結城浩
1999年8月22日
人を受け入れる、ということを考える。 相手の語る内容が自分には「誤っている」と思われる場合がある。 そのようなとき、どうやって相手を受け入れることができるだろうか。 私は「分ける」ことによってではないかと思う。 あなたが語る内容を私は間違っていると思う。いけないことだと思う。 あなたが語る内容を私は受け入れることはできない。 しかし私はあなたという人格を受け入れる。 人格をそっくりそのままよしとし、受け入れる。 あなたが語る言葉を私は聞こう。 しかしそれは、あなたの語る言葉を正しいと私が思うからとは限らない。 私はあなたの言葉を聞こう。 それは、ほかならぬ「あなた」が語っている言葉だからだ。 十分語ってもらい、それを十分聞き、その上でいろいろと語り合おう。 どこに問題があるのか、どうすれば解決するかをいっしょに考えよう。 私は率直に、でも愛をもって私の思うところを語ろう。 人間の力には限りがあるから、すべて解決できるとは限らない。 だから、いっしょに神に祈ろう。 私はそのような態度で人に接することができたらいいな、と思っている。
おうおうにして人は、その思想信条とその人の人格を混同する。 考えが誤っていると思われるとき、その考えではなく人格を攻撃してしまう。 つまりそこには、思想信条と人格が「分かちがたいものだ」という誤解があるのだ (もしかして、日本人がディベートが下手なのはキリスト教の素地がないからかもしれない)。 受け入れる場合でもそうだ。 ああ、いいよ、何でもいいよ、と言って、 誤っていること・悪いこと・正すべきことまでを相手の人格と一緒に受け入れてしまう。 そのことによって二つの弊害がある。 一つは、相手にとっての弊害。 相手の「悪いこと」と「人格」をなおいっそう分かちがたいものにしてしまうという弊害だ。 相手が手に持っているだけだった泥団子を、相手の体全体になすりつけるような弊害だ。 一つは自分にとっての弊害。 相手の人格を受け入れると同時に相手の「悪いこと」までを自分の中に取り込んでしまう弊害だ。
とそこまで考えを進めてきて、イエスさまのことを考える。 イエスさまは、火のように激しい口調で怒られるときと、 限りなく寛大で哀れみ深いときとがある。 それは矛盾のようにも見え、ときには統一感を欠いていると誤解される。 でも実際にはそうではなく、イエスさまは罪をこよなく憎み、 人をこよなく愛しておられるからではなかろうか。 「罪」と「人」とを分けて考えるのは、実はとても大切なことではあるまいか。