数式はメッセージ
「数学セミナー」誌によるインタビュー

結城浩

数学月刊誌「数学セミナー」2009年1月号の掲載記事を再編集したものです。

公開を快諾してくださった「数学セミナー」編集部さんに感謝します。

はじめに

2007年6月、数学をテーマにした、まったく新しい形の物語が出版された。 『数学ガール』——主人公・高校2年生の「僕」と、2人の少女ミルカさんとテトラちゃんが試行錯誤しながら数学を学んでいくというこの物語は、多くの数学ファンの心をつかみ、書店の理工書ベスト10の上位をキープして話題となった。

2008年8月、第2弾となる 『数学ガール/フェルマーの最終定理』を出版した結城浩氏に『数学ガール』を書いたきっかけや本書に込めた思いなどをうかがった。

(補足:2009年には、第3弾となる 『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』が刊行、2011年には、第4弾の 『数学ガール/乱択アルゴリズム』が刊行されました)


『数学ガール』が生まれた経緯

編集部: まず、『数学ガール』がどのような経緯で生まれたのか、お聞かせください。

結城: 私は2003年くらいから、数学と女の子が出てくる物語をホームページ (https://www.hyuki.com/girl/) で公開していました。 『数学ガール』はその物語がもとになっています。 私は普段、プログラミング言語の本や記事を書いていますが、2006年ごろ、それまで出版していたプログラミングの本の改訂版を続けて出すことになりました。 それは、まあ感謝なことですけど…今度はもう少し自由に書きたいな、と出版社にお願いしたのが『数学ガール』でした。 出版社では「こんなに数式が多くて売れるの?」と疑問もあったそうですが、 おかげさまで皆さんの支持を得ることができ、2冊目も無事に出版できたわけです。


たくさんの数式が出てくる理由

編集部: 登場人物たちの思考に沿って多くの数式が出てきますね。 ここまできちんと数式を見せる、というのはこのような物語では珍しいと思うのですが…。

結城: 「数学をおもしろくわかってもらいたい」という本の多くは、数式をあまり出さないようにしていると思います。 数式を出すと難解な印象を与えてしまうからでしょう。でも私はそういう本を物足りなく感じていました。 数式を出さないと、ゲーム的なおもしろさや、歴史的なおもしろさに終始してしまうからです。 数学の本当のおもしろさは数学そのものにある。 数式の意味を理解できたほうが絶対におもしろいはず!…と考え、この本では数式をきちんと出します。

もっとも、読者さんが数式にひっかかっては困りますから 「易しい数式から難しい数式へ進む」「物語の自然な流れで数式を出す」「途中の計算もしっかり見せる」 という点に神経を使いました。 「自明」として進みたくなる式変形も、泥臭く書きました。

とはいえ、数式を読むのは読者にとって苦労が多いものです。 そこで、女の子との楽しい会話の中に、数学の内容をきちんと理解した人だけが「はっ」と気づく仕掛けをたくさん隠しました。 読者は一生懸命に数式を読みます。 そして理解したときに 「あっ、彼女はこの数式のことを別の場面で言っていたじゃないか!」 「物語の展開が数学の展開と同じじゃないか!」 と気づく。 いわば、数式を読み解いた人へのご褒美です。 私のところには驚きと感激の感想がたくさん届いています。


登場人物たちの数学レベル

編集部: ということは、登場人物たちの言動もかなり計算されて書かれているのですね?

結城: 計算といいますか…。私の中にはミルカさんやテトラちゃんが生きています。 私は、彼女たちの思考や発言をじっと観察する。 それを文章にまとめたのが『数学ガール』ということです。 もう、みんな好き勝手に動き回ってるんですよー(笑)。 ここ数年は、彼女たちと過ごせて幸せな毎日です。

編集部: その登場人物たちですが、数学スキルはいろいろですね。

結城: はい。テトラちゃんよりも「僕」のほうが数学レベルは高い。 そしてミルカさんはその「僕」よりもずっと高い。 「僕」は、私と同じくらいのレベルですね。

そうそう、私が大変だったのは、自分よりもレベルの高いミルカさんの数学を書き留めなくちゃいけないことでした。 私は「時間圧縮」という方法を使っています。 私が必死に3か月かけて理解した問題を、ミルカさんには10秒くらいで解いてもらう。 それでちょうど数学レベルが揃うようです。 ミルカさんのおかげで、たくさんの数学を勉強することになりました。

1冊目ではテトラちゃんもずいぶん賢くなってしまったので、 2冊目ではユーリという中学生にも登場してもらいました。 ユーリが連発する「わかんない!」は読者に大人気でしたよ。


テーマはどんなふうに選んでいるのか

編集部: テーマ選びはどうしているのですか? 1冊目も2冊目も高校生が学ぶには高度な数学のように思うのですが…。

結城: たしかに、高校で出てこないテーマもありますが、みなさん楽しまれているようです。 何人かの中学生から「わからないけれど、数学が好きになりました」とメールをもらったこともあります。

1冊目は数列と母関数、そしてオイラーの数学がテーマでした。 私自身、母関数については、つい数年前にクヌース先生の『コンピュータの数学』(共立出版)を読んで理解したばかりなのです。 あるとき、著名な数学者さんが「母関数の意味をやさしく伝えるのは難しい」と言っていたのを聞いて「じゃあ、挑戦する!」と思ったのも、 母関数について書いた理由の一つです。

2冊目は「フェルマーの最終定理」とタイトルには謳っていますが、 最終定理の証明まできちんとみせるのは無理でした。 そこで、最終定理に関係のある数論の話題を紹介しつつ、 楕円曲線と保型形式がつながるところをゴールにしました。 第1章から第9章までに出てきた概念が最終章で再集結します。 「数学って、つながっている!」ということを読者にわかってもらいたかったのです。


数学の正しさと文章の読みやすさ

編集部: なるほど。数学を書く上で注意していることはありますか?

結城: 数学がからむ物語では、数学的な間違いが入らないことが大切です。 数学的な正しさが彼女たちのリアリティを支えるからです。

「数学が正しいかどうか」をチェックするため、本をずいぶん調べました。 たくさんの数学書を読むことは、たくさんの数学者に助けてもらうのと同義です。 ある項目を数学者がどのように説明しているかを読み、私の書いたものと比べるのです。 たとえば母関数。書店の数学書売り場に立ち、何冊もの数学書の索引で「母関数」を引いて調べます。 何度もやっているうち、 その用語が書籍のはじめに出てくるか、後に出てくるかによって、 話題の難易度まで予見できるようになりましたよ。

それから「文章が読みやすいかどうか」をチェックするため、 インターネットを通じて知り合った方にレビューをお願いしました。 ほとんどのレビューアさんたちには、直接会ったことがありません。 年齢や職業などもさまざまです。 文章が読みやすいか、数学的に難しすぎないか、などを見てもらいました。 レビューアさんとのメールのやりとりは2冊で約1000通くらいです。 メールって便利ですね。

私たちは普段、言葉でコミュニケーションをとりますけど、 それを蒸留してピュアにしたのが数式かもしれませんね。 テトラちゃんは手紙を書くのが好きで、言葉に敏感です。 彼女は、「僕たちにメッセージを送っている書き手が、数式の向こう側に必ずいるんだよ」 という先輩の言葉に感銘を受けます。 数式は誰かが書いて誰かが読む。 昔の数学者が思いを込めて書いた数式を、現代の私たちが読むことができる。 数学は、時を越える。そんなふうに思います。

そういえば、ロマンチックな「僕」はこんなことも言っています。 「数式の背後には歴史がある。数式を読むとき、僕たちは無数の数学者の仕事と格闘しているんだ。 理解するのに時間がかかるのは当然だ。 一つの式展開のあいだに、僕たちは何百年もの時を駆け抜ける。 数式に向かうとき、僕たちは誰でも小さな数学者だ」 …いいこと言いますよね。だから、数式を読むのに何時間、何日かかろうがたいしたことではない、 というのでしょう。 彼女たちからは、たくさんのことを教えてもらっていますね。


教えることのエッセンス

編集部: ほかにも、この本を通して発見したことはありますか?

結城: インターネットの書評で「この本には「教えること」のエッセンスが盛り込まれている」と書いてくださった方がいました。 私自身、確かにそうだな、と思います。 本を書くことは教えることと似ています。 よい教師は、生徒(読者)がいま、何をわかっていて何がわからないかをいつも意識しているものですから。

セリフはありませんが、『数学ガール』に出てくる村木先生は、 学校のカリキュラムとは無関係に、生徒の理解度を適切に判断して課題を与えています。 たとえ、才媛ミルカさんから難しい質問をされても、相手の力量に応じて切り返す能力を持っている。 そのような大きな度量は、教師として非常に大切だと思うのです。

本を書く仕事をしているのは、理科の教師である父親の影響が大きいように思います。 以前、「生徒に教えるのに最も大切なことは?」と父に聞いたことがあります。 父は「本時の課題を忘れないこと」とシンプルに答えました。 本時の課題というのは「この時間は、これだけ学んで帰れ」という「たった1つのこと」ですね。 本時の課題を自覚し、決して詰め込まない。 著者は、自分が知っていることを書きすぎてしまうものです。 でも、それが本当に読者のためになるのか。

数論の本には必ず「ユークリッドの互除法」と「中国剰余定理」がでてくるものですが、私の本では出てきません。 今回の私の本の流れでは不要と判断して思い切って削ったのですが、 読者の方から「《互いに素》をピックアップしてるのに中国剰余定理やユークリッドの互除法の話をしない本をはじめて見ました」というご意見をいただきました。 書きすぎると読者の理解を妨げると思い、 「本時の課題」を常に念頭において、ひたすら削っています。 本になるのはトータルで書いた量の3分の1くらいですね。


結城さんの選ぶ数学書2008は?

編集部: 最後に、この企画は「あなたが選ぶ数学書2008」というもので、読者の皆さんにここ2年以内に出版された本でお奨めのものを紹介してもらう、というものですが、 結城さんの選ぶ数学書2008は何でしょうか?

結城: それは難しい…。2年以内に出版された本ではないですけれど、ここ2年くらいに読んだ本、ということでしたら、 『オイラーの無限解析』(海鳴社)でしょうか。 オイラー先生が書いた本が翻訳されていることがまず驚きでした。翻訳者に感謝です。 そして、オイラー先生は、なんと楽しくバリバリと計算しているのだろう、と思いました。 『数学ガール』を書くときにも、オイラー先生だってやってるんだから、 彼女たちにもバリバリ計算してもらおうと思ったんですよ(笑)。

編集部: 本日はいろいろ貴重なお話をありがとうございました。

[2008年10月20日談]