結城浩
1997年11月13日
「僕」の実感としての神さま。
神さまのことを書こうとするときに思い出すのは、病院のベッドだ。 20代前半のあるとき、ある事情があって、病院に入院していた。 情けない思いと自己嫌悪と将来への不安と…そういうものにひしゃげながら 僕はベッドに寝ていた。 まだ、僕はクリスチャンではなかった。
あるクリスチャンの方からはげましの電話があり、 そのとき聖書の言葉を読んでもらった。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。 (イザヤ書41章10節)
僕は「ありがとうございます」と言いながら、泣いていた。 でもそれと同時に「わたしがあなたの神だから」という言葉に反発を感じていた。 「わたしが」の「が」にひっかかっていたのだ。その強さに。
でも、そのとき、僕は、僕の手に、誰かの手が添えられているのを感じた。 もちろん、僕のまわりには誰もいない。誰も見えない。 でも、僕は、僕の手を包み、しっかりと握り、支えてくれる手を感じた。 僕はそのとき思った。
「ああ、あなたが神さまなのですね」
ああ、あなたが、神さまなのですね。
あなたは本当にいらしたのですね。
神さまは、 僕の弱さや情けなさや傲慢さを責めるのではなく、 ただ、その御手をもって僕を包み、支えてくださったのだった。
これが「僕」の実感としての神さまです。
あのとき出会った神さまについて詳しく知るのは また後のこととなります。