結城浩
2001年11月1日
まず、言い訳から書く。 本来、この文章は一ヶ月前に書かれるべきものだった。 一ヶ月ほど前から、私は——たぶん神さまからだと思うんだけれど——この文章を書くようにうながされていた。 何度も何度もこのテーマを思い出させられ、 文章の順序、構成を考えさせられてきた。 文章をエディタで入力する前から、私は文章の全貌がどうなるかわかっていた。 でも、さまざまな都合により、入力する時間がとれず、 ついつい先延ばしになってきたのだ。 きっと誰か——私の知らない誰か——に向けてこの文章は書かれているのだと思う。 この文章は皮肉について書かれていて、 例によって、もっともらしくて優等生風の文章です。 けれども私は、この文章を特定の人に向けて書いているわけではない。 この文章を読んで「結城さんは私にあてこすりをしているのだ」と思わないでください。 私はこの文章をただ書いている。 というか、書かされているのであって、 誰を題材にしているわけでもない。 あなたがもし、以下の文章を読んで不愉快に感じたらごめんなさい。 あなたがもし、あなたのそばの皮肉屋さんのことを思い出したら、 その人のために祈ってください。 以上、長い言い訳、おしまい。
皮肉について
皮肉を言う人がいる。 年に1回ではなく、1日に1、2回は必ず皮肉を言う人がいる。 その人はきっと、もともと賢い人だ。 皮肉というのは二重の意味を持った表現だ。 賢くなければ皮肉は言えない。 複雑な表現を操る技術が必要だからだ。
でも、皮肉を言ってばかりいるのは、そのせっかくの「賢さ」を 曲がった目的のために使っている。 それはとてもよくない。
「二重の意味」について説明する。 「うまいですね」と相手をほめるとしよう。 文章そのものは、相手をほめている。 しかし、この文を声に出すときの微妙なイントネーションや間合いによって、 これを皮肉にすることができる。 言葉では「うまいですね」と言っているのに、 相手はまったくほめられた感じがせず、 むしろ「へただなあ」と言われたかのように感じさせることができる。 それが二重の意味。2つの意味(ほめること、けなすこと)を 1つの言葉に乗せているのだ。
皮肉は人間同士のコミュニケーションを深いところから蝕む。 皮肉屋は、皮肉を繰り返す。 さまざまな場面は変われども、言う相手は変われども、 皮肉屋は、何度も皮肉を言う。 あるときはけっこうきつい印象をあたえ、あるときはちょっとしたからかいのムードで。 何度も何度も皮肉を言う。 皮肉な言葉を積み重ね、二重の意味を持つ言葉を操る。
皮肉に反論するのは難しい。 「そんなこと言わないでください」と文句を言うと、 「え、わたしはあなたのことを『うまいですね』とほめているんですよ」とうそぶく。 皮肉屋は、二重の意味の片方を取り上げて、するりと身をかわす。 皮肉屋は、その芸当に快感を感じると共に、二重の意味の中に逃げ場を作っている。 皮肉屋は、弱くて孤独だ。 賢いけれど、弱くて孤独。 毎日、何度も皮肉を言わずにはおられない皮肉屋。
巧みに表現を操って、自分の賢さを示そうとする皮肉屋もいれば、 そんな意図はまったくなく、単に習慣になっている皮肉屋もいる。 どちらの場合でも、よろしくない。 皮肉屋本人にとって、よろしくない。
ある日、ある時。 いつもはひょうひょうとしている皮肉屋も、寂しさを自覚する時が来る。 あるいはまた、しみじみとした思いを抱いて他の人と素直な言葉をかわしたくなる時が来る。 切実な思いをもって、何かを訴えたくなる時が来る。。
しかし、そのとき。 それまで積み重ねてきた皮肉な言葉が、皮肉屋を裏切る。
皮肉屋が、真面目に自分の真情を語っても、他の人はそれを割り引いて聞くだろう。 心から人をほめたいと思って言っているのに、他の人は、ほめられたとは感じないだろう。 他の人は、皮肉屋の言葉から、裏の意味を読み取ろうとするだろう。 だって、これまでもずっとそういう言葉を聞かされてきたのだから。 長年積み重ねてきた皮肉な言葉、 二重の意味を持つ言い回しの積み重ねが生んだ悲しい状況。
だから、皮肉をやめよう。 皮肉を言うのをやめよう。 悪意を持って言うのはもちろんのこと、 からかいまじりにしゃべる癖を何とかして改めよう。
意識し始めてからやめるまでには、 きっと想像以上に長い時間がかかるだろう。 それだけ皮肉はあなたを蝕んでいたのだ。 皮肉があなたの舌にはりついていたのだ。 自分が言葉を操っていたと思っていたのに、 実は言葉があなたを操っていたのだ。
皮肉を使って他の人に賢さを証明する必要なんかない。 あなたが賢いことは、誰にだってすぐわかる。 自己の存在を誇示する必要なんかない。 あなたは、かけがえのない存在だから。 他人をからかってささやかな優位を保つ必要なんかない。 あなたは、素晴らしい存在なのだから。
あなたの「賢さ」を、 もっと意味のあるところに使おう。
もし二重の意味の表現を操るアクロバットを楽しみたいのなら、 「正しい知識」と「励まし」を同時に相手に伝えるような方向に努力をしよう。 少ない言葉だけでも相手を本当の意味で喜ばせ、励まし、力づけ、なぐさめる。 そんな言葉を生み出せるように知恵を使おう (もしクリスチャンなら、神さまにそのことを祈ろう)。
いまが、そのチャンスだ。
あなたが「皮肉の罠」から逃れ出ることを祈っています。