さまざまなことについて

結城浩

1998年の日記からの抜粋です。


目次


理性について(1)

狂気は理性を失った状態ではなく、理性以外のすべてを失った状態である。 というのはチェスタトンからの受け売りです。 でも、考える価値がある問題をいろいろ含んでいるように思います。 以下、チェスタトンを思い出しつつ自分の言葉で表現してみます。

普通の人は、理性をよいものと考えます。 理性的に判断すること、それはよいこと。…まあ、そうかな、という気になります。 でも理性しかない人間を想像してみるとわかるように、あまり「よい」とは言えなくなってきます。

理性を攻撃しようとしているわけではありません。 際限なく理性を行使することはよくない、といっているわけです。 機械的に理性を適用することはよくない、といっているわけです。

理性と感情を両方ともほどほどに用いましょう、と言うわけでもありません。 理性は、まさに用いるべきときにその最大限度まで用いよう。 感情も、いやその他のすべてのことも、適切な時にふさわしい分だけ用いよう。 全部ごちゃまぜにひっくるめて平均をとってぬるま湯をいつも飲むのではなく、 熱いコーヒーも、よく冷えたビールも、適切なときに飲みましょう、と言っているわけだ。 どんなときにどんなものを飲むのかを教えてくれるのが、 本当の知識であり知恵というものでしょう。 そして「主を恐れることは知識の初め」 と聖書には書いてある(箴言1:7)のでした。


理性について(2)

理性を重んじすぎると、事物を対象化しすぎることになる。 感情を軽んじすぎるあまり、自分の心に起こる「感じ」を圧殺してしまうのだ。 論理的な思考を行うときにはそれでいいのかもしれないけれど、 日常生活の中までに推し進めすぎると、困った事態を引き起こしかねない。

事物を対象化する? つまり、自分は観察者であり、 周りの事柄は自分の感情とは無関係の存在だという意識を持つこと。 たしかに、科学の研究にはこういう態度は重要である。 自分が喜んでいても怒っていても1リットルは1リットル。 泣いていても笑っていても地球は回る。

特に理科系の若い人にこの傾向が強い(と私は我が身を振り返って思う)。 自分が学んで手に入れた左脳的思考の強力さに陶酔しつつ、 それがどこまで適用可能なのか試し過ぎるのだ。 その結果、日常接する人間に対して、 それがまるで実験対象でもあるかのような取り扱いをしてしまうことになる。 傲慢というか、愚かというか…。

対象化の矛先が自分の外に向かっているうちは、まだよい。 そのうちに自分の内部、自分自身の存在にまでメスを入れてしまうと、 けっこう危ない。 自分という存在が単なる分子運動に過ぎないとか (お好みならもっと量子力学的な表現をしてもいいけれど、同じ事)、 感情などは存在しないとか、 そういう唯物論的世界観は、かなり危うい。 虚無のがけっぷちを走っているようなものだ。 しかも当人は自分の頭脳の優秀さを誇っているのだ。 電車のホームの白線の外を歩いて勇気を示そうとする愚かな子供のように。


孤独について

駅で電車を待ちながら「あ、私はひとりだ」と感じた。 そのとき私はひとりだったから。 そしてそれと同時に「あ、私はひとりではない」と感じた。 神さまが共におられるし、私のために多くの方が祈っているのを知っていたから。

たくさんの人と付き合っていても孤独を感じることはあるし、 たったひとりなのに孤独を感じないこともある。 人とのつながり方、神とのつながり方にはいろんな形がある。

自分を開示せずに慰めを得るのは難しい。 自分を開示するのは恐ろしいが、 その危険をおかさずに理解してもらうのは難しい。 そして自分が「理解してもらっている」というのは大きな慰めだ。

制約や束縛があるから不自由かというと、そうでもないし、 何でもしていいとなったら自由になるかというと、そんなことはない。


自分を見出すということについて

自分を見出す、というのはわかったようなわからないような表現である。 しかし「鏡」という比喩を使って考えを進めることができる。

自分を見るときには誰しも鏡を使う。 鏡を見ると、自分の姿が見える。 ゆがんだ鏡を使うと、自分の姿はゆがんでみえる。 しかし、たくさんの鏡を使って総合判断すれば、 多少ゆがんだ鏡であっても、おぼろげながら自分の姿を見ることができる。

他人は鏡だ。 他人に接するとき、人は自分の姿と対峙することになる(好むと好まざるとに関わらず)。 他人が示す自分の姿は多少なりともゆがみを持っているけれど、 複数人と接することによって、おぼろげながら自分の姿を知ることができる。 つまり、たくさんの人が自分について同種のことを言っていたら、 それは聞くに値する、ということだ。

神はゆがんでいない鏡だ。 自分の姿、特に本当の自分の姿を見ることは、おそろしい体験だ。 聖書が示す人間の姿を「ああ、確かに私はこういう人間だ」として 自分の姿と重ね合わせて見るとき、非常な嫌悪に襲われる。

(もしかすると、他人と会うのがこわい、という人は、 実は自分に会うのがこわい、のかもしれない)

しかし、不思議なことに(いや、ちっとも不思議ではないのだが)、 自分の本当の姿を(一部でも)知った人こそ、安定している。 他人からどう見られても気にならないからだ。 また人からどう言われても受け取れ、怒らずに聞くことができるからだ。 (「ええ、確かに私はそういう人間です」とか、 「そうだろうか、私はそういう人間ではないと思う」とか言えるという意味だ)

その安定は、開き直り、というのとは違う。 私はどーせ、こういう人間だから…といじけたり、自己卑下(のふり)をするのと、 自分の姿を知ることは違う。

鏡を見て自分の姿を知る、人に会って自分を見出す、というのは、 言い換えれば、自分の能力の限界を認めることでもある。 実は、自分は自分のことを知らないのだ、と知ること。 自分が「私ってこういう人間」と思っているのは、とんでもない幻想かもしれない。

クリスチャンの喜びの一部は「神によって知られている」ことから生じる。 自分のいまの苦しみや、いまの悩みは(たとえ誰にも言えなくても)、 神によって知られている。自分は孤独ではない。 さらに、自分で自分の心を神に向かって開くとき、その喜びはいよいよ深くなる。

神の愛は、人の愛に先立つ。 人が神を見出し、神を愛するよりも先に、ずっとずっと先に、 神は人を愛していたのだ。

愛とは知ることであり、知りたいと願うことだ。 神によって知られているとは、神によって愛されているということだ。 そして自分を知り、自分を見出すとは、 他ならぬ自分を愛することなのだ。


真理について、神について

あらゆる真理と呼ばれているものは、歴史や社会、文化により決定されている(制約を受けている) ものであって、どんな場所、どんな人にも普遍的に当てはまるものはない、という考え方がある。 確かにそうだ。

クリスチャンとしての私は真理というものを大事にしたいと考えるが、それよりも、 その背後(あるいは上)にいる一人のお方、すなわち「神」というものを中心にすえて さまざまなことを考えようとする。

つまり、それぞれの時代に応じて真理はその姿を変えるけれども、 その各時代に生きている人に対して、神は何かを語っておられる、と考えるのだ。 神が「活きておられる」というのはそういうことだ。

ある教義なり教えをドグマティックに考えること、 すなわち律法主義的に考えることはよくないことだ、と思う。 時代背景や文化的な前提を考慮にいれずに機械的に何かをあてはめようとするのは おうおうにして過ちを生む。それはなぜか。 それは、その教えの源である神を忘れてしまうからだ。 そしてその代わりに自分自身を神としてしまう。

便宜上「真理よりも神」とか「教義を律法主義的に…」と書いたけれど、 実際にはそんなに単純な話ではない。 例えば「律法」は神の言葉である聖書に書かれているが、それを軽んじたいわけではない。 律法を軽んじることは神を軽んじることだからだ。 聖書や教会を軽んじて神を重んじるというのはナンセンスだ。 (配偶者のことばや配偶者のからだを軽んじておいて、 配偶者を重んじるというのがナンセンスなのと同じように)

そういうことはよくある。 対立しているらしい二つのものがあるのだが、 実際にはその両方が大切なのだ、という場合だ。

代表的な例「信仰と行いとどちらが大切か」 人は信仰によって救われるが、よい行いをしなくてもいい、というわけではない。 どちらも大切なのだ。信仰も、よい行いも。 救いの条件は?と聞かれたら 「イエスキリストを信じる信仰により、神の恵みにより救いがある」 というのがクリスチャンの答えだが、これを聞くと 「どんなに悪いことをしていても?」 と言いたくなるものだ、普通は。 それに対しては、 「どんなに悪いことをしていたとしても、キリストを信じれば救われる」 というのが答えだ。そう言われれば、 「キリストを信じると言いながらわるいことをし続ける人はどうか?」 と言いたくなる。あるいは 「この人はキリストを本当に信じているの?」 と言いたくなる。 しかし、それはある意味ではよけいなお世話だ。 人の心配より、自分の救いを心配すればよい。

AとBとどっちが大切か? と問う人は多い。なぜか解答を急ぐ人も多い。 でも、それは一つの穴におちこんでいるのだ。二者択一の穴に。


自分からの脱却について

例えば、髪を洗っているとき。 「どうして私はこんなにあわてて髪を洗っているのだろう?」 と気がついたりする。 ゆっくりと指が髪をすき、水が流れ落ちる感触を楽しみながら洗ってもいいのに。

誰かと話しているとき。 「どうして私は汗ばむほど手を力強く握っているのだろう?」

本を読んでいるとき。 「どうして私は歯をくいしばっているのだろう?」

いつもは気づかないことにふと気づくときがある。

気づきすぎ、というときもある。 自分のことにばかり意識がいってしまうのだ。 人のことを気にしているようでいて、よく思い返すと自分のことしか考えていないとき。 「どうして私は、自分のことばかり考えてしまうんだろう?」 その問い自体が、自分のことばかり考えている行為なのだがね。

自意識がぐるぐるとまわりはじめたら、外へ出る頃合いだ。

コンピュータの前から離れ、背伸びする。深呼吸する。人と無駄話する。 モーツァルトを聴く。バスに乗る。アルデンテのウニスパゲティを食べる。

部屋の外へ出て、自分の外に出る。

お祈りするふりなんかしてないで。


誰も働くことのできない夜について

『誰も働くことのできない夜が来る』って本当かしら?

それはそうさ。だって、私たちは毎日それを体験しているじゃないか。

夜になって眠くなる。もっと活動していたいのに、 もっと起きていたいのに、眠くてもう動けない時が来る。 私たちは毎日それを体験している。

季節が春から夏、夏から秋にうつり、そして冬が来る。 外で動けない冬が来る。 私たちは毎年それを体験している。

赤ちゃんから子ども、子どもから大人、そして老人になって死を迎える。 どんな人でも、例外なく、もうこの世で働けない時がくる。 私たちは、私たちは、そのことをよく知っている。

それは神さまが与えてくださった壮大な比喩だ。 私たちは目に見えないものを語るために、言葉の上での比喩を使う。 けれどもきっと神さまは、この世という比喩を使うのだ。 私たちがまだ目で見たことのないものを、私たちに語るために。

イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。 やみがあなたがたを襲うことのないように、 あなたがたは、光がある間に歩きなさい。 やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、 光を信じなさい。」 (ヨハネによる福音書 12:35--12:36)


愛について

もしかしたら、愛というのは、 相手の主観的事実を尊重するところからはじまるのかもしれない。


「ゆるし」について

人から悪い扱いを受けるというのは、黒く腐った卵を渡されたのと似ている。

「私は、こんなにひどい卵を渡されたのだ」と主張することは正しいかもしれない。 他の人から「そんな卵を渡されたの、かわいそうに」とか、 「あなたは悪くないよ」と言われるかもしれない。

しかし、その卵を自分の手から離さない限り、その黒く腐った卵はあなたの手の中にある。

卵を渡した相手にこの卵をぶつけなくちゃ気がすまないかもしれないが、 それは単に話が無限ループに入るだけだ。相手からまた腐った卵がやってくる。 卵をずっと自分の手の中で温めていると、黒く腐った鳥が出てくるかもしれない。

イエスという人は、全世界の人が抱えている腐った卵を引き受けるために十字架についた。

自分はどこかに、腐った卵を持っている。 それを探し出し、イエスに預ける。少なくとも預けようという意志を示す。 「ゆるし」ってそういうことかもしれない、と思う。 腐った卵を神さまは奪い取ってくれないのだろうか。 神さまは人間を自由意志を持つものとしてお作りになったから、 きっと各人の意志を大事になさるだろう。 自分が自分の意志で腐った卵を手放すことを表明する --- ゆるしの宣言をする --- ことを期待するだろう。

そしてまた私は気がつくのだ。 私もこれまで、他の人に山ほどの腐った卵をぶつけてきたことに。 (そしてこれからもぶつけずにはいられないことに)。 神さま、ごめんなさい。

「主の祈り」の中にある、
  「われらに罪をおかすものを、われらがゆるすごとく、
   われらの罪をもゆるしたまえ」
という祈りは何と厳しいことか。 ええ、私にはできない。けれど、神さまがそれをなしてくださる。 私は意志を示し、最初の一歩を踏み出そうとする意志を持つ。 神さまがその先に道を備え、遠くまで歩く力を与えて下さることを信じつつ。

聖書は(つまり神は)人間に不可能に見えることを要求する。 実際、人間の力では不可能なのだ。 しかし神は理不尽ではない。 人間が神の御心にかなう方向に進む意志を示せば、必ず道ができるからだ。 反面、神は飼い慣らされたライオンではない。 人間の思いのままに動かれる方ではない。 だから自分の思いが常にそのままきかれるとは限らない。


「おまえはそれでいいのか」という声について

ときおりこんな声が聞こえてくる。

  「おまえはそれでいいのか」
  「おまえは、こうしなければならぬのに、全然できていないではないか」

その声はよく注意して聞く必要がある。 それは、いつもの、聖書や祈りを通して聞いているあの神の御声だろうか? それとも、それとは異なる声だろうか?

笑い飛ばすべきとき

自分の心に聞こえる声が、 単純に自分の状態をマイナスに引き下げようとする声、 地の底に引きずり込もうとする声、 劣等感を刺激し、あるいは欲望やプライドをくすぐるような声、 であるときは、 イエスの名によってその声のもとを縛ってしまうのがよい。 笑い飛ばし、蹴飛ばしてしまうのがよい。 その声は小賢しいサタンのちんぴらの声だからだ。

きちんと告白してゆるしてもらうべきとき

良心も私の罪を告発する。 そのときは、神さまの前にきちんと自分の罪を告白し、 心からの悔い改めをする必要がある。 (つまり、神さまに「ごめんなさい」するわけである) イエスキリストの十字架を頼りとして祈り、 主の権威によってゆるされたという確信をいただく必要がある。 天地万物をお作りになった唯一絶対の神にはゆるしを与える権威がある。 そして、神がゆるしたもうたことを、他の人が罪に定めるわけにはいかない。 良心、そして律法の厳しさをきちんと認め、しかしイエスの十字架の赦しの確信を得、 神に大いなる権威があることをしっかりと認識する必要がある。

うろつくサタンの撃退法

サタンのちんぴらはいつもちょろちょろあたりをうろつく。 神の力を過小評価させようと心に働きかけたり、 神が「ゆるす」とおっしゃっていることを、またぞろもちだして、つついてくる。 イエスの御名によってサタンを追い出そうとすると、今度はプライドをくすぐるように、 「あんたにはすごい力があるなあ、あんたには何でもできるんだな」などとささやいてくる。 その罠にはまらないように。 サタンは、答えの出ない無意味な議論に持ち込もうとする。 すべての栄光は主に帰し、そして歯を磨いて眠るのが一番。

まず神を第一に

神について知ること。 聖書が語っている神について(自分との関わりの中で)学び、体験すること。 これがとても大事なことだと思っている。 自分の気持ちや自分の考えをさぐることよりも、大切だ。 神を第一にすえなければ、どこかが狂ってくるものだ。


「罪」について

罪とは、自分を神とすること。 罪とは、神が願うようにではなく、自分が願うように生きること。 罪とは、神の命令に従わないこと。

罪は神から離れている状態であり、神はすべての喜びや幸せの源泉だから、 罪をおびたままでは、真の幸せには至れない。 神が人間のために用意している真の幸せに。

でも自分が罪人(つみびと)である、と思っていない人や、 自分が「自分勝手に生きている」と思っていない人は、 特に「救い」を求めることはないだろう。

と言っても、他人の罪を暴こうとか、 他人に対して「あなたはつみびとだ」と糾弾しようとか思うわけではない。

自分を振り返っても、自分がキリストに会う前は、 自分が自分勝手に生きているなんて考えたこともなかった。 愚かな私は「自分は賢い」と思っていたが、 自分がどれだけ「本当の愛を知らない」人間かを知らなかった。

罪も知らず、愛も知らず、神も知らず、 つまりは人生のことも、自分のことも、人間のことも知らなかった。

いや、もちろん、今でも「知っている」とは言えないのだろうけれど、 以前の私は、自分が何も知らないということすら知らなかったのだ。 いうなれば、たましいは眠っていたのである。


聖霊と異言について

父なる神、御子なるイエス、については比較的理解しやすいけれど、 神の第三位格である聖霊(せいれい)は一般に理解しにくい。

ヨハネによる福音書の終わりの方にはいくつかヒントが登場する。

・イエスが遣わす助け主(16:7) ・あなたがたをすべての真理に導き入れる(16:13) ・求めれば受けられる(16:24)

しかし聖霊と言えば何といっても使徒行伝である。 使徒行伝の2章に、聖霊の降臨の様子が描かれている。 ひとりひとりが聖霊に満たされて、 御霊が話させて下さる通りに、他国の言葉で話し出した。 ここから弟子たちの大胆な伝道が始まるのである。

そこで語られているのは「異言(いげん)」と呼ばれる言葉である。

異言は聖霊に満たされた明瞭なしるしの一つで、誰にでもわかるものである。 パウロ自身も異言によって語りまた祈っていた。 しかしまたそれを秩序だって行うように語ることを忘れなかった。 それはパウロがコリントの手紙第一14章で述べている。

聖霊は求めれば受けることができる。 また聖霊の満たしに伴って異言を語り、祈ることができる。 これは聖書に書かれていることである。 聖霊の満たしによって力を受け、聖霊の賜物を受け、 御言葉をいっそう深く知り、大胆に伝道を行うことができる。

私も毎日、異言によって祈っている。 自分自身すら気がつかないでいる罪のとりなしの祈りを聖霊がなしてくださることを願い、 また、自分の「舌」という大事な器官を神に委ねる信頼と従順のしるしとして。


自意識について

自意識が強すぎると、疲れる。 小学生のころ、学校を休んだ後の初めての登校がとてもいやだった。 誰も私が休んだことを気にしていないのに。 私は自意識がすごく強かったのだ。

実は今でも同じだ。 頭で「他の人は、私のことをそんなに意識していない」と わかっているから何とかやっていけるけれど。 実は、自意識がとても強い。

ちょうど、テープレコーダーに録音した自分の声を聞くようなものだ。 「他の人は、いつもこの声を聞いているのだ」と頭では理解しているが、 なんとなくいやな感じがするのと似ている。

テーゼ:他の人は、私のことをそれほどは気にかけていない。


「考えを受け入れる」ことについて

「考えを受け入れる」とはなにか。 人から聞いた話を「ああ、その通り」と受け入れるとか、 本で読んだ話を「確かにそうだなあ」と受け入れるとか、そういうことだ。 逆もある。人や本を通して得た考えにたいして、 「いや、それはちがうんじゃないか」と受け入れない場合もある。

人や本など、自分の「外」からやってくる考えに対しては よく吟味する人でも、自分の「中」から湧いてくる考えに対しては 無防備な場合があるのではないか。 自分の中から湧いてくる考えであっても、 無防備に受け入れてしまうのは危険だ。

人生は日々、選択だ。 外や中から自分にやってくる考えに対して、 「うん、これはそうだ」「いや、これはちがう」 ということの繰り返しだ。 もちろん、その判断は正しいこともあるし、間違っていることもある。 しかし、自分が下した選択の結果は自分に帰ってくる。 よいものも、わるいものも。

クリスチャンの判断基準は聖書であり、神である。 これはとても厳しい。そしてゆるがない。 でも、だから、基準として意味がある。 聖書の基準はとても厳しいから、普通の人間は自分の無力さを知る。 そして自分の自分勝手さを知る。 でも落胆することはない。だってそれは正しい姿なのだから。

聖書の基準を自分の力では満たせない、と知ることからすべてが始まる。 自分は自分勝手に生きることを欲しているのだ、と知ることからすべてが始まる。 自分の努力だけでは絶対に行き詰まるのだ、と知ることからすべてが始まる。 もし本当に神というものがいて、すべてをご存知で、 公正に裁きというものを行うなら、私は有罪を免れないに違いない、 と知ることからすべてが始まる。

でも、必要以上に恐れることはない。 神さまは救い主を備えていて下さるからだ。 自分が病気だと知っている人は医者に行く。 また医者の治療や薬を受け入れる。 でも自分が健康であり、助けを必要としていないと思っている人には医者は無力である。 患者が治療や薬を受け入れないのだから。

自分が、どうやら自分の力だけではやっていけないようだ、と思った人は、 このままではまずい、実際ほんとうにまずい、と思った人は、 本気で思った人は、 大きな不安の中に入るだろう。 けれど、そこのすぐそばに救いへの道がある。

あなたが、神のことを知るより先に、神さまはあなたをご存知だ。 あなたが、神のことを愛するより先に、神さまはあなたを愛している。 だからこそ、イエスさまをこの世に送られたのだ。 あなたがよい人間だから神さまが愛して下さるのではない。 むしろ逆だ。あなたが死に至る病を抱えているから、癒し主なるイエスさまがいらしたのだ。

イエスさまは、あなたを愛している。 イエスさまは、あなたの心の扉をノックしていらっしゃる。 扉を開くのは、あなたの意志にかかっている。


20代のむなしさについて

20代のころ、よくむなしく感じていた。

プログラムを少し書いては、 「こんなことして何になるんだろう」 と思っていた。

夜、たった一人でふとんの中でノートに少し文章を書いては 「こんなもの書いて何の意味があるのか」 と思っていた。

わけもわからず焦っていた。 一日過ごしても、何も「積み上げた」感じがせず、とてもむなしかった。

あの時代って、いったい何だったんだろう、と思う。 他の人はうまくやっているように見えるが、 自分だけ何だか何にもできないような気分だった。

自己評価基準が異常に高かったのかもしれないし、 完璧主義だったのかもしれない。 今、すぐ、自分の問題が雲散霧消することを求めていたのだろうか。 変化の時期だったのだろうか。

私は誰かに「あなたはそのままでいいんだよ」と言ってもらいたかったのかもしれない。

今、現在、もがいている時期の中にいる方もたくさんいらっしゃるだろう。 どうか、自分自身に「猶予期間」をあげてやってほしい。 課題は多く、壁は厚いのかもしれないけれど、 今の苦しい時期が永遠に続くわけではないだから。

あなたのために、祈っています。


「神」という言葉を使っていてもキリスト教とは限らないことについて

特に「神」とか「キリスト」とか「イエス」という名前を使っていても、 内容がまったく聖書にもとづいていなかったり、 あるいははっきりと聖書に反していたりする場合もあるから、 無批判に受け入れてしまうのは危険だ。 よく吟味する必要がある。以下に例を示す。

「神は存在しない」
 と主張するのはキリスト教ではない。
 これは無神論(むしんろん)だ。

「人は神になれる」
 と主張するのはキリスト教ではない。

「自然と神は一つである。万物は神である」
 と主張するのはキリスト教ではない。
 これは汎神論(はんしんろん)だ。

「絶対的な善は存在しない」
 と主張するのはキリスト教ではない。

「すべての人は無条件に救われます」
 と主張するのはキリスト教ではない。


仕事について

仕事っていうのは、 きれいなオフィスで、時間がたっぷりあって、 自分の思う通りに物事が動いて完成するものだと思っていた時期があった。 (こうやって言葉で表現するとまるで馬鹿みたいだな)

でも事実はそうではない。 仕事は場所や、環境や、時間にはあまり左右されない。 (正確には、よい場所や、よい環境や、たっぷりの時間があれば いつもよい仕事ができるとは限らない)

仕事ではじめに大事なのはおそらく意志だ。 何かをやろう、と思う意志。 特にやりはじめのときは意志がとても大事。

あと意外に大事なのが習慣。 (毎回「よし、何かをやろう」と意志するのはとてもつらくて難しいから。 よい習慣の力を借りるといろんなことができる。 逆に言えば、悪い習慣というのは、非常に悪い)

それから(クリスチャン以外には同意していただけないかもしれないが)、 自分を信じないことも、仕事においては大事だ(と私は思っている)。 自分の力を信じないこと。 自分の力だけでやりとげられると思わないこと…


子育てについて

(ある方からいただいたメールへのお返事です)

主の御名を賛美します。

ほろほろビスケットというのは、 食べるとほろほろっとくだけていく感じのもろいビスケットです。 ミルクティにとても合います。 家内は料理がとても上手です。

お手紙で子育てに関してご質問をいただきました。 結城はいま子育て真っ最中なので偉そうなことは言えないのですが、 現状のどたばたを少し書きます。

確かに、うちにはテレビは置いていません。 これは息子が生まれる前からそうです。 私も、家内も、結婚前からずっとほとんどテレビを観ない生活をしていましたし、 結婚するときもわざわざテレビを導入しようという気持ちは両方にありませんでした。

ですから、息子はテレビがないのが通常の状態と思っていると思います。 うちの息子もひとりでいい子に遊んでいるときもありますし、 家内にまとわりつくこともあります。 でも家内は(遊ぶときにはずいぶん遊びますが)家事で忙しいときは遊ばないので、 息子の方では「そういうものだ」と思ってひとりで本を読んだり折り紙をしたりしています。 最近は自分でいろいろ考えて創作オブジェを作っています。 家内が体調が悪くて寝ている時などは息子はひとりでずっと遊んでいます。 (ちらかりますけれど、静かにしています)。

息子はいま4歳で何でも親と同じことをしたがるので、 うまいチャンスをとらえてお手伝いをさせています。 家内はそれがとてもうまく、 ・ケーキの卵を割る ・牛乳や卵を冷蔵庫から取り出す ・新聞を取ってくる ・お風呂のお湯がたまったかをチェックする、たまっていたら止める ・コードレスホンの受話器をとりにいく、充電器に戻す ・お米をカップで量って内がまに入れる ・炊飯器や食器洗い機のスイッチを入れる ・洗いあがった食器を cupboard に戻す などは息子にまかせています。

次に、子どもの叱り方についてですが、これはとても難しいです。 ちらかして片づけないとき(子どもって本当に片づけませんよね!)、 私たちもつい「汽車いらないなら捨てちゃうよ」と言います。 ときには本当にごみ箱に捨てます。あるいは「明日のおやつ抜き」になったりします。 「子どもは叩かない」というのが私たちの方針ですが、 あまりにも疲れているときなど、感情的に叩いてしまうこともあります。 そのときには、あとで謝ります。 聖書では「子どもをおこらせてはいけません」とエペソ6章にありますが、 しょっちゅうおこらせてしまいます。

反抗心を見せたり、わざと親を困らせたりすることはしょっちゅうありますが、 できるだけ落ち着いた口調で「これこれはしてはいけない」 「あなたがそんな顔をしていたら私たちはとても悲しい」 という旨を伝えます。

これは私が個人的に感じているのですが、 「返事」というのは大事な要素だと思います。 息子が不機嫌なとき、名前を呼んでもすぐに返事が返ってこないからです。 返事を返さないのは「あなたの言うことは聞きたくない」という意思表示なのでしょう。 でもそれと同時に息子の中では「言うことを聞いた方がいいのだろうな」という 思いもあるのだと思います。 そういうときには私の方から「はい」と返事をしてやることもあります。 そうすると、それに導かれるように「はい」と息子も返事をします。 返事ができれば、意外にすっとこちらの言うことを聞いてくれるように感じます。

例えば、

 私「お味噌汁、飲んでね」
息子「…(無言で向こうを向き返事をしない)」
 私「はーい」
息子「はーい(とこちらを向き、ゆっくり飲みはじめる)」

という具合です。

でも、このような子どもとのやりとりもマニュアル化してはだめなのだろうな、と思っています。 子どもとの付き合いは、普通の人間関係と同じで、パターン化しがちです。 ダンスを踊りながら少しづつステップを変えていくように、 付き合いかたもその都度変化させていくのがよいのかな、 と思っています。 何にせよ、親の忍耐はまことに試されますね(^_^; ガラテア書の御霊の実の中に「忍耐」が入っているのもよくわかります。

家内は専業主婦なので、保育園には入れていません。 幼稚園にも行っていません。 シュタイナーの幼稚園のことを以前調べていたのですが、 宗教上の理由からやめることにしました。 子どもの幼稚園や学校、私たちの住む場所や家のことなどは、 我が家のこれからの課題です。 どうぞお祈りのうちに覚えて下さい。

子育ては大変ですが、神さまから授かった子どもですので、 すべて必要なものは神さまが備えて下さることを信じています。 また子育てを通して、親である私たちも主に練られることも感謝です。 それに加えて、子どもを見るにつけ、 「親というのは本当にありがたいものだ」とか、 「神さまも私たちをこのように見ているのだろうな」とか いろいろと思うこともあって感謝です。

ご家族のみなさまの上に神さまからの祝福が豊かにありますように。 子育てのための油注ぎが豊かにありますように祈っています。

それでは、また。


「一致」について

クリスチャンでは「一致」ということがよく言われる。 クリスチャンが一致というときは、 「イエスキリストにあって一つ」 「イエスキリストを頭として一つ」 「キリスト教の宗派を越えて一つ」 ということのように思う。

ところで、 反キリスト的な流れ、例えばニューエイジなどでも 「統一」とか、 「すべては一つ」というスローガンがよく登場する。 例えば、 「要するに神さまはどんな神さまでも同じなのだ」 とか、 「どんな宗教も根本は一つだ」 とかいう主張だ。 これは一見、とても他の宗教に寛容なように聞こえるでしょう。 でもこういう主張は、結局のところ、提唱している人の主張であり、 人間的な教えであり、本当の神を認めない立場の主張にすぎない。

どんな教えも、吟味が必要だ。 「一致」とか「一つである」という主張を耳にしたときには、 「何において一致するのか」 「本当にそれらは一つにまとめてよいのか」 を吟味する必要がある。


ニューエイジについて

ニューエイジというのは、

 諸思想・諸宗教を統一し、東洋の汎神論的影響を受け、
 人間の内に神性を見い出し、オカルト的指向を持つ、
 組織というより(中には組織化しているニューエイジのグループもあるが)、
 社会の様々な領域に広がりつつあるネットワークであり、霊的流れである。

と『ニューエイジ ムーブメントの危険 −その問題点をさぐる−』 (尾形 守著、プレイズ出版、ISBN4-938764-14-8) という本で要約されている。

一方「反キリスト」とは何かというと、聖書によれば、

偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者 でなくてだれでしょう。御父と御子を否認するもの、それが反キリストです。 (ヨハネの手紙第一 2:22)

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。 それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。 なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出てきたからです。 人となってきたイエス・キリストを告白する霊はみな、 神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。 それは反キリストの霊です。 あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、 今それが世に来ているのです。 (ヨハネの手紙第一 4:1-4:3)

と書かれている。 イエスがキリストであることを否定する者が反キリストである。 つまりあの十字架にかかったイエスこそが、神の御子であり、 私たちの唯一の救い主であるということを否定する者が反キリストである。

人間の目にはよさそうに見えるものであっても、 人間の耳にはよさそうに聞こえるものであっても、要注意である。

霊的なチェックが必要である。 <霊だからといってみな信じてはいけません> そう。私たちを導いて下さる聖霊もあれば、 私たちを惑わし、人生を狂わせようとする悪霊もあるからだ。 <霊だからといってみな信じてはいけません>

あなたの思想・考え・メッセージ・人生の指針・判断基準はどこにありますか? 聖書にありますか? それとも聖書を逸脱した誰か個人の思想ですか?

自分の思想に、聖書を越えた権威を持たせるような話は受け入れない方がよい。 それは結局のところ、人間を神の座にすえることになるからだ。

現代の日本の書店には、聖書をはじめとするちゃんとしたキリスト教の本もあるけれど、 ニューエイジをはじめとするさまざまな思想の本もあふれている。 文章中にいくら神秘的な雰囲気がただよっていても、 あるいは目によく、耳に心地よい言葉が並んでいても、 あるいは「神」とか「イエス」という言葉が登場してきても、 安易に受け入れてはいけない。

異なる複数の宗教を安易に一つにまとめようとする働きにも警戒が必要である。 人と人が喧嘩せずに仲良くすることと、 宗教を一つにまとめるという暴挙を同一視してはいけない。

あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない。 (出エジプト記 20:3)

これが十戒の第一番目である。


罪や病を憎むことについて

罪はどんな小さな罪でも憎む。罪は受け入れない。 病はどんな小さな病でも憎む。病は受け入れない。

もちろん、罪の内にあるみじめさや、悔い改め、罪からの解放が 人生にとって有益な学びとなることはある。 また、病を通して人の愛を知り、あるいは他の病の人の気持ちを理解し、 あるいは自分のうちにけんそんな思いが生まれることもある。 つまりは、罪も病も、その状況を通して主は働かれる、ということだ。

どんな状況も主に感謝する、ということと、 罪や病を自分の内に歓迎して受け入れる、ということは別のことだと思う。

主よ、この病を私は憎みます。 この病を主が取り去ってくださいますように。 しかし、現在のこの自分の病を通しても、 あなたが働かれてくださり、最善をなしてくださいますから感謝します。

という祈りは正しいと私には思われる。

一日生活していると、さまざまなよくない思い、不品行な思いが自分を襲う。 クリスチャンになったからといって、そのような思いが襲ってこなくなるわけではない。 むしろ、以前より多くの思いが襲ってくるような気がする。 でも、それは、罪に敏感になっているからだ。 よくない思いが自分にふと浮かんだら、さっとイエスの御名によって追い払えばよい。それで完了。 イエスの御名には権威があるから、よくない思いは雲散霧消する。 きっと誰にでも、よくない思いが心に浮かぶと思う。 そのとき、そのよくない思いを受け入れたり、抱きしめたり、大事にしてはいけない。

「イエスの名によって命じる、よくない思いよ出ていけ」

とはっきり心のうちに唱えて、あとは、自分の仕事にもどればいい。 さあ、今週も、主の守りのうちに素晴らしい日々を歩んでいきましょう!


何となく気分がすぐれないときの対処法について

仕事に向けて、気分がすぐれないとき、その理由を文章で表現するとよい。

 「○○の仕事について」

という表現ではなく、

 「私は○○の仕事の打ち合わせに出たくないと思っている」

などのように具体的に文章にしてみると、はっきりする。 自分が何を恐れているかがはっきりする。

 「打ち合わせで、自分の意見を出したとき、反対されるのではないかと恐れている」

という感じにね。 そうしているうちに、 そんなことを今考えていてもしょうがないことに気づいたり、 具体的に打つべき手に思い至ったりする。

 「反対意見や賛成意見を出し合うのが打ち合わせの目的だから、これでいいのだ」
 「前もって資料を配布しておけば、誤解の恐れがないな」

という風に。

一つの恐れが心を占め、それだけに意識が向いていると、 もっと考えなければならないことに気がつかない。

さらに、自分の状態に過剰に意識が向いてしまうと、 あー、どーしよ、どーしよ、という気分になってしまう。 自家中毒というか、何というか…

いったん自分の状態を確認したら、あとは自分以外に目を向けよう。 信仰を持っていたら、人となられた神、イエスさまの十字架を仰ぎ見よう。 私は作られたものに過ぎない。創造者である神を見あげ、神をほめたたえよう。 主にすべてを感謝しよう。ハレルヤ!


天国に行くということについて

イエスキリストだけが私たちに与えられた救い主である。 自分の罪を悔い改め、イエスキリストを信じる人は誰でも永遠の命を得、天国に行ける。 イエスキリストを通ることなく天国に行くことはできない。

こういったキリスト教の主張は、キリストを信じない人には不評のことが多い。 それは当然のことだ。 キリストを信じない人に対して、 「あなたは今のままでは天国には行けませんよ」 と主張しているのだから。

「キリスト教の神さまはそんなに狭量なのか」と文句を言う人がいる。 「どんな善人であっても、イエスキリストを信じなければ天国に行けないのか」と憤る人もいる。 「そんな天国なんざ行きたくない。喜んであの人がいる地獄に行こう」と思う人がいる。 「それでは、イエスが生まれる前の人は一人も救われていないのか」と議論をもちかける人がいる。

しかし、だ。議論はさておき、 恐ろしいことに、真理は一つなのだ。 聖書の主張していることが正しいか、どうか。

私はときどき、自分が死ぬときのことを想像する。 そのとき、私の持っている物はほとんど私にとって意味がなくなるだろう。 何一つ、私は持っていけないからだ。 イエスキリストについての議論、神学談義も、 もう私にとって意味はなくなるだろう。 誰と議論をして勝ったとか、負けたとかいうのは特に無意味だろう。 死にゆく人は、自分で確かめに行くのだ。 聖書が真理なのか、そうではないのか。

この世での寿命が尽きるときまで、 「イエスさま。あなたは私の救い主です。あなたは十字架の契約によって罪人の私を救ってくださいました」 という宣言をしっかりとつかんで、私は生きていきたい。

これを読んでいるあなた、イエスキリストの救いを今、信じませんか。 ぜひ、次のリンクをお読み下さい。


人生の基準について

ふと「信心深いことはよいことだろうか」と思う。 すぐに気が付く答えは「何を信じているかによる」だ。

よいものを信じていれば、信心深いことはよいことだ。 しかしよくないものを信じていれば、信心深いことはよくないことだ。

「自分のスタイルで信仰を守りたい」と思う人がいる。 それ自体は悪くはないが、けっこう危険な道のように思われる。 容易に「自分の都合のいいように進みたい」となってしまうものだから。

何か、しっかりした、よい「基準」がないと、道は容易にねじまがってしまう。 基準は「自分がそこからそれているかどうか」と判定するものだから、 自分以外の存在でなければならない。

あなたの人生の「基準」は何ですか?


キリスト以外には救いはないということについて

聖書によれば、イエスキリスト以外に救いはありません。 それは使徒4:12にはっきりと書かれています。 ですから、イエスキリスト以外に救いがある、という主張は聖書に反するものです。 また、イエスキリストには救いがない、という主張も聖書に反するものです。 「なぜ、イエスキリストなのか?」という問いを出すのは自由ですが、 神さまが定められた救いの方法、神さまが意図された救いの道、 聖書を通して私たち人間に与えられた救いの御名は、 たった一つ、イエスキリストだけです。

人間は、自分の思う通りに人生を送りたいと願ってしまうものです。 困ったとき、救いを必要としているときでも、自分の思う通りに救われたいと願ってしまいます。 自分のスタイルでの信仰、自分が思い描いた神さまを願うのです。 頭の中で考え出されたものはツルっとしていて小さくまとまっています。 しかし、本当にリアルなものはゴツゴツしています。 そこには驚きがあり、不思議があります。自分の理解を越える部分が多々あります。

神さまが人間に(いや、これを読んでいるあなたに)与えてくださった救いは、イエスキリストです。 これ以外に本当の救いはありません。 この地上に人となって来られた、神の御子イエスキリスト。 十字架にかかり私たちの身代わりとなって死なれたイエスキリスト。 三日の後に死に勝利し、復活なさったイエスキリスト。 ここにしか本当の救いはありません。 たった一つの、本当の救いがここにあるのです。

この方(イエス・キリスト)以外には、 だれによっても救いはありません。 世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、 どのような名も、人間には与えられていないからです。 (使徒 4:12)


イエスは神の御子か、狂人かのどちらかでしかない、ということについて

イエスのことを、

「立派な人間だが、信じるだけで天国へ行けるとは思えない」 「偉人だけれど、信じるだけで永遠の命がもらえるというのは話がうますぎる」

と考える人々がいる。 そういう人々には、ぜひ聖書を読んでもらいたい。

イエスという人は、単なる立派な人間とか、偉人とか、道徳教師ではない。 「神の御子」であるか、さもなくば「狂人」かである。 「大ぼらふき」かもしれないけれど。 だって、ヨハネ 11:25 によれば、 「私(イエス)を信じるものは決して死ぬことがありません」 とイエス自身が言っているのですから。

イエスにそのような力と権威が本当にあるか、狂人か、大ぼらふきか、どれかですよね。 決して「単なる立派な人」ではない。

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また生きていて私を信じるものは、決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 (ヨハネ 11:25)


「教義」について

キリスト教の教義(きょうぎ)、 つまり「キリスト教が真理だと主張していること」はとても大事です。 教義をはっきりさせないと、 「私はキリスト教を信じています」とか、 「私はクリスチャンです」という主張が何を意味しているか、 何もはっきりしないからです(当たり前か)。

「教義よりも、愛が大事だ」という主張は、取り扱い注意です。 だって「愛とはどんなものなのか」というのも教義の一つだからです。 教義をはっきりさせないことには、大事にすべき愛がどういう愛なのかはっきりしないですね。

イエス様は、パリサイ人や律法学者を厳しく批判なさいました。 しかし、聖書を批判・否定することはなさいませんでした。

「教義よりも、愛が大事」というときは、 「教えを教えとしてだけ取り扱って、実世界への適切な適用を忘れたり、 自分の信奉する教えを相手の実状も見ずに押し付けるのはよくない」 という意味あいかと思います。それはまことにそのとおり。 しかしそれを推し進めて、教えを否定したり、 教えをねじまげたりすることはよくないことだと思います。

教義は大事です。なぜなら、人間は弱いもので、 安易に「自分の感情」とか「自分の感性」のみに頼って物事を判断しがちですから。 それは自分を神とする行為です。

「聖書にこう書いてあるから正しい」という道から離れて、 「私がこう感じるから正しい」に向かってしまいがちなのです。 (自戒をこめて、そう思います)

(かといって、自分の感じること、自分の考えることはまったく意味がないのか、 というとそうでもないのが面白いところなのですが、それについてはまたいつか。 自由意志とも関係してきそうですね)

自分の感情がどうあれ、聖書の教え(教義)は変化しません。

私の感情がどうわめこうとも、私は永遠の命にあずかっています。 なぜなら、私はイエスキリストを神の御子と信じているからです。 「私(イエス)を信じるものは、決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:25) と聖書に書いてあるからです。

私たち人間に、神の言葉である聖書が与えられていることは 何と大きな恵みであり、祝福でしょう。 私たちは、 聖書を通して自分の罪を知ります。 聖書を通してイエスキリストが地上に来られたことを知ります。 聖書を通してイエスキリストの十字架を知ります。 聖書を通してイエスキリストの罪の赦しを知ります。 聖書を通してイエスキリストの贖いを知ります。 聖書を通してイエスキリストの愛を知るのです。

聖書を与えてくださった神さまに感謝!

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、 価なしに義と認められるのです。 (ローマ 3:23, 24)


「本当の救い」について

人は「本当の救い」を求めている。 自分の中にある悩みの解決がどこにあるのかを求めている。 本当の神さまに対して告白したり、祈ったりする生活が身についていないと、 どうしても「人間的な範囲」でしか考えがおよばないから、 「どうせ私はいつも…」とか 「この私の苦しみは誰にもわからない」とか 「この悲しみは決して癒されることはない」とか 思い込んでしまう。でも、やはり悩み多い毎日は苦しい。 心のどこかで「本当の救いは人間からは得られない」とわかっていても、 頼るものが人間しかいないから、疲れたり、むなしい思いに陥ったり、あきらめたりする。

人間は、あなたを救えません。 知識も、お金も、名声も、あなたを救えません。 ○○先生の素晴らしい教えも、 ○○氏の画期的な道徳も、あなたを救えません。 よいことを言っている人は世界中にたくさんいます。 でも、どんな人も死んでしまいます。 いまのあなたを本当の意味で救ってくれるのはいったい誰でしょう。

私たちは道徳をたくさん聞きました。 何をなすべきかもたくさん聞きました。 でも、私たちはその「よいこと」を自分の力ではできないのです。 そして私たちがやってしまった「あの悪いこと」の影響から 自分の力で抜け出すことができないのです。 自分の行いや、自分の悪習慣や、自分の無気力や、 自分の人間関係や、自分の今かかえているさまざまなトラブルから、 自分の力で抜け出せないからもがいているのです。

あなたを救うのはイエスキリストという方です。 あなたの罪、自分勝手、自己中心からくる死の報いを、 あなたの代わりに十字架の上で担ってくださったのがイエスキリストです。 十字架の上で死に、復活し、いまも生きておられるイエスキリストが、あなたの救い主です。 あなたを救うのはイエスキリストの十字架しかありません。 イエスキリストの十字架を信じ、自分の罪を悔い改め、告白するとき、 あなたの罪は神に対して完全にゆるされます。 そして、行いを改める力、悪習慣を断ち切る力、無気力から脱出する力、 人間関係を解決する悟り、さまざまなトラブルを益にしてしまう知恵、 あなたの悲しみや傷のいやし、あなたの苦しみの本当の意味の慰めが イエスキリストから与えられるのです。

あなたに命を与えたのは神さまです。あなたの命を保持する不思議を思うとき、 あなたの抱えているいっさいのことを解決する力がどうして神さまにないと言えるでしょう。 神さまにできないことはないのです。

すべての罪がゆるされ、聖められ、天国に至る永遠の命を得、 そしてこの地上の限られた命を本当に意味のある時で満たし、 愛にあふれる人生を送るため、 イエスキリストの十字架の契約を、今、信じませんか。


永遠の命について

聖書でいうところの永遠、特にこの世界と人間との関係における永遠は、 直線的で後戻りがきかない感じがする。 キリスト教の「この世」と「あの世」のあいだには線があって、戻ってはこない。 直線的な歴史観である。

そして、この世とあの世には断絶がある。

キリスト教でいう「永遠の命」の「永遠」とは、 現在の私たちの不完全なからだや不完全なこの世を延長させた永遠ではないように思う。 私たちは永遠をイメージするとき、現在のいまの私たちの生活が時間的に引き伸ばされた ものを想像してしまう。でも、そうではないように思う。

途中にはとても大きな断絶がある。 端的に言えば「死」だ。

洗礼を受ける。結婚をする。神を愛する。他の人を愛する。 実は、これらはすべて一種の「死」なのではないか。 自分の抱きしめている何かを手放す、死。 そして人生の最後には、肉体の死がある。

そしてその後に神さまから新しいからだ(栄光のからだ)をいただく。 洗礼。結婚。神への愛。隣人への愛。 そういったものを通して、 私たちは死と再生の練習をしているのではないか(ある意味で)。

この世もいつかは終わりが来る。 それはこの世の「死」だ。 そして、イエスさまが支配する「新天新地」がやってくる。

結城は洗礼を受け、結婚もしている。 その前後を思い返すに、そこには確かに大きな断絶がある。 (洗礼前と洗礼後、結婚前と結婚後の自分の意識) 何がどのように、というのはうまく言えないけれど。