結城浩
2000年1月29日
それでもって、夜である。 ひとしきり仕事をしたあと「今日はもうおしまいっ」という気分になったので、 ビールとおつまみと食べ物をコンビニで買ってきてゆっくり夕食。 やれやれ。
仕事といっても、結城の場合、何が仕事やら趣味やら遊びやらよくわからなくなっている。 仕事が遊びの気分転換だったり、遊びが仕事の刺激だったりして。 ともかくいろんなことを、いろんな人の助けを借りてやっている。 感謝なことである。 でもやっぱり一番感謝すべきなのは神様だなあ。
よい問題解決者は、大きな問題を1つ抱えるのではなく、 小さな問題をたくさん抱えているんだって。 ワインバーグが書いていた。どっかで。 一番大きな問題って、やっぱり生き死にの問題とか、 あとは、自分の「何か」だよねえ。 でも、そういう一番大きいところは、実はもうイエスさまによって根本的に解決済みだから。 そうそう。いっちばん難しいところはさあ、十字架でもう解決済みなんだから。 あとは、各人の負える重荷を、誠実にやるだけじゃん。
とはいえ、しょっちゅう失敗したり、迷ったり、悩んだりするんだけれど。 自分の内部で解決したとしても、人間関係って、相手があるものですからねえ。 自分を変えられないのに相手を変えられるわけがない。 でも、相手の方を変えたくなるのがこれまた人情ときているわけだ。 あいつが悪い。あいつがこうすれば、すべてうまくいく。 なんであいつはこうしないんだろう。 そんな思いが(明確に言語化はしないけれど)しょっちゅうわいてくるもんですよね。
明確な言語化って実は重要なんだよね。ロバ耳もそのためにある。 自分の心の中に浮かぶことって、自分で意識しているようだけれど、 実はあまり意識化されていないし、整理もされていない。 理性的に考えているつもりでも、87%くらいは感情に支配されている。 そこで言語化だ。言葉にする。自分が考えていること、自分が思いあぐんでいることを 言葉にしてしまう。なあに、誰が見るわけでもないから、好きなように書けばいいのだ。 書いて、すぐ消しちゃえばいい。自分の筆の(キーボードの)おもむくままに、 自分の考えるとおりのことを書いちゃえばいい。
そうすると、何かが変わる。自分の中の何かが変質し、整理される。 書いているうちに、つまりそれは思考のSerializationといってもいい。 (シリアライゼーションには java.io パッケージが必要ですが、 いまの話題には関係がありません :-P) 自分の思うとおりに書けばいい。何でも。自分の中の批判者をちょっと黙らせてね。 自分の中の批判者(良心といってもいい。両親?字が違うって。自我が違う? 違う違う。 自画だって<いいかげんにしろ)をいったん黙らせて、 本当の自分にしゃべらせてみるのです。
神様を賛美するなら、本気で賛美しよう。 神様に疑問があるなら、大声で、神様にうったえよう。 本気で、自分の中の熱をすべて集めて、神様にうったえよう。 「神様、どうしてですか」ってね。 神様は、そのへんのちっぽけな賢者とは違う。 何しろ、この天地を創った方なのだ。 あなたのどんな訴えでも、ぜんぶそのまま受け止めてくださる。
本気で、本音で何でも言える場所が人間には必要だ。 馬鹿なことをいっても、公序良俗に反したことをいっても、 非道徳なことをいっても、どんなにとっぴなことをいってもいい場が必要だ。 願わくはそれは夫婦間で共有する場所であってほしい。 親子を含めた「家族」にその場を広げるのは難しいが、 家族でもそれに近いものであってほしい。 まあ、ともかく。 人間には、全部を告白する場所が必要だと私は思う。
自分が何かを思う。すると、心のどこかに、それを責める何かがいる。 そういうのを感じませんか。 もちろんそれはよい場合もあるけれど、よくない場合もある。 正しい主張がいつも愛に満ちているとは限らないのです。 サタンの策略にご注意。 間違った行ないをしている自分を、良心は責めるだろう。 そこまではまあいい。 サタンはそこで微妙に、巧妙に方向を曲げる。 つまり、間違った行ない→良心の責め の先に、 …→自分自身の「引き下げ」を持ってこさせようとするのだ。 「ほら、やっぱりだめじゃん」とか、 「ほら、また。何度やっても無駄無駄」とか、 「おまえは、○○の子どもだからな。遺伝子がそうなっているんだよ」とか、 「きっと未来もずっと同じことのくりかえしさ」とか、 巧妙にマイナスのスパイラルに引き入れようとする。 それは(たとえ一面に真実を含んでいるとしても)愛なる神様の言葉ではない。
間違った行ない→良心の責め のあとには、自分への引きこもりではなく、 神様への方向転換がくるのが正しいのだ。 「ああ、私は自分の力でできるとつい思ってしまった。 今回のこれも失敗だった。神様。これを認めます。 これが私のいまの実力です。でも神様は私を作られた方ですから、 あなたの御心のとおりに私を変えることができる方です。 主よ、私の悪い行いを悔い改めます。 聖霊様、いま心を開いてあなたをお迎えいたします。 どうぞ私を正しい愛の道へと導いてください」
そのように、そのように、自分ではなく神様を見上げよう。 神様を求めよう。神様とのパイプをしっかりと整えよう。 それでこそ良心の責めが意味を持つのだ。 サタンは巧妙だ。その策略を見破らなくてはならない。 サタンは真実の中に巧みに嘘をまぜるのだ(詐欺師と同じだ)。 だから一部真実があったとしても、サタンに従う必要はないのです。 サタンは本音の祈りをいやがります。心から信じる祈りをいやがります。 なぜなら、そのときは必ず神様の直接的な介入があるからです。 わたしたちが自分の力で何かをしようとするとき、 サタンは大喜びです。 サタンは神様には負けますが、人間をだますのはちょろいもんだからです。
私たちは何度も何度も落ち込む。 失敗する。罪を犯す、過ちを犯す。 人を裏切る。神様を悲しませる。 その繰り返しが人生といってもいいくらい、なさけない存在だ。 しかし。しかし、あきらめるべきではない。 サタンの策略に耳をかしてはいけない。
こまめに祈り(心から信じて祈り)、 自分の生活の中で常に神様に介入していただきましょう。 神様を信じ、そして、人をゆるしましょう。 イエスさまの十字架をいつも思い出し、聖書を読み、祈りましょう。 どうせこの世での生活は100年かそこらなのです。 その愛の訓練を一つ一つ(失敗しつつも)神様にゆだねつついきましょう。 何度もね。繰り返しね。
これを読んでいるあなたと同時代に生きていることを心から神様に感謝します。
あなたに豊かな主の祝福がありますように。
おやすみなさい。