結城浩
2001年6月3日
よく勉強して大きな会社に就職し、 仕事を順調にこなしている人(A)がいる。 その人は教会に行き、神様のことを学び、 収入の10分の1を欠かさず献金している。
ところで同じ教会に小さな会社をリストラされた人(B)がいる。 その人は礼拝をしょっちゅう欠席し、献金もろくにしない。 ある悪癖に悩まされ、そこから脱却しようともがいているが、 うまくいかない。家族からも馬鹿にされている。
ある土曜日、Aさんが、がらんとした教会の礼拝堂にいくと、 そこにはBさんが1人でしょぼんと座っていた。 Aさんが尋ねると、Bさんは家族からいやみを言われるので 礼拝堂にきたという。
Aさんは心のうちでこう祈った。 「神さま、わたしに仕事を与えてくださってありがとうございます。 わたしは立派に仕事をこなし、 不正なことをいっさいせず、 Bさんのように不真面目な信者ではなく、 まじめに教会に通い、 あなたに10分の1献金を欠かさずささげています。 Bさんのように家族に対してちゃらんぽらんな態度をとるのではなく、 きちんと家族をおさめています。感謝します」
Bさんは心のうちでこう祈った。 「神さま。わたしは本当のつみびとです。 わかっているのに、どうしてもあの悪癖から逃れられません。 神さま。わたしを助けてください。 おねがいです、神さま。おねがいします。 わたしを助けてください」
これは、ルカ18:9-14を元にして書いた創作文です。 実際の話ではありません。 しかし、しかし、本当にそうでしょうか。 本当に実際の話ではないのでしょうか。 わたしは上記の文章を書きながら、涙が出てきました。 わたしは本来Bのような祈りをすべき存在なのに、 Aのような祈りばかりをしているのではないか。
聖書の中に書かれている「つみびと」は、 まさに「わたし」の姿にほかならないのではないか。
自分の行いばかりを誇り、 自分の行いばかりをほめたたえているのが自分の姿ではないか。 本当に、主の前に静まって、ルカの取税人のように祈り、 またBさんのように祈るべきなのではないか。
家族に対してどのように自分が見えるか、 教会の人に対してどのように自分が見えるか、 仕事相手に対してどのように自分が見えるか…。 それよりも前に、神さまに対してどのように自分が見えるかを思う。 そうすると、そうすると、やはり、 「神さま、わたしは本当のつみびとです。ゆるしてください」 と言わざるを得ないのではないだろうか。
全知全能の神さまの前に裸で立つとしよう。 わたしの心のうちまで、すべてをご存知の神さまの前に立つ。 すべての行い、そしてその行いのときにわたし自身が考えたこと、 そのすべてを神さまは知っている。 わたしは何が言えるか。 どんないいわけも通じないではないか。
「神さま、わたしは本当のつみびとです。 イエスさまの十字架のゆえにゆるしてください。 お願いです、神さま。わたしを助けてください。 わたしをここから救い出してください」