結城浩
2003年6月29日
○○さん、お手紙ありがとうございます。 あなたの手紙を読みながら、私は涙を流してしまいました。 あなたの問いに対して、どれだけ適切にお答えできるかどうか、 私にはわかりませんが、心をこめてお返事を書きたいと思います。 主が適切な言葉を与えてくださるように祈ります。
神さまを信じることを難しく感じているのは、あなただけではありません。 理由の一つは、神さまの存在が「論理的に証明」するたぐいのものではないからです(少なくとも私はそう考えています)。 神さまは「父」だと聖書は語ります。 神さまの存在を証明できないのは、 自分の父親が本当の生物学上の父親であることを証明できないのと少し似ています。 推論のどこかで、誰かを信用しなければならないのです。 家族か、親戚か、医者か、戸籍か、遺伝子学者か、その他何でもいいですが、 何かを「信用」しなければなりません。 神さまの存在を信じることも、それに近い部分があります。 聖書か、他のクリスチャンか、歴史書か、何でもいいですが、 自分の理性と感性をフルに働かせて吟味した上で、何かを信用しなければなりません。 神さまの存在する純粋論理的な証拠を私はここに示すことはできません。
論理的な証拠は示せませんが、 証人は示すことができます。例えば、この私です。 それについてはまた後でお話しします。
この聖書箇所のもう少し先を読んでみましょう。 愛がどこにあるかが、聖書に書かれていますから。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、 いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに 示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 (ヨハネの手紙第一 4章9節、10節)愛がないのはあなただけではありません。 人には愛はないのです。そのために、まさにそのために、 イエスさまが私たちのところに遣わされたのです。 私には愛がない、あなたにも愛がない。
つまり、人間は、根本的に「人なんかどうでもいい」と思っているのです。 「自分がよければいい。 神さまなんて知ったこっちゃない。 自分がよければいい。 あいつなんか死んでしまえばいい。 私さえ幸せならばそれでいい」と思うのが人間なのです。 そしてそれこそが「罪」なのです。
イエスさまは愛がない私たちのために愛を示しにやってきた。 「こうしなさい」という姿をお示しになった。 こうしなさい? キリストは十字架にかかった。 罪をおかしていないのに、十字架にかかって死んだ。 本来は私が、そしてあなたが十字架にかからなければならないところを、 身代わりになって死にました。 もちろん、イエスが言っているのは、本当に物理的に十字架にかかって死ね、 と言っているのではない。それはすでにイエスさまがなさったこと。 あなたには、あなたの十字架があるのです。
もしかしたら、あなたの十字架は、 誰かに「ごめんなさい」と一言言うことかもしれない。 いままで冷たくしていた誰かにやさしい態度を示すことかもしれない。 「あのことを行ったのは私だ」と告白することかもしれない。 あなたの十字架はあなた個人に神さまから示されることでしょう。
私たちには愛がない。 けれどもまさにそのためにイエスさまは十字架にかかった。 あなたは「私には愛がない」とおっしゃる。 実はそれが神さまへの最も近道であることにお気づきですか。 自分が重病にかかっていることを知らない人が医者に行くでしょうか。 私たちは重病、それも確実に死にいたる病にかかっています。 そのために、あなたは神さまを切に求めているのではありませんか。
もう一度聖書を読んでみましょう。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、と聖書に書いてあります。あなたが神を愛する前に、 神さまが私たちを(あなたを、他の誰でもない○○さん個人を)、 愛してくださったのです。
あなたはこう問うでしょう。 「神さまは、本当にいるのか」 私は声を大にして、お答えします。 「はい、神さまは本当にいらっしゃいます」
そのとき、あなたはこう問うでしょう。 「どうしてそれがわかりますか。」 私は、こうお答えします。 「私は神さまに命を救っていただいたからです」 私は20代に大きなトラブルを通過し、この世での命を失うところでした。 神さまはそのような状況から奇跡的に私を救ってくださいました。 その後、私は不思議な経緯により、教会に通うようになり、 あるとき、知人のクリスチャンの一言と祈りによって、 神さまが語っていることを素直に受け入れることができました。 そして私は洗礼を受けました。 今にして思えば、洗礼を受けた時点でも神さまのこと (というより神さまの大きさ)をさっぱり理解していなかったと思います。 私は至らないものだった。 けれども神さまが 「それでもよい。私はあなたを愛している」と招いてくださった。 それで洗礼を受けることができたのです。
私がしなければいけなかったのは、 最初の一歩を踏み出すところだけでした。 神さまを信じるための一歩は神さまへの祈りでした。
…今にして思えば、ごちゃごちゃしながら、自分も整わないまま、 必死の思いで洗礼へなだれこんでいったのかもしれません。 神さまのことをさらに深く知り、イエスさまのことを本当に知り始めたのは、 洗礼を受けたあとですね。
神さまが確かにいらっしゃること、聖書に書かれている通りに、 神さまは存在し、イエスさまの十字架があり、救いがあるということ。 私はそのことの証人となります。 純粋論理的な証明ができなくても、 私は私の命を助けてくださった方が神さまであることの証人となります。
あなたはこう問いました。 「イエスさまをどうすれば信じることができますか」
努力して信じることはできません。 自分の力で信じることもできません。 試験を受けて信じる資格を得るわけでもありません。 じゃあ、どうすればよいか。
信じることができるように、神さまに祈り求めてください。
さらに聖書を読んでみましょう。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、 神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。 (ヨハネの手紙第一 4章15節)神さまに、自分の罪を告白し、 イエスこそ自分の罪のために十字架にかかった救い主であることを告白し、 神さまを信じる信仰を与えてくださるようにお祈りしてください。 そうすれば、神さまは必ずあなたの祈りに応えてくださいます。 後で、ご一緒に言葉をあわせてお祈りしましょう。
あなたが神さまに出会うなら、 神さまと、日々の祈りを通じて深い交わりを体験するなら、 あなたは本当の自分の親に出会うことになります。 神さまはあなたの本当の父だからです。 自分の行動を自分の目で見るという観点から離れ、 神さまがどう判断するだろうか、という観点が得られることになります。
神さまに出会い、神さまの愛に包まれて生きるとき、 あなたは無駄な戦い、無駄な取り繕い、無駄な虚栄心から自由になれます。 そこで消費されていたエネルギーを他に向けることができます。 あなたは本当の自分自身を見つけ、 神さまから受けた愛を他の人に少しづつお返ししていくことが できるようになります。
不思議なことです。 オレがワタシがと我を張って生きているときには本当の自分を見失って疲れるが、 自分の弱さや罪を神さまに告白し、神さまに委ねるとき、 私たちは本当の自分を見出すのです。
死は恐いものです。誰しも死を恐れます。 しかしまた、例外なく、死はあなたのところにやってきます。 例えばいまから100年後、 あなたは確実に死んでいるでしょう。 私も確実に死んでいます。
しかし、キリストによって救われた人は、永遠のいのちに入ります。 この世での体は死んでしまいますが、 キリストの救いによって、新しいいのちを得るのです。
イエスの生涯は十字架の死で終ったのではありませんでした。 イエスは三日の後に復活しました。 イエスの救いをうける人も同じです。 死に打ち勝ったイエスさまの力によって、私たちも新しいいのちを得るのです。
私たちがこの世での命を失うとき…それはきっと孤独なときかもしれません。 自分がこの世で築いた家庭、財産、地位、知識、経験、…をいったんすべて 手から離さなければならないからです。 つまり、自分の死に際し、この世のものは何一つ、 自分を助けてはくれないのです。 その孤独の一瞬。 強い御手であなたを死から命へ引き上げてくださるのは、誰ですか。 そのようなことができるのは、神さまだけなのです。
ずいぶん長くなってしまいました。 それでは、お祈りいたします。 あなたもぜひ、私と一緒にお祈りください。