tina
結城浩
宿に着いたのはずいぶん遅かったけれど、 今朝は早く目を覚ました。 朝食を済ませて宿を出ると、 村の案内をしてくれるティナがもう私を待っていた。
ティナは小柄な12歳くらいの女の子で、利発そうな顔立ちをしている。 大きな目が、くるくるとよく動く。 そんなに大きな村ではないから、迷うことはないのだけれど、 何しろ日本語も英語も通じない村なので、 英語の通じる通訳が必要なのだ。
ティナは私の前に立ち、まずは宿のまわりを案内してくれた。 ティナは、アイボリーのシンプルなマントを羽織り、小さな籠を持っている。 歩くたびに、マントのすそ飾りがリズミカルに踊る。
小川にかかった橋を渡るときに 「あなたは、どんなお仕事をなさっているのですか」 とティナが振り向いて尋ねた。 きれいな英語だ。
「コンピュータの本を書いてます」と私は答えた。
ティナは立ち止まって「コンピュータの本」という表現に不思議そうな顔をした。 そして、少し考えてからこう言った。
「村長も本を書きます。お会いになりますか」
ティナは私を村長の家に連れて行ってくれた。 家が、村長の仕事場でもある。 村長は50を過ぎたくらいで、がっしりした体つきをしている。 ティナの話に耳を傾けてから、 村長はわかった、というようにゆっくりうなずき、 大きな手を差し出した。 手が痛くなるほど強い握手だった。
「遠い国からよく来てくれた。ちょうど昼食の時間だから、いっしょに食事をしながら話そう」 村長はそういいながら、私たちをリビングに招いてくれた。
運ばれてくる食事をいっしょに取りながら、 村長はこの村の成り立ちや 素朴で勤勉な村人の気質について話してくれた。 ティナの通訳はとてもわかりやすい。
食事が一段落すると 「ティナの話では、君は本を書いているそうだが、どんな本なのかね」 と村長が尋ねた。
「コンピュータの本です。つまり、コンピュータでプログラムを書く人が読む本」 私はティナが通訳しやすいように易しい言葉を選びながらゆっくり説明した。 村長もティナと同じく不思議そうな顔をしたけれど、礼儀正しい微笑を崩さない。
「なるほど。その本はもちろん、人が読むわけだね」
「ええ、そうです」
「それなら、私の仕事とよく似ている。私も本を書いている。人が読む本だ。この村の歴史や、生活についての本を書いている。 あとで何冊か進呈しよう」
「ありがとうございます」
「本を書くのに、もっとも大切なことは何だろう?」と出し抜けに村長が尋ねた。
「『読者のことを考えよ』だと思います」と私は答えた。
村長は両手をぱん、と鳴らした。 「その通り。私はこんな歌にしている」 村長は立ち上がって、やわらかいテノールで歌いだした。
オブダ・クノー オブダ・クノーネ
(相手を知り 相手を忘れよ)
ゼラダ・クノー ゼラダ・クノーネ
(自分を知り 自分を忘れよ)
ゼルリ・セラー ゼラザー・アスーネ
(あなたが語るべきことを 語りつくすために)
歌が終わり、私とティナが拍手をする。 ティナの抄訳を聞いてから、私は 「『知ること』と『忘れること』の両方が必要というのは興味深いですね」 と村長に伝えた。
村長は何度もうなずきながらこう答えた。
「相手とつながっていなければ、相手に何を伝えることもできないだろう。 けれど、相手とはなれていなければ、そもそも相手に何かを伝える意味はない。 私たちは共感する。でもそれと同時に対立もある。 その両方がなければ、その両方を許容することがなければ、 いろんなことがうまくいかないんじゃないだろうか」
何だか話が形而上的になってきたけれど、ティナがていねいに通訳してくれるので、 よく理解できる。村長は続けた。
「きみの国にも、相手を知ろうとせず、 自分のことだけを考える人がいるだろう。 そういう人は周りの人から嫌われる。 しかし反対に、自分のことをきちんと考えられず、 相手から振り回されてばかりの人もいるだろう。 そういう人はいつも疲れている。 風が東から吹けば西に飛ばされ、 南から吹けば北に飛ばされるからだ」
私は思わず尋ねた。 「どうして、そうなってしまうのでしょうか。 自分がそのような不健康な状態に陥っていることに気づいたとき、 どうすればよいのでしょうね」
村長は私の顔を見て「きみは、きみなりの答えを持っているように見えるが、どうだね」と聞き返した。
村長の巧みな誘いに、私はつい話し始める。
「そうですね。 相手を知ろうとしないのも、自分を知ろうとしないのも、 根っこは似ているように思うんです。 自分の立っている土台に不安がある。 自分を、どういう土台の上に乗せていけばよいのかがわからない。 自分が、何を基準にして生活していけばよいのかがわからない。 私自身も、よく分かっているわけではないのですけれど、 私はクリスチャンで、聖書の神を信じています。 そして、神さまが私をお創りになったのだから、 私の存在には意味がある、と信じています。 私も、自分勝手に行動したり、 人の目を気にして周りに振り回されたりすることはしょっちゅうあります。 でも、私には戻ってくる場所があります。聖書です。 聖書に戻り、イエス・キリストという方からの愛を受けることで、 自分の不健康さから回復できるように思うのです」
ティナが私の言葉を村長に伝えると、 村長はにこにこと笑いながら、私の背中を大きな手のひらでばんばんとたたく。 私は急に照れくさくなってしまった。
本をもらってから村長の家を辞し、農場を見学する。
ゆるやかな傾斜の丘を登り、私とティナは並んで腰を下ろす。 ティナが、籠の中から水筒とカップを出し、飲み物を注いでくれた。 ジンジャーが利いているお茶だ。丘の上の小さなお茶会。 お茶をゆっくり飲みながら、遠くに点在している牛を眺める。 のどかだ。
「先月、祖母が亡くなりました」ティナがぽつりと言った。
「やさしい祖母でした。やさしいだけではなく、私のことを本当に愛してくれました。 英語を学ぶことを薦めたのも祖母でした。 貧しかったけれど、私のために買う本は惜しむことがありませんでした。 私に使うお金のことで、両親と祖母が喧嘩になったこともあります。 でも、祖母はいつも私の味方でした」
ティナは両手で持った自分のカップを見つめながら、言葉を続けていく。
「この村はいい村だけれど、小さくて狭いです。 英語を学んで、たくさんの本を読み、私の世界はとても広がりました。 祖母には感謝しています」
私は黙ってティナの話に耳を傾ける。 風に乗ってカウベルの響きが聞こえてくる。
「祖母の死は、私にとって、身内の初めての死でした。 とても泣きました。祖母にもう会えないからです。 私の世界を広げてくれたおばあちゃん。 でも、世界のどこに旅しても、私を守ってくれたおばあちゃんには、もう会えません」
ティナはだんだん涙声になっていく。
「いつの日か、天国に行ったら会えるでしょう。 でも、この世では、世界のどこに行っても、 おばあちゃんにもう一度会うことは決してできないんです」
ティナは大きな目を涙でいっぱいにして、私のほうを見る。
私はティナの頭にそっと手を乗せて、神さまにお祈りをする。
ティナは、マントの袖でごしごしと目をこする。
(2005年6月5日)
(後日譚)ティナからの手紙