結城浩
1998年の日記からの抜粋です。
質問
この世には善も悪もなく、ただ神の愛のみがあるのではないですか。
回答
これだけでは意味不明です。
善も悪もないところにどうやって愛がありえますか。
質問
世界は神で満ちている。すべての人は世界であり、すべての人は神である。
そうでしょう?
回答
これもまた意味不明です。
なんだか気分がよくなった錯覚がするが、
その意味するところはさっぱりわかりません。
質問
おお、すばらしきかな人間。人間こそが最高の価値、最高の善である。
そうでしょう?
回答
いや、そうではありません。
人間を作った神、人間によい働きをなしてくださる神の方をほめるべきなのです。
質問
クリスチャンは縛られている。人間はもっと自由なのに。
回答
ええ、そうです。クリスチャンは神さまによろこんで縛られています。 その束縛は、愛の束縛です。 人間がもっとも人間らしく生きるために必要な、愛の束縛なのです。 あなたの言う自由だというのは単なる放縦ではないのですか? 自分の思い通りにすることが自由だと思っているのですか? 結局、それは「自分を神にする」教えにすぎないのではないでしょうか。
クリスチャンが聖書の教えに従う(従おうという意志を持っている)
という意味では、クリスチャンは「縛られて」いる。
それは
「夫婦なのだから不貞をおかさないようにしよう」とか、
「親なのだから子どもをきちんと養育しよう」とか、
「C言語でプログラミングしているのだからC言語の文法に従おう」とか、
いうのを「縛られている」と表現するのに近い。
正当な権威にしたがうことはよいことなのです。
質問
神は善悪を越えた存在ではないのですか?
回答
「善悪を越えた存在としての神」というのは、 うっかりうなづいてしまいそうになるフレーズだが、あまり意味がない言葉ですね。 しいていえば大嘘です。 神ほど善なる方はいないし、神ほど善悪・正邪に敏感な方はおられませんから。
質問
だって神は人格を越えているのでしょう?
回答
「人格を越えた神」というフレーズも曲者です。 その意味するところをよく吟味してみてください。 神が人格をもっていなかったら祈る相手になりえません。 たとえば人格を持っていない電気に祈ってもしかたないのと同じことです。
質問
なるほど、確かに神はいるかもしれない。 しかし、なぜ、イエスでなければならないのだ?
回答
あなたのその問いは真摯なものかもしれませんが、 じゃあ、どういう形だったらよかったのでしょう。 人間に差し出された救いが、どんな形だったら、 救い主がどんな姿だったら、何国人だったら、いつの時代だったら、 あなたは、神の現われを信じるというのでしょうか。
そうではなくて、耳をすまして聞いてください。 そうではなくて、目をこらして見てください。 聖書に書かれている神の姿を。 イエスキリストが何のために十字架にかかったのかを。
質問
もしも救いが完成しているのであれば、 なぜ<イエスを信じること>を要求するのか。 なぜイエスを信じる人だけが救われるのか。 神はそのようにえこひいきをする方なのか。
回答
神はえこひいきをなさる方ではありません。 神は私たちを深く愛していてくださるので、 救い主としてイエスさまを送ってくださったほどです。 誰でも、誰でも、例外なく、 自分の罪を認め、悔い改めてイエスを信じるなら救われます。 そこにはえこひいきはありません。
私は神ではないから「なぜ」にはっきり答えることはできないけれど、 神様は「イエスを信じることによって救われる」とおっしゃっている。 イエスを信じることによって、新しい命を得ることができる。 「イエスを信じないままで救われたい」というのは、 もしかしたら「地上から離れることなく空を飛びたい」と願うことなのかもしれない。 それに、じゃあ、あなたはどんな風にして救われたいのですか? 自分の願うような形で救われるのでなければ、 救われたくない、とでも言うのでしょうか?
結婚した夫婦は一つのからだです。 たとえ妻がいかに貧しい育ちであっても、 王様と結婚するならお后様です。 クリスチャンはキリストと結婚したようなものですから、 死に打ち勝ったキリストと同じ命にあずかることができるのです。 イエス様はえこひいきなく、みなにプロポーズしている。 他の人はともあれ「あなた」はそれに答えるだろうか。 何と答えるだろうか。 クリスチャンは、イエス様からのプロポーズに対して、 「ふつつかな者ですが、どうぞよろしくお願いします」 と答えた人のことです。
質問
クリスチャンってなんて能天気なのだ。
回答
生きたクリスチャンは、 この天地万物を作られた神のことを信じている。 神から(自分にはその資格がないのに)愛されていることを知っている。 私の罪のために、 イエスキリストが身代わりの十字架にかかってくださったことを知っている。 イエスキリストが復活し、またこられることを知っている。 この世の自分の体は朽ちるけれど、この世の終わりに新しいからだをもらい、 永遠の命を得るということを知っている。 この世がすでに天国への一歩になっていることを知っている。 喜びに満たされる生活。
自分の狭い考えで神をとらえるのをやめよう。 けれど、すべて人間の理解を越えているから、と思考放棄するのもやめよう。 そうではなくて、耳をすまそう。 聖書が語っている神の声に耳をすまそう。 ほかの誰でもない、今の私に神が語っている言葉に耳をすまそう。 それはときにはつらいことだ。 自分の姿を直視することになるから。 けれども、けれども恐れるな。 神様が示す、あなたの本当の姿こそが、あなたを自由にする。 そこには虚栄がいらないからだ。 そこには隠し事がないからだ。
心を開いて、祈ろう。
「神様。あなたがご存知のように、これが私の今の姿です。 恥ずかしいけれど、これが今の私の姿です。 どうぞあなたの御心のままに私の姿を変えてください。 あなたの御用にたてるように私を変えてください。 私は自分で自分を縛っていました。 私は自分で自分をコントロールしようとしていました。 しかしその試みに私は疲れました。 神様。いま心の扉を開きます。イエスさま。私の中にきてください。 私の心の王座についてくださり、本当に正しい道に私を歩ませてください。 私を導く方は、あなたです。イエスさま。 あなたこそ私の主です。イエスさま。 あなたが内に住まわれていることを忘れずに生活することができますように。 イエスさまのお名前を通して祈ります。 アーメン」
質問
あなたの問題点は何だと思いますか。
回答
自分に愛がないことです。
質問
もっと具体的に言ってください。
回答
自分中心に考え、行動していることです。
質問
でもそれは、他の人もそうではないのでしょうか。
回答
そうかもしれませんが、他の人はさておき、私の問題点はやはり、自分が自分を中心にしていることです。
質問
あなたは自分の努力で自分の問題を解決できるのではないでしょうか。
回答
つい「自分の努力でできる」「自分の力でできる」と思いがちですが、それは誤りです。
質問
自分の力でなければ、どうやって問題を解決するのでしょう。
回答
自分の力ではなく、神さまからの力を得て解決するのです。
質問
神さまの力はどうやって得るのですか。
回答
神さまに祈ることで、また神さまに願うことで、また神さまに信頼することで得ます。 しかし、神さまの力だけを求める、というのはあまり正しくはないでしょう。 自分がやりたいと思っていることや方法ではなく、 神さまが私にさせたいと願っていることや方法を尋ね求めることが大事な態度ではないかと 思っています。
質問
祈れば神さまはあなたの言うことを聞くのでしょうか。
回答
私の祈りに神さまは耳を傾けてくださると思いますが、私の言うとおりに神さまが動くとは思いません。
質問
神さまがあなたの言うとおりには動かないと思うのはなぜですか。
回答
神さまこそが主であり、私が主ではないからです。 神さまが私の言うとおりに動くことを願うのは、自分を神とする間違った考えです。
質問
あなたは自分に愛がないと言う。そのようなあなたに神さまは何をしてくれるのでしょう。
回答
私には愛がないですが、神さまは私を愛してくださっています。 私にすばらしい計画を用意し、私の必要をすべて備えていてくださいます。 神さまは私に愛を与えてくださいます。 私が神さまを愛し、また他の人を愛するために。
質問
神さまがあなたを愛しているという証拠がありますか。
回答
あります。
質問
それは何ですか。
回答
イエスキリストです。
質問
どういうことでしょう。
回答
神さまは自分の唯一の子であるイエスキリストを私のために十字架につけて殺しました。
質問
そのことがなぜ、神さまがあなたを愛する証拠なのですか。
回答
本当は私が十字架につくはずだったのに、自分の子どもを身代わりにしてくださったからです。
質問
十字架で死んだイエスはその後どうなったのですか。
回答
完全に死んだのち、三日の後に復活し、その後天にのぼりました。
質問
あなたはそのことを信じているのでしょうか。
回答
はい、信じています。
質問
「自分中心に考え、行動する」というところから、どうすれば逃れることができるのでしょう。
回答
神さまからの愛を受けることによってです。 神さまからの愛を受け、自分の中心に自分を置くのをやめ、 自分の中心にイエスキリストに来ていただくのです。 自分のこころを開いて、イエスキリストに来ていただくのです。
質問
結城さんは、キリスト教の神はよいものであり、 キリスト教以外の神や仏はよくないものだと思っているのですか?
回答
はい。 私はキリスト教の神がよいものであると思っており、 それ以外の神(あるいは神々)はよくないものだと思っています。
質問
キリスト教は愛の宗教なのに、そんなに不寛容なのですか?
回答
キリスト教は愛の宗教です。 私は他の人を愛したいと思い、愛せることを願っています。
私は、ある人が持っている思想信条とその人そのものは別だと思っています。 ですから、ある人が持っている思想信条がよくないと考えることと、 ある人そのものを愛する、ということは矛盾しないことだと思っています。
私たちはみな不完全な存在であり、 ある人がその思想信条を持つようにいたった経緯を無視して 断罪するのはよくないことだと思っています。 しかし、そのように相手の人格を尊重することと、 ある思想信条を私自身が受け入れるのは別のことだと思います。
相手の自由意志を尊重しつつも、 これはよいことである、これはよくないことである、 と自分が思っていることを愛をもってはっきりと伝えることは よいことである、と私は思っています。 (ケース・バイ・ケースのことも多いですが)
宗教の寛容、と称して複数の宗教を安易に混ぜ合わせることについては 私は懐疑的です。それは一致と安定をもたらすものではなく、 むしろ不安定と混乱をもたらすように感じられます。
質問
結城さんは、キリスト教ではないものを憎みながら、 でも、祈りの小部屋などで他の人のために祈っています。 矛盾していませんか?
回答
矛盾していないと思っています。 私はよくない思想は憎みたい、 でも、ひとりひとりの人間は愛したいと願っているからです。
思想と、思想を信じている人は別物です。 よくない思想に対して、私は愛情をもとうとはしていません。 でも、人間に対しては理解し、愛情を持ちたいと願っています。
なぜなら、人は神さまがお作りになった大事なものであり、 人を愛することは神さまの命令であるからです。
そこで、イエスは彼に言われた。 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 (マタイ 22:37-39)
質問
結城さん。 神さまがよい方なら、どうして戦争があるのだと思いますか。 どうしてこの世はよくないのでしょうか。
回答
神さまはよい方です。 しかし、人間が神さまに従わず、罪をおかしているために 戦争をはじめとする大きな悲惨があるのだと思います。
質問
キリスト教ではよく「罪」とか「罪人」といいますね。 でも、私は自分なりに一生懸命やっているし、 人にうしろ指をさされるようなことはしていません。
回答
罪のない人は一人もいません。 私も、あなたも罪を持っています。 ここでいう罪というのは、現代風に言えば「ジコチュー」(自己中心)のことです。 神さまや人のことを考えずに、自分中心に考え、自分勝手に行うこと、 これが聖書のいう罪(の一つの現れ)です。
質問
神さまが人間を作ったのでしょう? どうしてそんな不完全な、罪をおかすような人間を作ったのですか? 人間は失敗作ですか?
回答
いいえ、人間は失敗作ではありません。 神さまは人間を神さまに似せてお作りになり、自由意志をもお与えになりました。 しかし、人間はその自由意志を乱用して、罪をおかしてしまったのです。
質問
どうして神さまはそんな罪をおかすような自由意志を与えたのですか。 すべての人間が愛しあうようにお作りになったらよかったのに。
回答
神さまの意図を知ることは難しいですが、 少し想像することはできます。 神さまは人間を「神を愛し、人を愛する」ようにお作りになったと思います。 ところで、自由意志がないのに「愛する」ことはできるでしょうか。 自由意志がないということは、 ロボットのように命令を機械的に実行するということではないでしょうか。
質問
「愛する」ことには関心があります。 もう少し話してください。
回答
「自由意志」と「愛」はとても関係が深いように思えます。 自由意志というのは「選ぶことができる」ということです。 <よいこと>と<悪いこと>が目の前にあるときに、 どちらかを選べる、ということだと思います。 「あちらを選ぶこともできたのだが、あえてこちらを選んだ」 「愛」というのはそういう局面をいつもはらんでいるように思えます。
質問
ふうん。 でも、罪のことばかり考えていたら、罪意識に悩まされてしまうんじゃありませんか? そんなのいやだな。
回答
プログラムにはバグ(誤り)がつきものです。 デバッガという道具を使うと、バグがいろいろ見つかります。 でもバグがぞろぞろ出てくるからといってデバッガが悪いわけではありません。 部屋が暗いときには部屋のほこりは気になりません。 でも光が当たるとほこりが妙に目立ってきます。 でも、光が悪いわけではありません。 罪に気づくことは悪いことではありません。 罪から逃れ、罪から解放される道を知っていれば。
質問
罪からの解放? 聖書を読んで学んだり、教会に行ったり、いいことをしたり、 お金を慈善団体に寄付したりしたら、罪は帳消しになりそうですね。 大きな罪なら大金を寄付するとか。
回答
いいえ。 いい行いをしたからといって罪は帳消しにはなりません。 もちろん、いい行いはいい行いです。 でも自分の罪を帳消しにするには、じゃあ、どれだけの行いをすればいいのでしょう? その罪の重さや大きさは何で量れるのでしょう。 ものごころついてから現在までに行ったすべての自己中心を、 どうやれば補えるのでしょう。 「これだけよいことをしたから、罪は帳消し」というのは、 かえって自己中心的傾向を増し、傲慢になるのではないでしょうか。
質問
じゃあ、罪はどうしようもないじゃん。
回答
そうではありません。 私たちはみな罪人ですが、私たちの代わりに罪をつぐなってくださった方がいるからです。 その方がイエス・キリストです。 イエス・キリストは私たちのために、約2000年前、 十字架の刑にかかりました。そして死に、お墓に葬られました。 しかし3日の後に死に打ち勝って復活しました。 イエス・キリストは罪のない方でありながら、 私たちの罪のつぐないとして十字架で死んでくださったのです。 この事実を私たちが受け入れ、心でイエス・キリストの救いを信じ、 自分の罪を神さまの前に告白するなら、 イエス・キリストの十字架の救いにあずかります。 それで、あなたの罪は、どんな罪でもゆるされるのです。 神さまとの救いの契約にサインしたことになるのです。
自分の罪を認め、悔い改め、 イエスをあなたの主であると告白し、 イエス・キリストの十字架による救いを信じるなら、 あなたは、もうクリスチャンです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、 あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、 あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 (ローマ 10:9-10)
質問
結城さんに質問があります。 どうしたら神さまの意図を知ることができますか。
回答
短く答えるのはとても難しいですが、 誤解されることを恐れずに、 過去に経験したことがある例を、私の理解している範囲で書いてみます。
まず、全般的な話として、他の人についてではなく、 自分自身についての神さまの意図について書きます。
(1) 状況を通じて神の意図を知る
不思議なほど、自分がそうせざるを得ない状況になる。 それは自分にとって好ましい状況のときもありますし、 いやでしょうがない場合もあります。
(2) 聖書を通じて神の意図を知る
聖書を読んでいると、そこに書かれている言葉が妙に心にかかる。 聖書に対して謙虚に心を開いて、深くその言葉について考えると、 現在の自分の姿そのままである。
(3) 牧会者を通じて神の意図を知る
具体的には牧師のメッセージ(礼拝の説教)を通して はっと自分のことを気づかされる。
(4) 祈りを通じて
願いをもって、あるいは日常として祈っていると、 心のうちにある思いが起こされる。自分の中に確信のようなものが与えられる。
(5) その他
いわゆる超自然的な幻や夢はあまり見たことはないですね。 あ、夢では少しあるかもしれません。 息子のこれこれについてはもっとケアをしなさい、というような夢を最近は見ました。
ふと心に浮かぶ声はよく聞きます。 でもそれは、鼓膜をうつ物理的な声ではなく、 聖書の言葉やメッセージが心に浮かぶという感じです。
例えば、
「主がともにおられるのだから、恐れるな」
「あなたはただ、自分のなすべきことをせよ」
(無駄話や人の陰口になりそうなとき)「それ以上語るな。すぐに口を閉じなさい」
「それはあなたのエゴだからやめなさい」
「そのことは、あなたの妻に相談して決めなさい」
「その企画をあなたのホームページでやるのはやめなさい」
などです。
どんな場合でも、それは聖書に反する行為ではないか、 家内や牧師に語ることがはばかられるような行為ではないか、 というのは私にとって重要なチェックポイントになっています。
それから、もう一つのチェックポイントとしては、 「もしもイエスさまだったら、そうなさるだろうか?」 という視点もあると思っています。
質問
ふうむ。結城さんのなすことが神さまの意図であると、本当にはどうやってわかるのですか。
回答
またまた難しい問題ですね。 私は神さまではないので「本当にはどうなのか」はわかりません。 何かの行為をした後で「まちがいだった」「失敗だった」と思うこともたくさんありますし。 (その場合には、正直に神さまに自分のあやまちを告白して、 イエスさまの十字架によってゆるしていただくことになります)
しかし、十分確信が得られているにも関わらず、 「<本当には>神さまの意図にかなっていないかもしれない」という恐れを勝手に抱いて おじけづくようなことにはならないように注意はしています。 特に、私は、 自分がやりたくないことについて「神さまの意図ではないかもしれないから」 を口実にしてさぼりたがる傾向があるので。
それと同時に「自分の分を越えない」という注意もしています。 例えば、既婚婦人へのアドバイスをするような局面があった場合には、 あくまで「既婚婦人を導くのは本来はそのご主人のつとめ」であることを わきまえるように心がけています。
質問
結城さん、こんにちは。 私は自分のことを「救うにも値しない者」だと思っています。 また自分のことを「生きるに値しない者」だと思っています。 そのような自覚が信仰には大事なのではないですか。 結城さんのよく書いている「救いの確信」とかいうのは、 何だかごうまんに聞こえます。 誰が救われるかとかいうのは神さまがお考えになることであって、 人間がどうこういうのは変じゃないでしょうか。 私は救いなど求めません。いま生かされているということだけで十分です。
回答
私の考えていることを書きますね。 自分を取るに足らぬ者だと思う自覚はとても大切だと思います。 また自分が生かされているということを感謝するのもとても大切だと思います。 信仰のどこかの段階で(いや、いつもなのかもしれませんが)、 自分がいかにちっぽけな存在であり、何も知らない存在であり、 ひとりでは生きられない存在であることを悟ることは必要だと思います。
しかし、そこにとどまっているのは(私にとっては)「ちょっと違う」と感じられます。 私は聖書に書かれている神さまを信じ、イエスキリストの救いを信じています。 確かに私も「救うに値しない者」であり「生きるに値しない者」です。 しかし、そんな私を救うために、 イエスキリストは十字架にかかって死んでくださったのだ、 と私はいつも思い返すのです。 それほどまでに、神さまは私を(そしてあなたを)愛してくださっているのです。
自己卑下や自己否定は、一見けんそんなように見えますが、実はもっともごうまんな姿ではないか、と感じるときがあります。 なぜなら、自己卑下や自己否定は自分しか見ていないからです。 むしろ自己忘却の方がよいのではないか、と私には思われます。 自己卑下や自己否定をやめて、イエスキリストに目を向けていたい、 と私は願っています。
私の場合には、 自己卑下や自己否定、つまり「どうせわたしなんか」という思いの裏には、 他の人から「そんなことないんだよ」と言ってほしい思いがちらちらします つまり、自己卑下や自己否定によって他人を自分に「かしづかせたい」のです。 自分を卑下することで、他の人の行動を支配したいのです。 自分を否定することで、他の人の注目を常に自分に集めていたいのです。 私はそのような私の傾向を憎んでいます。 私はもっと神さまに目を向けて、 神さまから与えられた貴重な時間を、神さまの御用のために用いたいと願っています。 そしてそのために必要な能力や機会は必ず神さまが与えてくださると信じています。
「いま生かされていることだけで十分」というあなたの信条を否定するつもりはありません。 でも、私は、神さまが私に「単に生きていればいい」と願っているとは思えません。 神さまは私の人生で私がなすべきことを備えてくださっていると思っています。 (きっとその多くは「自分の人生において「愛」をどう適用するのか」に関係していると思っていますが、 それはまたいつか)
「救いの確信」という表現がどうしてごうまんに聞こえるのか、はっきりとはわかりませんが、 おそらく「私は救われる価値がある」「私は救われるに値する人間である」というニュアンスを 含んでいるからかと思います。 私は、自分のことを「救われるに値する人間である」とは思っていません。 (いや、正直言えば、ときどきそう思っちゃうんですけれど、 そのたびにとてもそうは思えないような事態が起きたりして…) げほ、げほ。 ともかく、私は、自分のことを「救われるに値する人間である」とは思っていません。 しかし、神さまは聖書を通して「わたしの目にはあなたは高価で尊い」とラブコールして くださっています。神さまは私のことを愛してくださっています。 その証拠がイエスキリストの十字架です。 私の信仰や愛はふらふらしますけれど、 神さまの愛は変わることがありません。 神さまは私のことを(あなたのことも)愛しています。
神さまは聖書を通して私たちに「愛しているよ」というメッセージを送り、 そして、御子イエスキリストを信じれば、永遠のいのちが与えられると約束してくださっています。 これは神さまの約束であり、神さまの契約です。 私は、その神さまの契約にサインしたので「救いの確信がある」と宣言できるのです。
誰が救われるか、誰が滅びるのかは、神さまがお決めになることです。 人間がそれに口をさしはさむわけにはいきません。 ですから、神さまが与えてくださった聖書にしたがって生きようとするのです。
あなたの「救いなど求めない」という言葉の真意ははかりかねます。
(1) 神さまを信じていないか、
(神さまなどはいないと思っている)
(2) 神さまの力を過小評価しているか、
(どうせ神さまには自分のことは救えないと思っている)
(3) 神さまの願いを聞きのがしているか、
(神さまがあなたの救いを望んでおられるのを知らない)
のように聞こえますが、そうなのでしょうか。 もしかしたら、
(4) 神さまはもう信用できないと思っている
(以前期待していたけれど、神さまに(あるいは教会に?)裏切られた経験がある)
のでしょうか。
さて、「だれそれが救われる」とか「だれそれは救われない」と 語るべきでない、というあなたの意見には条件付きで賛成します。 人の救いについてとやかくいうべきではありません。 しかしまた、聖書に基づく救いの約束を汚そうと試みたり、 聖書に基づく正しい信仰を持つ人をつまづかせたり、まどわせたり、 聖書を故意にねじまげて解釈したりする行為は、 決して是認されるべきではない、とも思っています。
個人的な考えをあれこれ書きましたけれど、 「神さまはいつもあなたを愛している」ということだけはどうか、どうか覚えていてください。
あ、それから信仰生活の実践的な話としてですが、 自己否定は無限ループに入りやすいので気をつけましょう。 「ああ、私はまた自己否定ばっかりして駄目だ」という自己否定。という自己否定。という… これに陥りそうになったら、おいしいもの食べて、お風呂に入って、ぐっすり寝ちゃいましょ。 サタンをけとばして。
質問
結城さん、こんにちは。 クリスチャンって本当によい人なのですか?
回答
ええと、クリスチャンというのは「よい人」という意味ではなく、 「イエスキリストを信じる人」という意味だと思います。 それはいいですよね。
質問
はあ、それはわかりました。言いたいのは… 私はクリスチャンではないがよい人をたくさん知っています。 それからクリスチャンだけど、この人はちょっと…という人も知っています。 変じゃないですか?
回答
クリスチャンとノンクリスチャンでどちらがよい人間か、 という比較をもしも本気でやりたいのなら、 同じ人がノンクリスチャンである場合と、 クリスチャンである場合を比較することになるかと思います。 (つまり現実的には不可能です)
ノンクリスチャンの田中さん(仮名)と クリスチャンの高橋さん(仮名)を比較しても無意味でしょうね。 人間と人間の「よさ」を人間が判断できるとは思えませんが。
私も、ノンクリスチャンですばらしい人を知っていますし、 クリスチャンでもちょっと…という人を知っています。 しかし、それは真実の姿とは離れているかもしれませんね。 それに、私たちは「よい/わるい」と「好き/嫌い」をよく混同します。 また、自分自身のゆがみのために、正しく人を見ることができない場合もあるでしょうし。
でも、人のことはさておき、私のことを話しましょう。 私は、クリスチャンになってよい人間になったかな? 正直なところを書くと、 クリスチャンになる前は「何がよくて何がわるいかまったくわかっていなかった」のは確かですね。 それから、私の「ハードウェア」は、あまり変わっていないかもしれませんね。 しかし、私は自分のうちにイエスキリストがおられ、聖霊様が住んでおられることを 知っています。そして私を動かしてくださっているのがわかります。 私の中の「OS」というか「ソフトウェア」というか… 指令塔はずいぶん変わってしまいました。
それはありがたいことです。 現在のからだはいつか古びて死んでしまうからです。 けれど、私が私である部分は、死ぬことなくイエスさまとともに天に引き上げられるでしょう。 そのときには、新しいからだをいただくという約束になっていますので、 それはとても楽しみなことです。
キリストを信じる前、私は努力していました。 でもそれは何だか、ピアノを弾くのに二、三音手がずれていたような感じかもしれません。 一生懸命弾いているのだけれど、きれいに音は出ない。 そして「まあ、これがピアノというものなのだ」と思っていたのです。 キリストを信じて、「ド」がどこにあるのか教わりました。 それからです。ピアノを弾くときれいな音がときどき出るようになったのは。 そうすると、以前よりも「自分のまちがい」がはっきりわかるようになってきました。 手がずれていたときには、自分が正しい音を弾いているのか、 間違っている音を弾いているのかさっぱりわかりませんでした。 しかし、正しい音が少し弾けるようになったとき、 自分のミスがとても多いことに気づきはじめたのです。 でも、まちがいがわかれば、それを直していけますから、 喜びがそこにありますね。
これが、キリストを信じるときに私に起きたことの一つです。
質問
少し質問を変えます。 私たちは毎日の生活をクリスチャンではない人に支えられていますよね。 それなのに、イエスをキリストと信じる者だけが救われるって、 ちょっと納得がいきません。
回答
私たちの毎日の生活がクリスチャンではない人に支えられているのは確かです。 あなたは日本人を支えている多くの人がノンクリスチャンであることを根拠に、 クリスチャンだけが救われるのは納得がいかない、と主張されるのですね。
でも、よく考えてみてください。 私たちの生活はもともと、神さまに支えられているのですよ。 クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、食べて、飲んで、活動して、眠っています。 そのすべてを支えているのは神さまなのですよ。 人間のうち、自分の命がどうやって形作られ、 どうやって毎日維持されているかを知っている人は誰もいません。 それは深い神秘に隠されています。 それを知っているのは神さまだけです。
本当に私たちを支えているのは、人間ではなく、神さまなのです。
さて、あなたの「納得」についてもう少し書きます。 神さまはいろんなことを定めるときに、人間に相談はしませんでした。 あなたが現代の時代に生まれることは、あなたに相談はしませんでした。 子どもがどのようにして生まれるか、人間がどうやって栄養を摂取するか、 からだを形作るか、そのようなことを神さまは人間に相談はしませんでした。 神さまは、人間の想像をはるかに越えた大きさを持っていらっしゃるのです。 (だからこそ、神さまが、ご自身のことを人間に示してくださった聖書が とても大切になるのです)
それから「救い」についてもう一言。 キリストを信じるもの(クリスチャン)は、 イエスキリストの救いの契約にあずかっており、 神さまによって、永遠の命と天国が約束されています。 (あなたはそれが信じられないかもしれませんが)
ところで、イエスキリストを信じるというのは、 イエスキリストを神の御子と信じ、神さまの愛を信じることです。 神さまの約束を信じることです。 ですから、私には、キリストを信じることと、 救いに至ることというのは、何だか同語反復のように思われるのです。 つまり、キリストを信じないが救われたい、というのは、 空を飛びたくないが、空を飛びたい、というような自己矛盾を起こしているように思うのです。
質問
ノストラダムスの予言はあたりますか? もうすぐ世の終わりが来るのでしょうか?
回答
日付を指定した「世の終わり」の予言はみな誤りです。 それは聖書のマタイによる福音書24章36節に書いてあるとおりです。 ですから、日付を指定した「世の終わり」の予言を聞いて おびえたり、おそれたりしてはいけません。 日付指定した「世の終わり」の予言におびえるあまり、 あやしげな宗教に入信してはいけません。
質問
ちょっと安心しました。 じゃあ、この世の終わりはしばらくは来ないのですね。
回答
それはわかりません。 聖書によれば、この世の終わりは、いつかはわかりませんけれど、必ずやってきます。 この天地は滅び去るときがくるのです(マタイ24:35)。
質問
へ? でも、明日は来ないでしょう?
回答
私は知りません。この世の終わりは明日くるかもしれないし、 明後日くるかもしれないし、来年かも、10年後かも、100年後かもしれません。 この世の終わりがいつ来るかは、父なる神さましか知りません。
だから、私たちは「備え」ていなければなりません。 この世という舞台の幕がいつ降りるか、私たちは知らないのです。 聖書は「日付指定の世の終わり」を否定します。 しかしそれは決して「世の終わり」を否定しているわけではないのです。
私たちは、明日、世の終わりがきてもいいように備えていなければならないのです。
私はよく「悔い改める時は今」とか「決心する時は今」と思います。 実際、神さまに悔い改める時、回心の決心をする時というのは「今」しかないのです。
「明日、ゆっくり考えよう」 「仕事が忙しいから、信仰のことはのんびりしてから」 「神さまのことは、そのうちに」
私たちはつい、そのように考えてしまいがちです。 もちろん、信仰のことは大事なことですから、焦って決める必要はありません。 しかし、いつか、---いつかはわかりませんけれど--- この世の終わり・あなたの命の終わり・あなたが自分の意志で何かを決心できる最後の時、 という時がやってくることは確かなのです。
いま、あなたの心にひっかかっている「あのこと」を神さまに告白し、 悔い改める時は「今」ではありませんか?
以下のリンクもぜひごらんください。
質問
結城さん、こんにちは。 私は結城さんのHPでキリスト教についての誤解が少し解けました。 いまクリスマスの時期ですよね。教会に行きたいな、とも思うのですが、 自分はクリスチャンでもないし、自分の中には、何だかよこしまな心があり、 なかなか教会に行ってみることができません。行くべきではないのかな、とも思います。
お返事
はじめて教会の門をくぐるとき、ほとんどすべての人は、クリスチャンではありません。 教会はクリスチャンだけが集うところではありません。 本当の救いを探し求めている人、本当の愛を学ぼう、本当の愛に満たされたいと思う人が集うところです。 また、よこしまな心がない人はいません。 よこしまな心がなくなってから教会に集うわけではないです。 神さまのそばにいくのは、救ってもらい、きよめてもらうためです。 もし、本当の救いを求められるなら、 聖書を開き、教会の門を叩かれることを強くお勧めいたします。
少し話が大げさすぎますかね。 あまり、意識しすぎたり、かたくなに考えないで、 ちょっとのぞいてみてはいかがでしょうか。
質問
イエス様は処女マリヤから生まれたと聖書に書いてありますが、 そんな非科学的なこと、信じられません。 当時はまだ科学が発達していなかったので、 そんなことが書かれているのではないのでしょうか?
回答
聖書によれば、確かに、イエス様は処女マリヤから生まれたことがわかります。 そのことが、なかなかあなたには信じられない、というのですね。
なかなか信じられないのはもっともなことです。 当時のヨセフさんにとってもそうでした。 自分と結婚する前に、妻となるはずの女性が身重になった。 それは信じがたいことでした。 それでヨセフさんは、これは他の男性と関係があったのに違いないと判断して、 結婚(婚約)を解消しようと考えました。
…ということは、当時の人にとっても、 人が処女から生まれるというのは考えられない、 必ず男性との関係があったに違いない、 ということが常識だったのではないでしょうか。 だからヨセフさんは困惑したのです。
ですから、当時科学が発達していなかったから、 無知のゆえに処女懐胎の記事が書かれている、 というのは誤解であることがわかりますね。
ちょっと視点を変えてみましょう。
男性と女性が関係して、子どもが生まれるということを 私たちは知識として知っています。 知っているつもりでいます。 しかし、本当のところは何を知っているのでしょうか。 精子だの卵子だの細胞分裂だの遺伝だの、 科学的な用語を並べて説明することはできるかもしれません。 けれども、その説明で、 子どもが生まれるという神秘がすべて解き明かされるわけではありません。
そう、実は、普通の子どもが生まれるのも、 どうしてそんなことが起こるのか!と驚くべきことなのかもしれません。 そんなこと、信じられません!と叫ぶべきことなのかもしれません。
質問
結城さんは、キリスト教についていろいろはっきり書いていますが、 そんなに、言い切れるものか? と思います。
回答
私は最近、自分の文章を読んだたくさんの人の中で、 だれか一人が「はっ」と気づくということがあればそれでいいかな、などと思っています。 つまり、あまりたくさんの人をおもんぱかりすぎて、何を言いたいのかよくわからなくなるよりは、 言いたいことをすとんと言ってしまった方がいいかな、とか考えるのです。 生意気ですね(^_^;
たまたま?、偶然?、ある巡り合わせによって、このページに流れ着いたあなたがいる。 私の文章をいま、ここで読んでいる誰か一人(あなた)に向かって はっきりと語りたいな、と思っているのです。
質問
結城さんはよく祈っていらっしゃる敬虔なクリスチャンなのですね。
回答
うーん(^_^; キリスト教的には祈りは「呼吸」であり、「神との対話」ですね。 結城は毎日祈っていますが、敬虔さ、というのとは少し違うイメージをもっています。 もっと生活に密着した感じです。 例えば、お腹がすいてごはんを食べるとか、 朝起きたときに奥さんに「おはよう」というとか、 普段の祈りはそういう感覚に近いように思います。
質問
プライドを持つのは罪ですか?
回答
プライドという言葉は意味の範囲が広いので誤解を招きやすいのですが、 あえて説明なしに使います。 キリスト教で一番大きな罪はプライドだと思います。 それは自分を神にすること(あるいはその萌芽)だからです。 天使が堕ちて悪魔になったのもプライドのゆえでした。
だから神さまは口をすっぱくして(って比喩が変か(^_^;)プライドを捨てなさい と主張するのだと思います。 それがあなたの幸せへの道なのだ、と。 でもプライドを捨てるのは人間にとって、とてもこわいこと。 自分の一番大事に護っているものを神さまに明け渡すのは、とてもこわい。
世に不幸が満ちているのは、 みんなが自分の大事に護っているものを神さまに明け渡すのが こわいからです。
自分のちっぽけなプライドを守るのをやめよ、 そうしたらあなたが守るべきもっと新しいものをあげよう。 あなたのこの地上での短い命を必要以上に守るのをやめよ、 (必要以上にこの世を愛するな) そうしたらあなたに永遠の命をあたえよう。 ということなのだと思います。
たとえば、このように… として示された姿が人となってこられた神、 イエスキリストの十字架の姿です。
イエスキリストは人間の誰よりも 父なる神さまに従順であり、人間の誰よりも謙遜であり、 自分のこの世での命よりも、神さまの意志を大事にしたのでした。
「神」をリアルに信じると、 自分の自意識とか自我とかプライドとかを守る必要がなくなるので、 すごく楽になります。
プライドを守る必要がないので楽、というのは、 人の前で体裁を繕ったりする必要がなくなるからですね。 (神さまが本当の自分の姿をご存知だから、繕うのは無意味なのです)
余談。 自我が砕かれ、プライドが砕かれ、人格が練られるというのは、 信仰によってもそうですが、 結婚や育児においてもそのように思います(^_^; 信仰が結婚にたとえられるのもむべなるかな(^_^;
プライドを捨てるのはいろいろな宗教で出てきます。 私は(おそらくキリスト教では)、プライドを捨てるのも、自分の力(だけ)ではなく、 神さまがそうさせてくださる、と理解しています。 「自分はプライドを捨てることができるほど謙遜な人間なんだ」 という発言はもっとも傲慢な発言ですから(^_^; 人間ってやっかいな生き物ですねえ…。
本当に自分のプライドを捨てることができるほど謙遜な人間は、 もはや捨てるべきプライドなんて持っていないでしょう。
(ここでいうプライドは「自己中心」とか「傲慢」と言い換えた方がいいかもしれませんね)
質問
人間は神さまじゃないのですから、 神さまがどんな方なのか知ることはできないんじゃありませんか?
回答
確かに、人間は神さまじゃありません。 だから、本当のところ(つまり神が神御自身をごらんになっているようには) 神を知ることはできません。 神さまが「私については人間にこのことを伝えよう」とお考えになった範囲で 人間は神さまについて知ることが許されているのです。
神に限らず、人格のあるものは、 自分で開示しない限り自分の本来の姿を隠すことができます。 幸いなことに、聖書の神は啓示の神であり、 聖書を通して(聖書を書いた人に霊感を与え)、 神さまについて徹底的に人間に告げようとなさっているのです。 そういう作業をするのにもっともよい民族として 神さまはまず、ユダヤ人を選択なさったのですね。
人間関係を考えてもよくわかります。 例えば夫婦。 妻は夫にはなれませんから、 夫が自分のことを愛しているかどうかを本当に知ることはできません。 しかし、夫からのさまざまなメッセージを通して、 妻は自分が愛されていることを知るのです。
神さまは、私たちにご自身を示そうとしていらっしゃいます。 そのために聖書を与えられたのです。 「像」や「絵画」や「建築物」ではなく、 神さまは「言葉」でご自身を示そうとなさっているのですね。
神さまが聖書で示そうとしているご自身の姿とは何でしょう。 聖書の中心となるメッセージは何でしょう。 それは「私はあなたを愛している」というメッセージです。
現代の日本では、大きな本屋さんに行けば必ず「聖書」が置いてあります。 これはとても大きな恵みです。 ぜひあなたも、聖書をお読み下さい。 そしてイエスさまに出会ってください。 あなたの人生は必ず大きく変わります。
神さまの「私はあなたを愛している」というメッセージを受け取ってください。