結城浩
2004年9月29日
次男が食卓についた。 わたしはかがみこんで用事をしながら「シリアル食べる?」と問いかける。 でも返事が聞こえない。私は、あれ?と思って顔を上げて、次男を見る。 彼はにこにこしている。
もう一度「シリアル食べる?」と次男に聞いてみると、 彼は無言でうなづく。 きっとさっきも(私は見ていなかったけれど)うなづいて返事をしていたのだろう。
こういうことはよくある。 うなづいても見えるはずないのに、うなづいて返事をする。 またうなづくにしても、頭の動きはほんの少し。
次男も、長男も、それから奥さんも、そのような(ある意味)わかりにくい返事をすることがある。
もう少し若かったころ、私はこう考えていた。 「どうしてそんなにわかりにくい返事をするのだろう。 返事は『はい/いいえ』の二択であり、つまり1ビット。 せいぜい『はい/いいえ/ちょっとまって』の三択なのに…。 はっきり返事をすればいいじゃないか。んもう」
でも、あるとき私は「はっ」と気が付いた。 「そちらを見ていないと判断できないような返事(うなづき)や、 注意深く見ていないと見逃すような返事(微妙なうなづき)を行うのは、 『もっと私のことをよく見て』というシグナルである」ということに。
次男がうなづいて返事をするときには「ぼくのことを見てよ」と無言で訴えている。 家内が微妙なうなづきをしているときには「わたしのことを注意深く見てください」と無言で主張している。 …わたしはそのことに気づくまでずいぶん長い時間を無駄にしていたように思う。
人間の返事は1ビットではない。そこにはたくさんの「何か」が込められている。