結城浩
2003年3月2日
世界平和のために祈る。
ところで、世界平和のためや戦争回避のために祈るとき、私はいつも「世界から個人へ」と気持ちが移っていく。
どういうことかというと…。 戦争を起こそうとしている施政者を多くの人は非難し、批判する。 それはそれでいいんだけれど、私たち(すみません。書きやすいので「私たち」という表現を使います)は、 しばしばそのような施政者と同じことを小規模にやっているのだ。
ある国の施政者が、別の国に対して戦争をしかける。 あるいは戦争をちらつかせて自分の国の思い通りに他の国をコントロールしようとする。 直接武力で、あるいは経済制裁で、方法は違えども、要するにやりたいことは、 自国の思い通りに他の国をコントロールしたいということだ。
で、それと同じことを私たちは毎日の生活でまさに行っている。 ある人が、別の人に対して攻撃をしかける。 あるいは攻撃をちらつかせて自分の思い通りに他の人をコントロールしようとする。 暴力で、言葉で、陰口で、…。要するにやりたいことは、 自分の思い通りに他の人をコントロールしたいということだ。 ゆるしてやったら、自分が損した気持ちになるし、と。
戦争がなくならないのは当然だ、と思う。 私たちは日々小規模な戦争を人に対して(時には自分に対して)しかけているのだもの。
テロを仕掛けられても、攻撃を仕返さないようにしよう、という呼びかけは大事なことだと思うし、 戦争反対を呼びかけることや祈ることはとても大切なことだと思う。 しかし、それと同時に、 私たちの当たり前の日常の中に登場する「テロ」や「戦争」について考えることも重要だと思う。 たとえば、ある人があなたに「いわれのない暴言」を吐きつけたとする(正確には、あなたにはいわれがないと思われる暴言)。 これはいわば「テロ」のようなものだ。 それに対して暴言を返したり、陰口をたたいたりすることは正しいことだろうか、どうだろう。 もちろん、きちんと反論することは(あるいはさらりと無視することは)大事なことだ。 しかし、悲しいことに私たちはしばしば、テロに対してテロ(もしくは戦争)で応じようとする。 自分の気がおさまらないので、自分の手で復讐をしてしまう。報復をしてしまう。
とても悲しいことに、ブッシュ大統領は、私たちの毎日の姿なのだ。
報復を(特に自分に理があると思えるときの報復を)抑えるのは非常に困難だ。 人間には不可能かもしれない。
自分の力で抑えることができないからこそ、私たちは祈るべきなのだ。