3:異言に関する私の理解

以下に、異言に関するさまざまな疑問と私の個人的な理解を示します。 なお、以下の疑問の多くの部分は、 あるクリスチャンから私あてにきたメールから抜粋させていただきました。

異言に関する私の理解 - 異言の全般的なこと

異言について簡単に教えてください。

以下のようにまとめられると思います。

  • 聖書的な行為であり、聖霊の賜物の一つである。
  • 聖霊のバプテスマを受けたことのしるしである。
  • 個人が祈るのではなく、内なる聖霊が祈る祈りである。
  • パウロによって奨励され、乱用は戒められている。
  • 祈っている本人にも何を祈っているかわからない。
  • 異言の解き明かしがあれば、意味はわかる。
  • まるで外国語か、酔っ払いのたわごとのように聞こえる。
  • 個人の徳を高め、隠された罪も聖霊様ご自身によってとりなしを受ける。

「異言」のことはまったく知りませんでした。これは特別なことでしょうか。

私も異言を話しはじめたときは、 一時期「これはすごいことだ、特権的なことだ、わー」と舞い上がってしまったことがありました。 その時期に傲慢になって愛の欠けた大失敗をしたこともあります。反省。

でも、その後、聖霊の働きを認める聖会や集会、礼拝などに参加してみると、 異言で語ったり祈ったり歌ったりすることは、 全然特別なことじゃなく、クリスチャンにとってありふれたこと(というと語弊がありますが)じゃないか、 と思うようになりました。 もちろん、異言を語ることは特別なことなのですが、 特権的なことじゃなくて、みんなが当然のようになすことなんじゃないか、と思っています。

ペンテコステに与えられたものと、コリント人への手紙の中のものと、現代語られているものは同じですか。

同じだと私は理解しています。

「異言」の意味がわからない、というのはどういうことでしょう。

私たちが「ハレルヤ」とか「感謝します」と祈るときは、 頭でその言葉を発話しようと思って発話します。 またその自分が発する言葉を耳にしたとき、 その意味するところがわかります。

しかし、異言で祈るときには、 意味のある言葉を考えて祈るのではありません。 また祈っている異言を自分の耳で聞いたときも、 その意味するところはまったくわかりません。 はたで見ていたら、知らない外国語を話しているように見えると思います。 例えば、今少し結城が異言で祈った言葉を書き記してみましょう。 「シャバラダステレベレデステレストロデ」 というような感じです。意味はわかりませんね。 私にもわかりません。 異言で祈るとき知性は実を結ばないのです。

「異言」は救いの条件ですか。

絶対にそんなことはありません。

異言は救いの条件ではありません。 むしろ、聖霊さまに満たされることのあらわれ(というか恵み)です。 「異言は語らなければいけないのか?」 という問いは、 「恵みは受けなければいけないのか?」 という問いに近いです。 ええ、もしもいらないなら、受けなくてもいいのですよ、もちろん。 でも、願えば受けられ、しかも大きな恵みになりますから、 受けられたらどうでしょうか? …という感じになります。

聖霊の賜物で異言が強調されるのはなぜですか。

異言は「誰にでもわかるはっきりしたしるし」だからだと思います。

私も「異言」というものを聞いてみたいです。

以下のCDの中に「霊の歌」と書かれている部分があります。 そこのところで耳をすますと、スリヤ牧師が異言で祈って(歌って)いるのが聞けます。

 「シティプレイズ1」パワー オブ ユア ラブ CPD-1001
 定価 \1500
 シティプレイズ・プロダクション
 CITY PRAISE PRODUCTIONS
 〒171-0021
 東京都豊島区西池袋 2-3-20 RJ-Plaza 101
 Tel/Fax: 03-5396-0906
 Email: tcc@jade.dti.ne.jp

私も「異言を伴う聖霊のバプテスマ」を受けたいですが、どうしたらいいですか。

あなたはクリスチャンですか。 もしもクリスチャンではないなら、まず自分の罪を悔い改め、 イエスさまの十字架を信じてクリスチャンになりましょう。 以下のリンクが助けになると思います。

さて、クリスチャンの方へ。 一人でも受けられると思いますし、 兄弟姉妹が祈って受けることもできるでしょうし、 教会で受けることもできると思います。

一人で、聖書を読み、聖霊様が臨んでくださることを祈りましょう。 ペンテコステのときに使徒に下ったのと同じ聖霊の火が、自分にも下るように祈りましょう。 そして、聖霊が導いてくださるという確信を持って、 はっきりと「語り出し」てください。

兄弟姉妹が集って祈り求め、語り出すこともできるかもしれません。

教会で受けるときには、教会を探す必要があります。 現在はすべての教会で異言を認めているわけではありません。 また異言を伴う聖霊のバプテスマを祈ってくれるわけでもありません。 聖書的な正しい教会で、 異言を伴う聖霊のバプテスマを祈ってくれる教会や牧師さんを探し、ご相談ください。 結城は個々の教会の紹介はしていません。

異言に関する私の理解 - 異言で語りはじめることについて

私は祈り求めても異言が出てきません。なぜですか。

信じて語りだしましたか。 異言が「出てこない」というときの原因は、 自分の意志に反して口がこじあけられ、言葉が飛び出すという誤解から来ていることがあります。 信仰告白と同様に、あなたの意志で語り始める必要があります。 語る意味はわかりませんが。

異言を祈り求めていますが、自分の舌を神さまに委ねることができません。

あなたは、これまでに悪いもの (例えば偶像崇拝、異教の教え、その他神さまが嫌われるようなもの) に深く関わっておられたことがありますか? もし、そのことを神さまの御前に告白してゆるしていただいていないなら、 ぜひ、あなたの祈りのうちで告白して下さい。 そして、どんな罪でも、イエスの血によって洗われ、 ゆるされることを確信してください。 そしてほかならぬあなたがゆるされたのだということを確信して下さい。 はっきり確信し、信仰を告白したならば、あなたはゆるされたものですから、 悪霊の働きにもうまどわされてはいけません。

あなたが制御できる範囲以外(例えば無意識の部分)は、 きっと神さまが万事よく取り扱ってくださいますから、 心配はいらないと思います。

舌をゆだねる、というのは信仰をもって語り出す、とも言えるかと思います。 湖を渡るペテロの話はご存知ですね。 感情的な盛り上がりは必要ありません。 日本語以外の言葉で語り、祈ることができる、ということを信じて、 自分の意志で、何かを話しはじめるのです。 愚かしく見えるかもしれませんが、 口に浮かんでくる音をそのまま発音していいのです。

口や舌がひとりでに動くわけではありません。 口と舌を動かすのは、もちろんあなた自身です。 あなたが声を出さなければ、誰も声を出しません。

異言を話す・話さないは、あなたの意志の下にあります。 あなたの舌は、あなたの支配下に置かれることを主は許されているわけです。 異言で話しはじめてください、と言われれば話しはじめられるし、 みんなが異言で祈っているとき、誰かが例えば 「それでは祈りを終えて下さい」と言えば、 異言の祈りをやめることができます。

あなたが話す新しい言葉は、確かに何かの言葉なのだけれど、 あなたには意味がわからない、というものです。 意味内容がまったくわからない音を話し出すというのは 不安なものです。そこを進めていくのは信仰によるしかありません。 はじめは「ババババ」とか「ララララ」いう一音の繰り返しかもしれません。 「パタカパ」という一語の繰り返しかもしれません。

「これって自分で作っている言葉じゃないの?」 「これは異言だろうか?」 「これは悪霊のはたらきじゃないのだろうか?」 という吟味をしながら異言を語るのは難しいですね。 そういう批判精神はちょっとわきに置いておいた方がいいです。 そのために、信仰的に正しい教会の牧師さんに祈っていただくのがいいですね。 それから悪霊に関わった悔い改めの祈りを前もってしておいて、 罪ゆるされている確信も大切かと思います。

はじめは単純な音かもしれませんが、それが異言です。 あなたに意味がわかっている言葉(例えばハレルヤとかアーメンとか)のときには、 それは異言ではありません。

はじめの数日は一音の繰り返しだけかもしれません。 けれどもしょっちゅう異言で祈っているうちに、 だんだん音や語も増えていきます。 (このあたりは人によって違うかもしれません)

異言は勝手に口から出てくるのではないのですか。

私には「異言というものは」と一般的に話すことは難しいです。 あくまで私の理解と体験では、ということでお聞き下さい。

私の場合、聖霊を受けた後、どこからか何か圧倒するようなものが押し寄せてきて 口をこじあけ、自分の意志とは別に新しい言葉を語らせる…という感じではありませんでした。 自分の意志で口を開け、自分の意志で息を吸い、そして語りはじめました。

主を讃美し、自分の理解する日本語で祈った後、 こんどは、日本語ではなく、いよいよ別の言葉で語りだします。 最初は短い一語かもしれません。 自分の理解できない「バラボラ」とか何とかそんな音かもしれません。 しかしそれでコツがつかめたら後は楽です。口の動くままに語っていけばいいからです。

異言を語るときすぐに襲ってくる思いは、 「これって、自分で勝手に作っているだけじゃないの?」 というものでした。でも、そうではありません。 聖霊が語っているのと、あなたが口を動かしているのとは 非常に微妙な関係にあるので、 自分が作っているのではないか、と思ってしまうのです。 けれども、その思いのために異言を語るのをやめてはいけません。 あなたが語っているのは、あなたに意味がわからない言葉なのです。

このあたりはとても語るのが難しいです。

異言は信じて求めれば与えられますか。

はい。私はそう理解しています。

あなたが真剣に異言の賜物を祈り求め、信じて語りだせば与えられます。 人によっては、一緒に祈ってくれる牧師さんの助けがあった方がよいかもしれませんが、 (私はそうでした。私は家内と一緒に聖霊のバプテスマを受けました。 そのときは牧師先生に祈ってもらいました) 一人で異言を語り出す人もいます。

異言で祈る時、イタコのように憑依したような感じになるのですか。

そんなことはありませんよ (^_^)。 ホラー映画のように、自分の意志に反して、 口がひとりでに開いて言葉が出てくるわけではありません。

異言で祈ろう、として祈れるものですか。

はい、いつでも、すぐに異言で祈ろうとして祈れますし、 いつでもやめようと思えばやめられます。 私はよく通勤途中、歩きながら異言で祈ったりしています。 祈っている言葉の意味はわかりませんけれど。

異言に関する私の理解 - 異言で祈ることの意義

異言を求めないのは間違っていますか。知性だけで祈るのは不十分ですか。

間違っている、とは思いません。 どちらかというと、求めないのはもったいない、と思います。

知性で祈るだけでは、不十分かどうか、は私の理解を越えています。 逆に、どうして異言を求めないのでしょう。 恐れですか?

異言で祈れるならば、自分の隠れた罪のとりなしもあるし、 神さまとのパイプが太くなりますし(主の御声の聞き分け)、 知性では祈れない状況でも祈れますし、 それになにより、確かに聖霊様がおられることが確認できます。 異言で祈れなくても、イエスさまを受け入れたら聖霊さまはおられるのですが、 異言ではっきり「確認」できる、という意味です。

「異言」の意味がわからないなら、それで祈る意味があるのでしょうか。

私の内なる聖霊が直接神さまに語りますので、 言葉にならない思いや、隠れた思いについても 聖霊様が直接とりなしてくださると私は理解しています。

異言に関する私の理解 - 異言に対する異論

異言は体験主義であって聖書から離れているのではないですか。

そういう危険性はあります。 聖書の御言葉よりも各人の体験が中心にならないようにいつも注意すべきです。

「異言」を語らなくても用いられているクリスチャンはたくさんいます。

あなたのおっしゃるとおりです。 また、異言を語っていて用いられているクリスチャンもたくさんいます。

いま異言を語っていない方でも、 もし、異言を語り、聖霊さまにもっともっと満たされたら、 また別の働きが開かれるかもしれませんね(それには神の時があるのでしょうけれど)。 「異言を語れなくても用いられているクリスチャンはたくさんいる」 というのは真実です。そして素晴らしいことです。 しかしそれは、異言を否定する論拠ではないと思います。

異言や預言やいやしは聖書が完成した今の時代にはありえないことじゃないですか。

このように教える教会もありますが、 「異言」や「預言」や「いやし」や「信仰」を否定する聖書箇所はないと思います。

うちの牧師先生は、異言を強調されるのは間違っているけれど、全て否定するのもおかしいと言っていましたが、どう思いますか。

異言を否定するのはおかしいと思います。 それは聖霊の働きを否定することだからです。 異言を用いるのに秩序が必要なのも確かです。 そして、教会の秩序がどのようなものかは、ケースバイケースとも思います。

異言については、誤解や偏見も多くあると思います。 また、牧師の力量ということもあると思いますし、牧師自身の「おそれ」もあると思います。 うちの教会が、自分が牧会できない状況になったらどうしよう、というようなおそれです。

各教会には各教会の状況がありますから、一律に語るのは難しいと思います。 教会同士でいがみあうほど悲しいことはありません。 しかし、神さまは、人間的な思いを越えて、働かれることと思います。

異言に関する私の理解 - 異言と教会

異言の賜物だけあって、預言やいやしの賜物はない教会が有るのはなぜですか。

信仰によると思います。 自分に預言・いやしの賜物がある、という信仰が与えられ、 霊的な訓練や学びを重ねていないからでしょう。

もしかしたら、聖書的に正しく異言を用いている教会はけっこうあるんでしょうか。

そのとおりだと思います。 しかも、教派を越えて存在すると思います。 つまり、ペンテコステやカリスマという教派以外にもひたひたと聖霊の流れが 押し寄せているのが現在の日本の教会の状況ではないか、と思っています。 しかし、これは私の個人的な推測です。

なぜ、うちの教会では誰も異言を語らないのでしょう。

異言のことを教えないからか、誰も祈り求めないからか、だと思います。

教会によっては、 ペンテコステのお祝いも「教会の誕生日」として扱うけれど、 「聖霊が臨んで使徒たちが異言を語りだした」話はそれほど大きく扱いません。

もし異言は「ない」と否定する信仰をもっていたら、 そういう教会では異言はなかなか起こってこないと思います。 信仰の通りになることです。

あるいは、もしかしたら「教会では」語っていなくても、 個人的な祈りの生活では異言で祈っている人はいるかもしれませんよ。

教会で異言で祈っていいのでしょうか。

教会で異言で語るのは、注意深い取り扱いが必要です。 牧師の指導も必要ですし、 解き明かしがなければ会衆の益になりません。 (何言ってるかわからないので) 預言もそうです。牧師の吟味が必要です。

でも、個人の祈りの生活の中で、異言はすばらしい恵みです。 一日中祈れます。自分の知性では理解できないこと、 言葉に尽くせないことについても祈れます。

わたしの教会に、異言を語る人はいるのでしょうか。

私にはわかりません。(^_^)

教会によっては、異言で祈っていることがわかったら いやな顔をされる場合がある、と聞いたことがあります。 そういう教会に異言の賜物を持った人がいた場合「隠している」わけです。 信徒は教会の秩序を守る必要がありますから、 異言のことを話さないのは、 そういう配慮とも言えるかもしれません。 正しいことを語っても、 語る時期と場所と相手によっては、愛のない行為になりますから。

異言に対する教会の態度は、牧師の方針で変わってくるでしょうね。 牧師が奨励しなければ、 信徒の多くがその賜物を得ようとは願わないでしょうから。 それからその教会がどういう団体に属しているかも関連してくると思います。

しかし、すべて、私たちの信仰の通りになります。 信じられない、と思えば癒しも奇跡も預言も異言も異言の解き明かしも何も起きません。 イエスさまも不信仰の中では奇跡をあまりなされませんでした。

混乱しています。聖霊について、異言について、いったい何が正しいのですか。

聖書が正しいのだと思います。

私がここに書いたことも、誤りや誤解を招く表現を含んでいる可能性は多々あります。 いつも御言葉によりたのみ、祈りつつ学びを進めていきましょう。 神さまの御働きについて学ぶことは神さまの御心にかなうことですから。 また、兄弟姉妹、教会、牧師さんのために祈っていきましょうね。

参考文献

大き目のキリスト教書店ならば購入・注文できるはずです。 「生ける水の川出版」だけが異言についての本を出しているわけではありませんが、 私の本棚にあったものを以下に書きました。

  • ラリィ・クリスティンソン著『異言』(生ける水の川出版)
  • ディック・アイバーソン『今日の聖霊』(生ける水の川出版)1980年。
  • デニス・ベネット『朝の九時』(生ける水の川出版)英国聖公会の司祭が聖霊のバプテスマを受けたときの体験記。

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