さくら、さくら
- Wonderful Wandering -

夢空間への招待状

結城浩

夜中。

プログラムのデバッグに疲れて、ふらふらと外に出かける。人っ子ひとりいない道路を歩きながら、頭の方は先ほどまで考えていたプログラムをつい追ってしまう。

…あそこまで動いて、その後暴走する。ということはメモリ管理部はうまく動いている、と。割り込み処理がまずいのか。でもそこはもう何十回も確かめているはず。だとすると、次の条件判断が誤っているのか。それとも、引数に間違いがあるのか…

夜気で湿った道をめぐりながら、私の頭はくるくるまわる。プログラムが書いてあるわけでもないのに目は道の上をさまよい、足音はまるでCPUのクロックのように響きはじめる。

十字路で私はふと顔をあげる。左手に小さな公園が見える。その公園がぼんやり白く輝いている。夜の闇の中でそこだけが浮かんで見える。私の足は何ということもなくそちらに向かう。

さくら、だ。

ベンチがいくつか置いてあるだけのささやかな公園には、多すぎるほどの数の桜の木が公園を包むように植えられている。夜の桜は、淡く白い灯りがともったように見える。

きれいだな。

 * * *
さくら さくら
 弥生の空は 見わたすかぎり
 霞か雲か 匂ひぞ出づる
いざや いざや
  見に行かん

 * * *

桜を見上げつつ公園を歩いていると、昔聞きおぼえた歌が口をついて出てくる。桜の花。入学、新しい教室、教科書の匂い。桜の花はそんな思い出と結び付いている。

私は一番大きな桜の木の下で立ち止まり、見上げ、桜の花が視界をうめつくすのを楽しむ。

 * * *

私は考える。ふだん私がつきあっているコンピュータは8色だの16色だの4096色だのといった限られた色しか出すことができない。また、640×400ドットといった限られた空間しか表現することができない。CRTからはみ出すわけにはいかないのだ。

毎日ディスプレイに向かい、そことの情報のやりとりを中心に仕事が回転しているのは、とても危険なことではあるまいか。狭められたチャンネルを通して、フィルタがかけられた情報ばかりに接していると、実際のモノが発する息吹きを忘れるおそれはないのだろうか。

あの桜の微妙な色合いはコンピュータでは出せない。視界をうめつくす圧倒的な力はディスプレイにはない。もし桜を描くことができたとしても、それは一つの映像であって、現実の桜ではない。

コンピュータで現実を模倣する仮想現実が流行だけれど、どんな仮想現実もまだ現実を作り出してはいない。必ず失われてしまう情報がある。なつかしい匂い、頬をよぎる風、ひんやりとした夜気、それらの集合を何の意図もなく一度に再現させる技術は人間はまだ持っていない。

コンピュータという仮想世界に遊ぶことはこの上もなく楽しい。それはプログラマである私が強く感じていることだ。しかし決して現実世界との接点を見失ってはならない。現実世界を見失うと、それが支えている仮想世界もまた失ってしまうからだ。

640×400ドット。

4096色。

電子音。

そんな制限の中で、コンピュータは頑張っている。けれども、私たちはそこに限界があることをわきまえなくてはなるまい。時にはディスプレイから目を離し、桜の花に目を向ける。

あてもなく考えを巡らせてみるが、現実の桜は変わることなく目の前にある。もう考えるのはやめよう。

疲れはいつのまにか消えていた。

 * * *

さくら さくら
  咲くさくら 散るさくら

(Oh!PC、1992年4月15日)