結城浩
祈るときには、こんなことを心がけています。
このページでは、 結城浩が祈るときに心がけていること、 心がけたいと思っていることをまとめます。 このページは現在の状態で完成ではなく、 随時更新する予定です。
結城は、このページの中で、祈りについて できる限り具体的に書きたいと思っています。 私はイエスキリストを信じるクリスチャンで、 毎日さまざまなことについて祈っています。 抽象的な話ではなく、 神学的な議論ではなく、 等身大の自分の経験から言えることを丁寧に書いていきたいと思っています。
以下のお祈りは、イエス様が「こう祈りなさい」と教えてくださった お祈りです。主イエス様が教えてくださったお祈りなので、 「主の祈り(しゅのいのり)」と呼ばれています。 翻訳によって言葉づかいは異なりますが、 新約聖書マタイによる福音書6章9節〜13節に書いてあります。
天にまします われらの父よ 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ 御国(みくに)をきたらせたまえ みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく われらの罪をもゆるしたまえ われらを試みにあわせず 悪より救い いだしたまえ 国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり アーメン
お祈りをしたことがない方でも、 「お祈りをしたい」と思うことがあるものです。 自分のために、あるいは人のためにお祈りしたくなったときのために、 ここでは「祈りの方法」について書いてみます。
ご注意:ここに書かれた「祈り方」でなければ駄目だ、 と言おうとしているのではありません。 実際のところ、祈り方はある意味で自由なのです。 けれど、これまで祈ったことがない方、 クリスチャンが祈っているのを見たことも聞いたこともない方のために ちょっとしたガイドがあればよいと思って書いているのです。 どうぞご理解くださいますように。
結城自身、はじめて祈るときにクリスチャンの先輩に聞いたものでした。 「あの…、手はどこに置けばいいんですか? 十字を切るんですか?」って。 その先輩は丁寧に「手はどこに置いてもいいんですよ。組んでもいいですし、組まなくてもいいです。 十字を切る人もいますけれど、切る必要はないんですよ」と教えてくださったのです。
悩みについて祈る、というのはどういうことなのでしょうね。 とりあえず、結城は「祈りの小部屋」では、いただいたメールを 読ませていただいて、私の心の中に全部内容を入れてしまう。 とりあえず、そっくりそのまま受け入れます。 で、その後、何か欠けているとか、知りたいなとか、 思いが浮かんできたら、そのことをポツポツと「お返事」の形に 書いていく。それはいただいた内容の私なりの整理なのだと 思います。
その後、よいしょ、っと神さまの方を向いて、 神さまのご性質を賛美し、神さまから愛を受けて生きていることを 感謝する。その後で、いまのメールに関することを 一つ一つ神さまに打ち明けていく。
「こうなんです、お父さん」 「こういうことがあります、お父さん」 「こういうふうになってほしいです、お父さん」
現実の父親は全面的に信頼するなんてできないけれど、 神さまは全面的に信頼して、 打ち明け話をする。一つ一つ丁寧に。
最後に、署名として「イエス・キリストの名前」を書く。 そうすると、何かが起こる。 何か、というのはうまく言えませんが。
そして、最後に沈黙の時を持つ。神の声を聞くために。
…結城は上のようなことを 「祈りの小部屋」でやっています。
決定的に大事なのは、 「ほんとうに、自分の言葉を全知全能の神がいま、まさに聞いているのだ」 と信じて「本気で祈る」ことだと思っています。
以下の文章は、現在はまだクリスチャンでないある方の疑問に対する 結城の考えです。
問い: 「クリスチャンでない自分が『神さま』と書いたり、お祈りの言葉を唱えたりしてよいか?」
答え: よいです。でも、ほんのわずかでもいいので、信じて祈ることが大切です。
イエスキリストが教えたお祈り「主の祈り」の最初は、 「天にましますわれらの父よ」で始まります。 すなわち、「神さま」は私たち人間の「父」なのです。
神さまが「父」だとすると、 私たちは「子供」であり、 「子供」が「父」に言うように、 そのように訴えるのが祈りの一つのありかたであると いってよいと思います。 ですから、神さまには「何でも言って構わない」のです。 小さな子供が、ありとあらゆる要求を親に対して求めるように。
さて。話を進めていきましょう。 小さな子供は父のことを知りません。 赤ちゃんは、父の職業や性格、好きなこと・嫌いなことなどは知りません。 ただ、自分の要求を父にぶつけるだけです。 赤ちゃんが成長すると、父の仕事を知りはじめます。 そしてだんだん「おとうさんはこういうことを僕がすると喜ぶ」 「こういうことをしたらおとうさんが怒る・悲しむ」 ということを学びます。 そして父の能力を少しづつ知るごとに、 父との対話の内容も変わってきます。 単に要求するだけでなく、 「お父さん、僕の話を聞いてください。どう思いますか」 「お父さん、僕の生き方はどこか変でしょうか」 などという問いが出てくるようになります。 (ここで言っているのは理想的な父、かもしれませんが)
私たち人間も同じです。 人間は神さまのことを知りません。 人間は神さまがお喜びになること、神さまのご性格を知りません。 最初はただ自分の要求を神さまにぶつけるだけです けれど、よく祈り、聖書を読み、教会で牧師さんのメッセージを 聞いて神さまについて学んでいくと、 「神さまは僕がこういうことをすると喜ぶ」 「こういうことをしたら怒る・悲しむ」 ということを知ります。 神さまについて知るごとに、 神さまとの対話の内容も変わってきます。 単に要求するだけでなく、 「お父さん、僕の話を聞いてください。どう思いますか」 「お父さん、僕の生き方はどこか変でしょうか」 などという問いが出てくるようになります。
(あなたが神さまを知るよりもずっと先に、 神さまの方があなたのことを知っているというのも、 この世の父と子の関係と同じです)
ですから、 ノンクリスチャンのあなたが、 神さまと呼びかけたり、お祈りを唱えたりすることは 全然かまいません。 けれど、そこにとどまるのではなく、 ぜひもっと、神さまのことを知ろうとなさってください。 そうすると、あなたのお祈りも少しづつ変化してきます。 そしてそれはすなわち、 あなたの人生全体が神さまに導かれていくようになる ということでもあるのです。
そのときでも、必ず「祈るときには信じて祈る」という姿勢は大切になります。 神さまの名前はおまじないではありません。 イエスさまの名前もおまじないではありません。 神さまに「試しに祈る」という態度ではなく「信じて祈る」のが大切です。
あなたの本当のすばらしい人生は、 自分が自己中心で生きている存在であることを心から認め、 それを悔い改め、 神さまの存在を信じ、 イエスキリストを自分の救い主と受け入れることから始まります。 自分の心の中心に自分の傲慢な自我を置くのをやめ、 自分の心の中心にキリストをお迎えすることで、 あなたは本当のあなたの人生を生きるようになるのです。
正統派キリスト教の神さまは「三位一体(さんみいったい)の神」と 言われています。三位一体というのは、
が唯一の存在の中にある神のあり方を表現した言葉です。
祈りに焦点をあわせて説明すると、
「神さま」と呼びかけるときは、 全知全能の万物の創造主である神に注目した呼びかけになります。
「イエスさま」と呼びかけるときは、 あがない主、救い主である神、 人となって地上にやってきて、十字架にかかり、 復活した神に注目した呼びかけになります。
「聖霊さま」と呼びかけるときは、 イエスさまが昇天した後、教会を建てあげ、 信徒に力を与え、聖書の言葉を解き明かし、悟りを与え、 導きを与える神に注目した呼びかけになります。
結城の理解している範囲では以上のようになります。 けれども大事なのは、 三人の別々の神さまがいらっしゃるのではない、ということです。 あくまで、神さまは唯一なのです。
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