結城浩
1999年の日記からの抜粋です。
神さまは、あなたを愛しています。 あなたが、どんな人であっても。
神さまが言う言葉は、 「よい人間になりなさい、そうしたら愛してあげよう」ではありません。 あなたが、どんな人間であっても、神さまはあなたを愛しています。
もちろん神さまはあなたが悪いことをせず、良いことをするのを願っています。 しかし、神さまは良いことをした<ならば>愛するのではありません。 これまで悪いことをしてきた<にもかかわらず>愛してくださるのです。
「愛」とは「ゆるす」ということです。
「私には何一つ悪いところがない」という心には、 神さまからのメッセージは届きにくいかもしれません。 神さまが語る愛の言葉は聞こえにくいかもしれません。 「私には何一つ悪いところがない」というのは、 「私は神さまにゆるしを乞う必要はない」という意味だからです。
反対に、 「神さまですら、私の罪は、ゆるせないだろう」というのは、 神さまの力を過小評価している言葉かもしれません。 十字架で流されたイエスの血潮は、あなたの罪を完全にきよめてくださいます。
ですから、愛する兄弟姉妹よ。 神を畏れ、謙遜な思いで身を低くするとともに、 大胆に主の前に出てゆきましょう。
「確かに私は罪をおかしています。例えば今日も…」と主に告白し、悔い改め、 「どうぞ、神さま、おゆるしください」と主のゆるしを乞いましょう。 そして、 「イエスさまの十字架の血潮によって、神の前に罪ゆるされたことを信じます」 と大胆に告白しよう。 そして、主の栄光をほめたたえよう。
傲慢な思いにおちいるのでもなく、自己憐憫と不信仰におちいるのでもなく。
告白し、悔い改め、主の福音を信じ、主の栄光をほめたたえよう。 主からの愛はあなたをすべての不安から解放し、 あなたを自由にします。
私は思い出す。
自分は精神で、知性で、知識で出来ていると思っていた。 いつも考え、よく考えれば答えは見つかると思っていた。 他の人の幸福よりも自分の幸福を考えていた。 いや、幸福についてなんか考えていなかった。 ましてや、他の人のことは実は何も考えていなかった。 自分が誰かを知らず、日々の何かに紛れて、自分が誰かを知ろうとはしなかった。
私は恐れていた。 人から怒られることを恐れていた。 「できません」「わたしにはできません」と言わなければならない状況を恐れていた。 わたしはわたしのままでいい、ということを知らなかった。 それ以前に、わたしのことを本当に、真剣に考えたことがなかった。
この世の、現代の、流行に押し流され、はやりものにのって、踊って、楽しいふりをしていた。 しかし「これがほんとうのわたしだ」と言えないのをうっすらと気がついていて、 その空しさを埋めるための酒があった。
「ひとかどのものになろう」としているくせに、 そのための努力をしていない自分を、自分は誰よりも知っていた。 知っていると思っていた。 仕事や勉強をしているときはまだよかった。 目の前を通り過ぎていく、越すべきハードルがあるうちはまだよかった。 恐ろしいのは休日であった。 目の前によこたわる長い長い時間を、 私は私のあかしである何かで満たさなければならなかった。 満たさなければならないと思っていた。 その恐ろしさを埋めるために酒があった。
(自分が何かを満たす前に、自分が満たされている必要があることを知らなかった)
わたしは自分と出会ってはいなかった。 わたしは自分のことを知らなかった。 もちろんいまでも完全に知ってはいないのだけれど。 でも、あのころよりはよく知っている。 自分が自分を知らないということを知っている。 そして、自分以上に自分を知っている、いと高き方の存在を、いまは知っている。
(自分を満たしてくださる完全なお方がいらっしゃることを、いまは知っている)
酒からさめるのは恐ろしいことだった。 ふと、虚勢をはっている自分に気がつく。 「私、こんなところで何をしているのだろう」と思う。
例えば酒場のトイレがある。 楽しげな音楽も、おいしい食べ物も、空しさを埋めてくれる酒も、そこにはない。 トイレの中にいるのは、弱々しく、足元がふらついているたった一人の私だけだ。 そんなときも「私、こんなところで何をしているのだろう」と思う。
そう、わたしはそのころ、音楽を聞いていなかった。 かぐわしい香りも味わってはいなかった。 自分の人生に本気で関わってはいなかった。 何よりも、本当の愛の存在を知らなかった。
わたしはそのころ、神さまを知らなかったからだ。
もちろん「神さま」というもののことを頭では知っていたさ。 宗教とは、信仰とは、などと知ったかぶりをしていたさ。 でも、私と、他の誰でもない私と、恐れている私と、苦しんでいる私と、 酒場のトイレで何ともいえない空しい気持ちになっている私と、 「神さま」が、個人的に関係があるとは思いもよらなかったのだ。
宗教なんて何でも同じと思っていた。怪しげだと思っていた。 自分の意志や理性をなくして洗脳されるのだと思っていた。 よい面があるとしても、それは道徳と大差ないと思っていた。
本物の神さまは、私の考えていた「宗教」とは全く違っていた。 自分の意志を与えたのは神さまだった。 理性の源は神さまだった。 かびくさい道徳ではなく、生き生きと生きていて、 働いておられる完全な人格が神さまの中にあった。
のっぺりして、頭で作られたこじんまりした「神々」や、 単なる「ありがたい気分」や、「自然に対する畏敬の念」や、 誤った教えである「万物は神」や「自然は神」や「エネルギーは神」などではなく、 私を愛してくださる一人の神がおられた。 (愛には人格が必要だ。人格のない神に愛はない) 私を喜び、私と語り、私の祈りを聞いてくださる一人の神がおられた。 (対話には人格が必要だ。人格のない神との対話は無意味だ) その恵みに、ほんとうに感謝する。
洗脳されて自分を失うのではなく、 私は本当の神さまに出会って、洗脳から目覚めたのだと気づいた。 私は「現代」に洗脳されていたのだ。
私は「生きていてよかった」と思った。
ずっと、イエス様は私の心の扉を叩いていた。 忍耐強く、忍耐強く、私の心の扉を叩き続けていた。 イエス様、ありがとう。私を見捨てないでいてくださって。
質問
神さまの存在を客観的に証明することはできますか。
回答
私個人の考えを書きますね。
神さまの存在を「客観的に」証明することはできないのではないか、と私は思っています。 つまり、論理的に、誰にも疑問の余地がないほどに神の存在を証明することができるか、 というとそれは不可能だと思っています。
(ところで、そのように客観的に証明できるものが「現実の」世界にどれだけあるか、 というのは別な問題としてありますけれどね)
質問
客観的に、科学的に証明できないのに、 どうして結城さんは神さまを信じているのですか。
回答
あるとき、 「神さまって存在するのだ。存在するだけじゃない、私を愛してくださるのだ」 「ああ、私は確かに罪人だ。イエスキリストが私の救い主だ」 ということを(はじめはこんなに明確ではなかったけれど)、はっと気づいたからです。
それは結婚相手との交際と似ています。私は、 「ああ、私はこの女性をこよなく愛している。私はこの女性から愛されている」 「この女性こそ私の伴侶だ」 ということを(ときにはしみじみと、ときにははっと)気づきました。 神さまを信じる信仰と、とても似ているように感じました。 (完全に同じわけではありませんが)
その後、教会や、クリスチャンの知人や先生との学びを通して、また聖書を通して しだいしだいに信仰の確信が強められて行きました。
質問
それって、感情的な錯覚じゃないんですか。 神さまがいたらいいなあ、という願望の裏返しとか。 (ひどいことをいってすみません)
回答
(^_^)
神秘的な体験や、直観だけを頼りにした信仰だったら、 「これは錯覚じゃないのか」と思うかもしれませんけれど、 幸い「聖書」という客観的な書物が与えられていますから大丈夫です。
私の信仰を支えているのは、自分の体験や実感だけではありません。 聖書に書かれている歴史的な事実が私の信仰の根底にあります。 そしてその上に、自分の体験や実感やさまざまな証しや学びが肉付けされているように思います。
質問
私は無神論です。 科学的・客観的に論証できないものを信じることなんてできません。
回答
無神論(すなわち神は存在しないという主張)ほど非科学的なものは少ないんじゃないでしょうか。(^_^) 何かが「存在しない」という証明はとても難しいですよ。 「神が存在する」という証明ができないのと同様、「神が存在しない」という証明もできません。
「神が存在しない」という証明は、 「ここにはない、あそこにもない、私の見たところどこにもない」ではだめです。 非存在の証明は絶対に論証(これこれこういう理由により、存在しない)でなければなりません。
「私には神さまは信じられない」という主張は無神論ではありません。 それは個人的な信条の表明ですね。
それに…「信じる」というのはもともと論証できないものに対して使う言葉のように思います。
質問
私はとても不幸です。また世の中には不幸な人がたくさんいます。 愛の神さまがいらっしゃるなら、どうしてこんな不幸がたくさんあるのでしょう。 戦争の存在一つをとっても、神さまなんか信じられません。
回答
この質問は、何千年もの間、何千億(いやもっとだな)という人から出されてきた質問です。 戦争や不幸の存在を知った人で、このような思いを抱かなかった人は少ないんじゃないでしょうか。
そしてキリスト教はこの問いに対していつも答えてきました(と私は思います)。 世の中が不幸でいっぱいなのは、
「神がいないのではなく、神が悪いのでもなく、人が罪をおかしたからだ」
聖書もこう語り、クリスチャンたちもこう信じ、教会でもこう教えています。 そして、私もそう思っています。
(今後もこの問いは繰り返し多くの人の口にのぼるでしょう。 そしてクリスチャンたちは繰り返し「人の罪」と「イエスの救い」を語るでしょう。 けれど、残念ながらまた、多くの人の耳にはその言葉は入らないでしょう。 苦々しい言葉は人の耳には入りにくいのです。 23歳頃までの私の耳にも入りませんでした。きっと何回かは耳にしていたでしょうに…)
質問
クリスチャンはいつも、人を罪人扱いする傲慢なやつらではないですか。
回答
クリスチャンとは、イエスキリストを信じている人のことです。 クリスチャンは聖書を神の言葉だと思っています。 そしてその聖書には、すべての人は罪をおかした(ローマ3:23)と書いてあるのです。
すべての人ですから、クリスチャンも罪人です。 けれど、その罪を身代わりになって背負ってくださったイエスキリストという方が いらっしゃる、ということを知り、また信じているのです。
クリスチャンは人の罪を暴き立てるのが好きなわけではありません。 けれど、非常に多くの不幸や悲惨が、人の「罪」から生じていることを思い、 本当の救いがイエスキリストにしかないと信じています。
あなたは、もし自分が「とてもよいお知らせ」を知っていたら、 伝えたいと願いますよね。クリスチャンも同じことです。 クリスチャンは(人によって程度の違いはありますが、潜在的には全員)他の人に 「とてもよいお知らせ」を伝えたいと願っています。 それがイエスキリストの福音(ふくいん)です。
イエスキリストの十字架の意味、イエスキリストの救いの意味を本当に知る前には 「(他の人はどうあれ)自分は恐ろしい罪人なのだ」という自覚が必要になります。
・自分が罪人であるとは思えない人、
・自分は「まあまあ大した人物である」と思っている人、
・小金もあるし、こんな感じで人生を過ごせればいいやと思っている人、
・自分は(ちょっと悪いことをするときはあるけれど)けっこう好人物であると思っている人、
・失敗するときもあるけれど、努力していけば道は開けると思っている人、
こんな風に本気で思っている人の心には、イエスキリストの救いのメッセージは なかなか届かないのではないか、と思っています。 むしろ、
・私はとうてい救われない罪人だ、
・もし天から罰を受けるとしたら、オレが一番最初だ、
・自分の力では、この自分勝手・欲望・貪欲・他人への迷惑・悪癖・悪習慣…は断ち切れない、
・誰にも言えないあのことが、私を夜も昼も苦しめている、
・愛する人から裏切られ、もう到底人間なんて信じられない、
・こんなに醜く、不器用で、頭も悪い自分は生きている資格がない、
・何が人生の目的かわからない。このまま生きていっていいのかわからない、
という人の心に、 イエスキリストの救いのメッセージはまっすぐに届くのではないか、と思っています。 イエスさまはこういう方のために来られたからです。
あ、質問に対する答えをしていませんでした。 他のクリスチャンはどうだか知りませんが、私は傲慢になりやすい人間です。 (だから、どうか謙遜になれるように祈っていてください)
だから、敵は人間じゃないんですって。 憎む相手は人間ではない。憎むべき相手は罪なんです。 自分が罪の宿主とならないように、自分のうちから追い出すのが大事なのです。 それが悔い改めということではないでしょうか。 人をゆるす、というのは罪をあまく見るとか罪を見過ごす、ということではなく、 罪とその人そのものを分けて考える、ということではないのでしょうか。
本を書いていて、だいぶ形になってくると、 例によって例のごとく心の中に、
「あんたには完成できないんじゃない?」
という否定的な思いがどこからかやってくる。 いや、どこからやってくるかは知っているのですが(^_^)。
「あんたにはできないよ」という思いがやってきたら、即座に、
「ああ、そーだね。私の力ではできないよ。 私にはできないけれど、神さまにはできる。 私はイエスさまから力を受けてすべてのことをなすのだ。 イエスさまの権威ある御名によって命じる。 しりぞけ、サタン!否定的な思いよ、出て行け!」
と一蹴して、おしまい。 あとは聖霊様を心にお迎えして、喜んで仕事に戻ればよい。(^_^)〜♪
他の誰でもない あなたへ:
私、キリスト教って「本物」だと思いますよ。 もしかしたら、あなたは、クリスチャンを嫌いかもしれない。 あなたには、教会でいやな思い出があるかもしれない。 神というより、人につまづいちゃったかもしれない。
一度は信じていたけれど、何となく離れてしまっているかもしれない。 現代の流行の思想に心が向いているかもしれない。 何となく神さまは信じているけれど、 まだイエスさまのことはピンと来ないかもしれない。
でも、私、心からあなたにお勧めします。 キリスト教って本物ですよ。 神さまが私たちに与えてくださった、たった一つの救いの道です。 イエスさまって本物ですよ。
耳にやさしく、安心するだけじゃない(それは現代の流行だ)。 時に厳しく、痛いときだってたくさんある。 でも、本物はこの方だけです。
世紀末の現代において、神さまっぽいものはたくさん存在する。 本屋さんに行けば「神」という名前のついた偽物の本がたくさん出回っている。 砂糖をまぶしてあって、口に甘ったるいけれど、 一時的な気休めを得るだけで救いの確信を得ることがない本たち。
「本物の神さま」は聖書に書かれているお方だけです。
どこかで聞きかじったセリフで、 キリスト教や、教会や、イエスキリストを否定するのは誰でもすぐにできる。
でも、でも。 孤独の中で、部屋にいるとき。 苦しみのために、夜中に目が覚めたとき。 誰にも言えないあのことを抱えて、一生生きなければならないと思って呆然とするとき。
本当にあなたを愛し、あなたを慰め、あなたを癒し、あなたを導き、あなたを救ってくださる方は、 イエスキリストしかいないのです。
この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。 世界中でこの御名のほかには、 私たちが救われるべき名としては、 どのような名も人間に与えられていないからです。 (使徒 4:12)
主よ、あなたをほめたたえます。
私をお造りになったあなたをほめたたえます。
私に命を吹き込まれたのはあなたです。
イエスさまが罪のある私を救ってくださいました。
ほかの誰でもない、イエスさまが私を救ってくださいました。
何も私をイエスさまから引き離すことはできません。
そのことを感謝します。
この世は一見、理屈の通っているような惑わしに満ちていますが、
注意深く耳をすまし、目を開いて見分けます。
聖霊様、どうぞ霊を見分ける賜物をお与え下さい。
いま、手をあげて主をほめたたえます。
主はいまも生きておられます。
むかしも今も、とこしえまでも生きておられます。
必要なものは全て主が備えてくださる。そのことを信じます。
主は万事を益としてくださる。そのことを信じます。
何も恐れず、ただ主のみを畏れて歩みます。
すべての栄光を主にお返しします。
必要なものはすべて、主が与えてくださったのですから、
栄光は主のものです。
ハレルヤ! イエスさまの栄光の御名をあがめます。
あなたがいらっしゃるので、恐れがありません。
あなたがいらっしゃるので、不安がありません。
私にはその資格がないにも関わらず、
あなたが、愛していてくださっていることを、
私は聖書を通して知っていますから。
ハレルヤ! 感謝します!
神さまとの関係は、人間関係と似ている。 きちんと礼節わきまえるべき面と、ぐっとくだけて親しいお付き合いをする面の両方がある。
クリスチャンは「罪」だの「死」だの「さばき」だの「契約」だの「礼拝」だの「十戒」だのと、 制限が多い堅苦しい生き方をしている、と思っている人もいるが、 実はそんなことはなくて、 守らなければならないことがはっきりしているがゆえに、 とても自由、ほんとうに自由なのだ。
例えば、私は「占い」をしない。 ある人はそのことを「どうせ遊びなんだから、いいじゃない。かたっくるしいなあ」と言う。 でも占いをする人は、ほんのわずかでも行動が占いに影響される。 占いで「北へ行くな」と出れば、何となくそっちを避けたりする。 そっちの方がよっぽど不自由だ、と私は思ってしまう。
「どうせ遊びなんだから…」というのは危険なフレーズかもしれない。 人間って、注意して予防線を張っていないと、 思いがけない事態におちいる場合があるような気がする。 例えば、私は絶対に男女のトラブル(浮気だの不倫だの)に陥りたくない。 だから、家内以外の女性とは二人きりで食事やお酒の席には着かないようにしている。
メールなども注意している。 自分が出すメールは、家内が読んでもかまわない状態にしておくし、 相手が既婚女性の場合には、ご主人が読んでもよい内容にしておくように心がけている。
占いと不倫はよく似ている。 占いをしたり、オカルトをしたり、聖書の神以外の神仏を拝むことは、 霊的な不倫だから。
神さまが人格を持っていらっしゃるのは深い意味を持つ。 願いごとを祈れる。愛し、愛される。 杓子定規・機械的・十把ひとからげではなく、 私たち一人びとりに対しての細やかなケアがある、ということだ。
人格がない対象(例えば電気とか石とか紙切れとか)に 「願う」とか「愛し愛される」とかいうのは意味がない。
現代社会では、人は単なるモノのように扱われることが多い。 最近だったら単なるデータのように扱われることがあるかも。 モノやデータとして扱われた人間は、傷つけられ、殺されているようなものだ。 自分がモノやデータとして扱われると、人格が傷つけられ、痛みを覚えたり、むなしさを感じたりする。
その傷や痛み、むなしさから回復するにはどうしたらいいか。 いうまでもなく「愛される」ことだ。 生きた一人の人間として、 他の誰とも比べることのできない(=モノやデータではない)存在として取り扱われることが必要だ。 かけがえのない存在として扱われることが第一歩だ。 そして、その上で、受けた傷・抱えてしまった痛みや悲しみを 誰かが引き取ってくれなければならない。
でも、誰が私の傷・痛み・悲しみを引き取ってくれるというの?
イエス・キリストだ。
イエスさまは、なぜいばらの冠をかぶったのか。
なぜ十字架にかかったのか。なぜ槍で突かれたのか。
なぜ罪もないのに不当な裁判で殺されなければならなかったか。
あなたの、いまの、その傷を、いやすためだ。
あなたを、いまの、のろいから、救うためだ。
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 (イザヤ書 53:5より)
あなたが受けた傷・痛み・悲しみは、
誰かのひどい行為や、愛のない言葉や、忌まわしい体験からやってくる。
それは誰か特定の人からきたものかもしれないが、
実は人間が、本来的にもっている「自分勝手」「自己中心(ジコチュー)」から来ている。
--- それを聖書では「罪」と呼ぶ ---
キリストはその罪の問題を解決するために人となられ、十字架にかかったのだ。
イエスキリストは、あなたの、いまの、その傷をいやすために、 いばらの冠をかぶられたのだ。
はじめて教会に行き、聖書の言葉を聞き、その場で信じる人もいる。 何年も教会に行っていても、信じられない人もいる。 不思議である。
「奇跡が目の前で起こったら信じる」という人もあるが、 私は、そうかしら、と思ったりする。 神さまがなさったという「しるし」がいくら与えられても、 それで信じる人もいれば、信じない人もいると思う。 聖書にはそういう人間の姿がたくさん登場する。 目の前で海を分けて命が救われた人たちですら不信仰に陥ったのだ。
「奇跡がポンポン起こったら医者もいらないし、世界はもっと平和になるはずじゃん」 と素朴な考えを持つ人もいるが、 そういう人は私たちの存在そのものが、ものすごい奇跡であることを忘れている。
…という話を書くと 「クリスチャンは特権意識をもっていて鼻持ちならん」という お叱りのメールをいただくこともあったりするのだが、それはさておき。
いったん信じても「不信仰」というものが忍び寄ってくるときもある。 「本当は神さまなんかいない」とか 「イエスキリストは救い主なんかじゃない」とか 「もしかしたら、あなたは救われていないんじゃない」とか そういうささやき声がふと心に浮かぶときである。
そういうときの「武器」は聖書である。 「自分が救われている」というのは錯覚ではなく、幻想でもない。 聖書に書いてあるからだ。 自分の感情や、自分の感覚ではなく、 神の御言葉である聖書に立つことである。
神さまが与えてくださった救いの約束をしっかりとつかもう。 イエスキリストの十字架をしっかりと見上げよう。 そしてそこにとどまり続けよう。
神さまに心を開き、
(「いま、私は神さまに心を開きます」と祈ろう)
聖霊様を歓迎し、
(「いま、聖霊様を歓迎いたします」と祈ろう)
イエスさまの御名の権威・十字架の贖い・救いの契約を信じよう。
(「いま、イエスさまの救いを信じます」と祈ろう)
自分の罪を神さまにすべて、いま、告白し、きよめていただこう。 そして、イエスさまの十字架の救いを受け取ろう。
神さまが「せよ」とおっしゃることに「はい、いたします」と従おう。
神さまが「するな」とおっしゃることに「はい、しません」と従おう。
きょう、いま、神さまの御声を聞くならば、 「はい、しもべは聞いております」と従順にしたがおう。 決して心をかたくなにすることなく。
「きょう、もし御声を聞くならば、 御怒りを引き起こしたときのように、 心をかたくなにしてはならない。」 (ヘブル 3:15より)
メフィボシェテは王の息子ではないけれども、まるで王の息子のように扱われた。
私たちは神の子ではないけれども、まるで神の子のように扱われる。 この「見なし」は信仰生活の中で大事な位置を占めているように思う。 おかあさんは、赤ちゃんがまるで言語を解するかのように話しかける。 すると赤ちゃんはいつのまにかそのとおりになる。 憎らしい相手でも、まるで愛すべき存在であるように接するように心がける。 するといつのまにか心から愛するようになる。 (少なくとも、前より愛しやすくなる)
ああ、そうだ。私は神さまのことを「お父さん」などと呼ぶ資格は全くないのだ。 神さまのことを本当に「お父さん」と呼べるのは、イエスさましかいない。 しかし、そのイエスさまは、私たちに「天にまします我らの父よ」と祈るように教えられた。 私には、そのような呼びかけをする資格は全くないのだが、 イエスさまがそう命じられるのだから、そう祈ろう。 自分があたかも神さまの子どもであるかのように「見なし」てみよう。 自分で自分の身分を決めるのではなく、イエスさまが示す通りに従おう。
神さまには不可能はない。 私はこのようにちっぽけで、失敗ばかりして、生意気で、傲慢で、 人の言葉や顔色ばかりうかがっている存在なのだが、 真剣に自分を見つめたら、生きている価値が全くないような存在なのだが、 そのような私でも、神さまは「神の子」の身分まで引き上げてくださるのだ。
「天にまします我らの父よ」と祈った瞬間に、 自分が「見なし」をやっていると気づくのだが、 しかし、自分の現状をそのままみとめよう。 真剣に自分を見つめるのだが、自分だけを見つめるのはやめよう。 そうではなくて、神さまを見上げよう。
自分の汚れた手を見つめて「汚れている、汚れている」とわめいたり、 他の人をべたべた触って「おまえも一緒に汚れてしまえ」と騒ぐのをやめよう。 そうではなくて、神さまに手を広げ、神さまにきよめていただこう。
自分だけを見つめていたら、神さまは見つからない。自分だけを見るのをやめよう。 神さまがいる、という事実から目をそらしながら「神さまはいない」といっても無為なことだ。 自分の視野をわざと狭くして狭くして、世界を小さく区切って、 「ほら、この中に神さまなんかいない」といっても無為なことだ。
天にまします、我らの父よ。
天にまします われらの父よ
願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ
御国(みくに)をきたらせたまえ
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ
われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ
われらに罪をおかすものを
われらがゆるすごとく
われらの罪をもゆるしたまえ
われらを試みにあわせず
悪より救い出だしたまえ
国と力と栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン
(新約聖書マタイによる福音書6章9節〜13節)
こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、 王の食卓で食事をすることになった。 (サムエル記下 9:11 より)
自分の労苦が的外れな方向に向かわないように、 無駄・無益な苦労にならないように、 しっかりと信仰を持とうと思う。 自分の悟りに頼るのではなく、 本当の神、主に頼ろうと思う。
主が家を建てるのでなければ、 建てる者の働きはむなしい。 主が町を守るのでなければ、 守る者の見張りはむなしい。 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、 辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
(詩篇127:1-2より)
心を尽くして主に拠り頼め。 自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
(箴言 3:5-6)
春は卒業、進学、就職、人事異動、出会いと別れの季節。 親しくしている人が会社を辞めたりするとき、 私はその人と個人的に祈ることがある。 職場の休憩時間や、いっしょにお昼を食べにいったときなど、 これからのことをいろいろ聞いた後、最後に、
「私はクリスチャンなんですが、これからのことを一言祈ってもいいですか?」
とたずね、許可を得てから簡単に一言祈る。
天の父なる神さま。あなたのお名前をほめたたえます。
これから○○さんは今の職場を去り、新しい職場へ向かおうとしていらっしゃいます。
これまでいろんな時がありましたが、あなたが守ってくださったことを感謝します。
新しい職場でも、どうぞイエスさまが共にいてくださり、
どんなときにも恐れずに歩むことができますように。
これからどんなことに出会うかわかりませんが、
イエスさまが○○さんをいつも支えてくださり、
その人生を祝福で満たしてください。
イエスさまのお名前で、信じてお祈りします。
アーメン。
普段どんなに強そうに見える方であっても、 新しい仕事に向かうのは不安があるのだろうと思う。 たいていの方は目を少しうるませて、でも喜んでくださる。 相手がクリスチャンでなくてもほとんど断られたことはない。
春。
みなさんの学校や職場が、神さまをあかしする愛と祈りの場となりますように。
C.S.ルイスによれば、
・イエスは親切で単純な宗教を説いた
・しかしパウロがそれを後に残酷で複雑な宗教に改悪した
という誤った意見があるそうだ。 (p.69『被告席に立つ神』C.S.ルイス宗教著作集別巻2 新教出版社 ISBN4-400-52064-1)。
つまり、イエスはすばらしいが、パウロが全部悪いのだという意見だ。 これがなぜ間違っているかはさておき、私が気に入ったのは、 ここで状況を表現するためにルイスが持ち出してきた比喩の方だ。以下、要約。
あらゆる反逆の歴史においては、王自身を攻撃する前に大臣たちが攻撃される。 王は悪くない。悪いのは王の計画を腐敗させている大臣の方だ、という意見が述べられる。 そして数人の大臣の首が落とされる。でも結局、王の首は革命が進んだ後に落とされるのだ。 つまり反逆というものはそのようにして進む。まずは大臣、それから王に向かう。 まずパウロを批判して、それから結局はイエスの首をはねようとするのだ。
ここから先は私が考えたこと。 この日記でも何度も書いているが、私たちは目を覚ましていなければならない。 自分が受け入れる、自分が受け入れようとしている思想なり信条なりを よくよく吟味しなければならない。キリスト教に似て非なるものがたくさんあるからだ。 よく理解して、意識してキリスト教を批判したり拒絶したりするならまだしも、 自分がキリスト教を信じているつもりで、 キリスト教に反した信条に至らないように注意しなくては。 (これはもちろん自戒をこめてそう思っているわけですが)
なぜかというと、本屋さんにいくと私はくらくらするからです。 「神」という名前がついているけれど「本当の神さま」について書かれていない本とか、 「キリスト」だの「イエス」と書かれているけれど、 キリスト教とは関係のない/反対している本とかがたくさんあるからです。
霊を見分ける力は、神さま(聖霊さま)からいただくもの。 神さま、どうぞさまざまな霊を見分ける力をお与え下さい。
「イエス・キリストは100%神であり、100%人間である」というのが伝統的キリスト教の主張だ。
この主張は言い換えると、以下のような主張を退けているわけだ。
×「神は人となられなかった」
×「イエスは半神半人である」
×「イエスはただの人間にすぎない」
神は愛だが、愛を神にしてはいけない。愛を神にするとその神はいつか鬼になる。 というのはC.S.ルイスの『四つの愛』に出てくる主張だ。
恋愛を例にとる。愛を自分の神にするということは、 要するに、恋愛を第一のものにする、そのためなら他の何物も犠牲にしてかまわない、 ということだ。すべてのものを恋愛という神に捧げる捧げ物にする、ということだ。 「好きなら何してもいい」と言い換えることもできる。
私はそれは間違っている、と思う。
典型的な例として「不倫」を考える。 配偶者がありながら、他の異性に恋愛をする、というのはありうることだ。 でもそこには大きな選択肢が登場する。
(A)私はあの人が好きだ。だからあの人と恋愛関係に入ってよいのだ。
(B)私はあの人が好きだ。だが私には配偶者がいるから、恋愛関係に入ることに抵抗しよう。
(A)は恋愛を至上のものとし、すなわち恋愛を神としている態度だ。 (そして現代のドラマの多くはこの立場の上に立っている)
じゃあ、(B)は何だろう。「配偶者がいるから」というのは何を意味しているのだろう。 私は「約束を守る」ということだと思う。 結婚をする、というのは「私はあなたのことを配偶者とします」という「約束」のことだ。
(あ、もしかしたら「結婚」というのを「約束ではない」と思っている方もいるかもしれません。 それはまた別の話になります。でも多くの場合、神の前で誓わなくても、 友人や親戚や役所に対して何らかの「約束」はしているのではないかと思います。 他人なんか持ち出さなくてもいい。当の配偶者に対して「約束」をしているはずだと思います)
(A)は「恋をしたら、以前の約束なんか破棄してもかまわない」という主張だ。 恋愛を神にすることで、二人の間には共有された甘美な秘密と、 殉教者然とした思いが湧き起こり、ドラマチックな音楽がよく似合う。 しかし、だからといって正しいわけではない。
(B)は地味だ。しかも大きな決意が必要だ。時には失敗するかもしれないし、 この世のTV、小説、映画の多くがこぞって「違うんじゃない?」とささやく。
でも、恋愛を神にしていると、いつかその神は鬼になる。 約束をないがしろにした、その姿勢そのものが、今度は自分の恋愛をゆるがすことになる。 もっと新しい相手、別の恋愛の相手があらわれたときのことを考えればすぐにわかる。
「そんなことをいっても、いったん『恋に落ちたら』そんなに悠長なことはいってられない」 という反論がある。その通り。だから予防線を張っておく必要があるのだ。 恋に落ちる人は『故意に落ちている』のだ。
はじめての本が出版されたときはとてもうれしかった。 家内と二人で新宿の紀伊国屋に電話をかけて、 入荷しているかどうかをわざわざ確認したくらいだ。 近所の本屋さんに現在何冊在庫があるのかを覚えていた(^_^;
神さまの力、家内の愛、編集者の励まし、 そういうものがあってはじめて、私は本を書くことができるようになった。 そのことを、忘れてはならないと思っている。
家族がいると、仕事にあてる時間は短くなる。それは確かなことだ。 しかし、独身で、時間がたっぷり自由になったら仕事ができるのか、 というと必ずしもそうではないのが面白いところである。
似たようなことが、献金だとか、聖書を読んだり祈ったりする時間や、 神さまを礼拝するために日曜日に礼拝に参加する時間とかにあてはまる。 すべてのお金が自分の自由になったからといって、 有効に使えるとは限らないのだ。 すべての時間を自分の思い通りに使えるからといって、 有効に使えるとは限らないのだ。
お金や、時間や、環境や、そういう要因とは別に、 また自分の能力や努力とも別に、 「何か」があるのだ。 あるいは…「誰か」がおられるのだ。
祈りの鍵は、
・神さまを信じること。
・人を赦すこと。
である。 聖書は次のように勧めている。
・神との関係はどうあるべきか … 信じなさい
・人との関係はどうあるべきか … 赦しなさい
さあ、私たちもそうしよう。いま、すぐ。
・神さま、あなたを信じます。
・神さま、あの人を赦します。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、 すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。 そうすれば、天におられるあなたがたの父も、 あなたがたの罪を赦してくださいます。」
(マルコ 11:24-25)
主の御名を賛美します。
ゴスパパさんの掲示板で以前、
>とても感謝できないことに遭遇した時、
>心が伴わなくても、「この事を感謝します」と神様に告白します。
というゴスパパさんの書き込みを読みました。 私はこれはすばらしい告白だと思います。 このような信仰をゴスパパさんにお与えになった神さまをほめたたえます。
結城の場合、「感情がともなわないが祈るべき、感謝すべき」というときは、
「このことを通しても、あなたの栄光があらわされますから感謝します」
と祈るようにしています。 私にはこのフレーズはとてもぴったり来ています。 どう考えても悲惨な状況であっても、 それをも主は用いてくださるという信頼に変りますので。
ところでゴスパパさんちはとても美しいです。 結城のページのロゴは、 ゴスパパさんにお願いして作ってもらったのでした (^_^)
(注:1999年のときに使っていたロゴの話です)