父の思い出
- TK-80 -

夢空間への招待状

結城浩

すぐには理由がわからなかった。

路地を曲がったとたん、郷里の父をなぜか思いだした。私が東京に住むようになってからは、年に一、二度しか会えない、ふるさとの父の姿が急に心に浮かんだのだ。

 * * *

父は中学校の理科の教師で、アマチュア無線をしていた。もう学校も退職し、無線も最近はやっていない。けれど、私が子供の時分は、父は自分で回路を組んでプリント基板のパターンを起こし、ハンダづけをしていたものだった。凝り性で、細かな作業も根気よくやり遂げるのが父のやり方だ。 「ハンダごてでハンダを溶かすのではない。ハンダごては基板にあて、熱された基板の上にハンダが流れるようにするのだ」

父はそう私に教えながら実際にICの14本のピンを美しくハンダづけして見せてくれた。ハンダが基板をすうっと流れる。ペーストのにおいが鼻をくすぐる。

そうか。ペーストのにおいだ。父のことを思いだした理由がやっとわかった。この路地裏のごたごた並んだ町工場のどこかから流れて来るペーストの焼けるにおいが、子供のころの父の思い出をよびさましたのだ。

 * * *

ある時、父が大きな箱をかかえて帰ってきた。聞けば、「マイクロコンピュータ」というもののキットだという。その夜一晩で父はペーストの焼けるにおいを書斎にこもらせながら、そのマイクロコンピュータを完成させてしまった。

そのマイクロコンピュータこそ、現在の日本電気のパソコンのルーツである、TK−80であった。そしてそれが私にとって初めて出会う「実物の」コンピュータであったのだ。

コンピュータとはいえ、TK−80は7セグメントのLEDが8つと、テンキーがついているだけの一枚のボードにすぎない。現在のPC−9801のように、ワープロとして使ったり、コンパイラを動かしたりすることは、想像することさえできなかった。

そのころ父と二人で組んだTK−80のプログラムは、例えばストップウォッチだとか逆算タイマーくらいしかなかった。TK−80のLEDに数値を表示するしか出力の手だてがないんだからしかたがない。

プログラムの入力一つをとっても大騒ぎである。コンパイラはもちろんのことアセンブラだってないから、すべて人間が手でアセンブルして、テンキーから「機械語」を入力してやらなければならないのだ。メモリ上の特定の番地に、直接プログラムを書き込むわけだから、人間がエディタとアセンブラとリンカとローダの役割を果していたことになる。

TK−80に魅せられた父と私は、フルキーがついてBASICが書けるTK−80BS、全部のボードを箱におさめたコンポBSへと進んでいった。そしてもちろん往年の名器、日本電気のPC−8001に至るのである。郷里には、これらのマシンがまだきれいに保存してあるはずである。日本のパーソナルコンピュータの黎明期のマシンがここにあると言っても言い過ぎではあるまい。

 * * *

ペーストのにおいをきっかけとして心に浮かんだ思い出にひたりながら家に帰ると、たまたまその父から電話がかかってきた。電話の声は、父が今、 PageMaker と MS-WORKS と MS-Windows に凝っていることを熱っぽく語っていた。

時代は変わり、使うマシンは変わっても、新しいものに挑戦する父の姿は変わっていない。

私も負けてられないな。

(Oh!PC、1990年12月15日)