いまこそ、あなたが祈る時。
今日こそ、あなたの救いの日。

結城浩

1999年ごろの日記からの抜粋です。

目次

賛美と祈り / 神さまとの交わり

今日は月曜日だ。月曜日ってちょっとどきどきします。
仕事しなくっちゃ、やれやれ、というのと、
ようし、仕事しよう、というのが入り交じってどきどき。ふむ。
月曜日って、朝、家を出るまでがあまり好きじゃない。
家を出てしまえばカチリと気持ちが切り換わるのにね。
何となくふにゃふにゃ考えちゃって。

あーもうっ!ってときには、やっぱり賛美と祈りですね。
特に、祈りの前の賛美は重要です。私が好きな賛美は、
「叫べ全地よ」「栄光、栄光」「威光・尊厳・栄誉」
…と、書いたところで、いま、思わず歌い出してしまいました♪
ああ、気持ちいい!

讃美歌も、聖歌もいいし、とても大事だけれど、ワーシップソングもいい。
両手を上に高く上げて、ただ、ただ主を仰いで高らかに歌う賛美。
その後、異言で歌ったり、声をひそめて静かに主をほめたたえたり。
いつでも甘美なひとときを持つことができるから感謝です。

もちろん神さまはどんな問題でも解決してくださる方だし、
私たちをほんとうによくケアしてくださる方だけれど、
いつも神さまへのお願いや要求だけを祈るのはもったいないですね。
神さまの臨在の中にあって、神さまと共にいることを身体全体で味わうことも
とても素晴らしいことだと思います。

そしてそれを味わうのはやはり賛美であり祈りだなあ、と思います。
祈っても現実は変わらない、と他人から言われることもありますが、
私はまったくそうは思わない。
祈りと賛美によって神さまとの交わりの時を豊かに持つとき、
まず一番私に近い現実…すなわち私自身が変わるのがわかるからだ。

信仰は結婚と似ている。信仰は食事と似ている。信仰は競技と似ている。
いろんな分析や評論があり、学者がいろんなことを言うけれど、
「自分にとって、どうなのか」は自分がやってみないとわからないのだ。
愛する人とともにいることの喜び。
食事によって満たされる喜び。
転んだり、失敗したりするときもあるけれど、傍観者ではなく参加者である喜び。

私にとっての信仰はそういうものだ。

私は毎日失敗したり、罪をおかしたり、
神さまに喜ばれないことをしたり考えたりするだろう。
それから、さまざまな人が私に否定的なことを言うだろう。
けれども、私はイエスさまの十字架に何度でも帰ってこよう。
神さま、ごめんなさいと何度も神さまにあやまり、
イエスさまの十字架のゆえにゆるしていただこう。

手を上げて、高く上げて、神さまをほめたたえて歌おう。
主ご自身を求め、主のご臨在を求めよう。
主がともにおられることを深く味わおう。
ものいわぬ偶像ではなく、紙切れではなく、朽ち果てる人間ではなく、
とこしえからとこしえまで変わることのない、唯一の神、
私たちの本当のお父様をこころからほめたたえよう。
ハレルヤ!

神さまに語り、神さまの御声に耳を傾け、
神さまとの人格的な交わりを楽しみ味わうとき、
私たちは、ほんとうの人間、ほんとうの私たち自身になることができる。
この世は人間をモノのように扱い、交換可能な部品のように扱うことが多い。
モノのように人を扱い、モノのように人から扱われる。
そんな中で私たちは傷つき、疲れ、自分を見失ってしまう。

だからこそ、私たちは、
私たちをお作りになった本当の神に立ち返らなくてはならない。
私たちは本来、よきものとして作られたのだ。
けれど、私たちは神さまのことを忘れ、神さまのことをないがしろにしてしまった。
悔い改めて、イエスさまの救いを受け取り、神さまのところに立ち返ろう。
神さまとの人格的な交わりの中に入るとき、
私たちは部品ではなくなる。単なるモノではなくなる。
愛し、愛され、神さまを喜び、それぞれに声を上げてほめたたえる、本当の人間になる。
ハレルヤ!

主の御名をほめよ!

教会に行ってみたいんですけれど

結城さん、こんにちは。すばらしいホームページですね。

    ありがとうございます。はげましを感謝します。

わたし…聖書に興味を持ち、教会にも行ってみたいなと思うようになりました。

    そうですか。それはとてもいいことです。

つまらないことなのかもしれませんが、ちょっと聞いてもいいですか。

    はい、どうぞ。
    私は牧師ではないので、間違ったり不正確だったりするかもしれませんが。

小さい頃に教会の幼稚園に行って、クリスマスの劇をしたことくらいしか覚えていないんです。

    ああ、なるほど。

一番気にかかっているのは、宗派のことです。教派っていうんですか?
いろんな派があるんでしょう? どれに行ったらいいかわからないんですが。

    教派の問題ですね。
    それは教会に行こうかなと思っている人がよく感じていることのようです。
    確かにキリスト教には教派はいろいろあります。
    教派はいろいろありますが、すべて同じ神さまを信仰の対象とし、
    同じイエスさまの救いを信じ、同じ福音を伝道していることは理解してください。
    それはとても大事なことです。

ふうん…どの教派でも同じキリスト教、ということかしら。
でも、同じ神さまならどうして教派?がいろいろあるのですか。
ちょっと変な感じがします。

    なぜ教派がいろいろあるかというと、
    役目がいろいろ違うから、と私は理解しています。
    一つの身体でも、目・耳・口・鼻・足・手などの各部の働きは違いますよね。
    それぞれ役目を担っていて、一つの身体を構成しているのです。
    個々の教派、そして個々の教会もそれと同じように、
    一人の神さまを礼拝していても、負っている役割や、
    聖書の強調点が違うのだと思います。

なるほど…ちょっとわかったような気がします。
で、結局わたしはどの教会にいったらいいのですか。

    私は具体的には「ここの教会へ」とはお勧めしていませんけれど、
    まちがった教会にいかないようにするためのポイントはいくつかあげることができます。

え…まちがった教会ってあるんですか。

    「教会」とは名乗っているけれどキリスト教の教会ではないもの(異教)、
    「キリスト教」と言いながら正統的なキリスト教とは言えないもの(異端)、
    などがありますから、
    どうせ行くなら正統的なキリスト教の教会に行くことをお勧めしています。

何だか…難しそうですね…。
私まだ聖書をよく読んでいないので、
異端とか言われてもよくわからないんですけど…

    細かい部分を言い出すと難しいので、大きな原則だけお話しますね。
    大丈夫、すぐに覚えられる項目を箇条書きにしますから。

    (1) 「聖書」のみを聖典としている教会か
    (2) 人となった神(神の子)「イエス・キリスト」を救い主としている教会か
    (3) 父・子・聖霊の「三位一体(さんみいったい)」の神さまを信仰している教会か

えっと…ちょっ、ちょっと待ってください。メモしますから。
…うーん、これでも覚えられそうにありません…

    もっと短く言いましょうか?(^_^)
    「聖書のみ」「イエスキリストは救い主」「三位一体の神」
    が大きなポイントですね。
    あ、それからもちろん「十字架」もポイントです。

ふうん…これなら覚えられそうです。聖書のみ…と。うん。
でも、これだけでどこの教会にいっていいかわかるんですか。

    例えば「ここの教会に行ってみようかな」と思ったとしますよね。
    たいていそこには電話がありますから、そっと電話をかけてみます。
    そして聞いてみるんです。

        「そちらは、聖書のみを聖典としているキリスト教会ですか」
        「イエスキリストは救い主ですか」
        「父・子・聖霊の三位一体の神を信仰しているんですか」

    のように聞いてみます。

はあ…電話で聞かなきゃだめですか?

    あ、別に電話をかけなきゃいけないってことはありません。
    直接その教会に行かれてもいいですけど、行く前に少し調べたい場合の話です。
    電話で上のように聞いてみて「はいそうです」のような答えが返ってきたら
    とりあえず、行ってみてもよいかもしれませんね。

そうじゃない場合っていうのもあるんですか?

    例えば「聖書の他に、○○という本も聖典としています」とか、
    「イエスはすばらしい預言者だが、救い主ではない」とかいう答えが返ってきたら、
    やめた方がよいでしょう。

その他に…何か注意点ってありますか?
こういうことをここで聞いていいのかわかりませんが、統一教会とかはどうなのですか。

    以下の3つは三大異端と呼ばれています。行ってはいけません。
    「統一教会(原理運動、世界基督教統一神霊協会)」
    「エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会、王国会館)」
    「モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)」

教会にいったら、信者にならなければならないってことはないですよね。

    よい教会は、決して入信を強制しません。
    また、人の自由を束縛したり、
    大金を寄付させたり、何かを強制的に買わせたり、
    有無を言わせぬ態度で迫ったりすることはありません。
    熱心に伝道する場合でも、必ず本人の意志を尊重します。

もう少し、具体的な教会の探しかたについて教えてください。

    電話帳(タウンページ)で「教会」「キリスト教会」などを探してもよいですし、
    大きなキリスト教書店(銀座教文館、お茶の水CLCなど)や図書館で、
    「キリスト教年鑑」を見つけ、あなたの住まいのそばにある教会を
    その中から探すという方法もあります。

    それから、住所を知らせると、
    近くのプロテスタントの教会を紹介してくれる団体があります。
    教会インフォメーションサービス(CIS)

     電話:0424−94−2219
    FAX:0424−93−4470

    いずれの場合でも、
    教会に対して上の問いかけはやってみるとよいでしょう。

はい…ありがとうございます。
いま、ちょっと自分の生活の中で停滞ムードというか、
漠然とした不安というか、これでいいのか、というのを感じているんです。
聖書とか教会とかキリスト教に、何となく答えがあるような気がしているんです。
また、わからないこととか教えてください。

    はい。あなたが、まことの神さまと出会われ、
    聖書を通してイエスさまの救いを自分のものとすることができますように、
    お祈りしていますね。

ありがとうございます。

    以下のリンクも参考になさってください。

週末の祈り

ハレルヤ! 主の御名をほめたたえます!

主をほめたたえます。
この天地万物をお作りになり、そのうちにあるすべてのものをお作りになった主を。
そして何より、私たちをお作りになった主を、心からほめたたえます。

主よ。私たちはあなたがおられることを喜び、感謝します。
あなたがおられ、私たちをかわらず愛してくださることを感謝します。
そのあかしとしてイエスさまの十字架が与えられたことを感謝します。
信仰が与えられていることを感謝します。

私たちの中からは何一つよいものは出てきませんでした。
すべてのよいものは、主がお与え下さったものですから感謝します。
私たちは自分の力、自分の知恵、自分の努力を頼みにしません。
ただ、あなただけによりたのみます。

私たちは弱いもので、だからこそ強がってしまいます。
私たちは愚かなもので、だからこそ賢く見せようとしてしまいます。
私たちは小さなもので、だからこそ自分を大きく見せようとしてしまいます。
私たちのそのような姿を、主はご存知です。
主よどうぞ、私たちをあわれんでください。
主の前に、私たちは無力であることを告白します。
自分の虚栄、自分の強がり、自分を無意味に飾ろうとする無駄な努力を、いま捨てます。
どうぞ私たちの弱さにこそ、あなたが働いてください。
ただ、あなただけによりたのみます。

この一週間もあなたが護ってくださったことを感謝します。
今週のうちに、私たちが行なったすべての悪いことをゆるしてください。
人に対して語った言葉、誠実ではない行い、怠惰な生活、勤勉を隠れみのにした逃避、
不品行な思いや行い、そのすべてをいまあなたの前に告白します。
(…個々の告白…)
イエスさまの十字架と聖書の約束により、
告白した罪がすべて完全にゆるされたことを感謝します。
ハレルヤ!
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、 神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 (ヨハネの手紙 第一 1章9節)
また聖霊様、どうぞ私たちを探ってください。 そして隠された罪もすべてあなたの光で照らし、あなたの火で焼き尽くしてください。 聖霊様のきよめを感謝します。 どうぞこの週末も、主が私たちを正しく導いてください。 すべての誘惑から、どうぞあなたが護ってください。 イエスさまの権威あるお名前で誘惑を打ち砕くことができますように。 主よ、あなたがおられること、こうやってあなたに祈れることを感謝します。 そしてまた、日曜日にはそれぞれの場所で主を礼拝することができますように。 週の初めの日を、主におささげすることができますように。 すべての人間関係が、経済生活が、勉強や仕事が、取り組んでいる課題が、 主によって正しく整えられますように。 人を恐れず、問題を恐れず、ただ神さまのみをおそれて、 慎み深く、しかし大胆に歩むことができますように。 決心や決断をしようとしている方の上に、 主の特別の油注ぎがあり、御旨にかなう道を選ぶことができますように。 病のある方の上には主の速やかないやしがありますように。 このページに集っておられる方々の上に、 主の祝福と恵みが豊かにありますように。 イエスさまを信じてはいても、 自分の口で信仰の告白をしていない方もいらっしゃいます。 聖霊様がその方に触れてくださり、うながしてくださり、 信仰告白の祈りへと導いてください。 この祈り手の言葉をきよめ、用いてください。 すべての栄光をあなたにお返しいたします。 この祈りを、私たちの主、イエスキリストのお名前を通して 御前におささげいたします。 アーメン。 ハレルヤ!

栄光を主に返そう / 自由と軽さとオリジナリティ

朝、ファミリーレストランで仕事。今日はいい天気。
毎日、書籍やページに関するフィードバックをいただく。とても感謝。

けれども、感謝されることに慣れないように注意しようと思う。
自分の力ですべてやったような錯覚にとらわれないように。
いつも、イエスさまに栄光を返す態度を忘れないようにしよう。
すべての栄光を主がとってくださるように。

主が「これをしなさい」ということを単純にそのまま行い、
主が「これをしてはいけない」ということにそのまま従うようにしよう。

不思議なことに、そうすると自由になる。
聖書に従うと不自由で束縛が大きいようだが、それは大きな間違いだ。
自分の勝手な思いや、ふらふらふらつくこの世の流行や、
ちょっとのアルコールや食事で変化する自分の感情に従う方がよっぽど大きな束縛なのだ。

主に従えば従うほど、いっそう自分らしさが出てきて、
自分オリジナルの仕事ができる。
私は心からそう信じ、それを実感している。

自分の力でやろうとか、
自分の努力で自分オリジナルの仕事をしようとしても絶対に駄目だ。
私にいのちを与えてくださり、私を今、ここに生かしてくださるのはイエスさまなのだ。
神さまこそが、私の体をすべて形作った方なのだ。
神さまこそが、私に「私」という意識を与え、霊を注いでくださる方なのだ。
神さまこそが、私の人生にご計画を持ち、私の人生を正しく導く方なのだ。

だから、主に祈ろう。そして聖書を読み、主の御言葉をいただこう。
いつも仕事の前に主に祈ろう。主の導きを求めよう。
間違っていたら悔い改めを主に告白し、歩き直そう。

仕事でよい結果が出たら、主に感謝し、
よくない結果が出ても、それを謙虚に受け止め、主に感謝する。
人からほめられても、主に栄光を返そう。
「それは主がなされたことだ」として主をほめたたえよう。

そうすれば、自分はもっと軽くなる。
だって、自分の手に何も握り締めていないのだから。
もっと軽やかに、もっと自由に歩けるようになる。
そして、本当の自分らしい人生を歩むことができる。
私はそう信じている。

主の御名をほめよ!

腹を立てる者は、

昔の人々に、
『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』
と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。
兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、
もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、
出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。
それから、来て、その供え物をささげなさい。
(マタイ 5:21-24)

このような厳しい、また恐ろしいセリフは誰の口から出たのでしょうか。
これは、イエスさまの口から出たものです。

イエスさまはまず、旧約聖書の「殺すな」という教えを話します。
『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』

そしてその次にイエスさまは「しかし」と続けます。
「しかし」と続けて話されたのは「腹を立てる」ということについてでした。
まるで「殺す」ということの重大さと「腹を立てる」ということの重大さが
等価であるかのようにイエスさまは話されました。
「殺せば、だれでもさばかれる」と同じ口調で「腹を立てれば、誰でもさばかれる」
とイエスさまは話されます。

きっと神さまの基準からすれば、神さまの目から見れば、
「殺すこと」も「腹を立てること」も同じほど重大な罪なのでしょう。

私たちのほとんどは、人を殺すことはないでしょう。
しかし、腹を立てることに関してはどうでしょうか。
そして腹を立てることが、
人を殺すことと同程度の重い罪だとしたらどうでしょうか。

私たちは神さまをおそれかしこみ、悔い改めて、
イエスさまの罪のゆるしにすがらなければなりません。
そして、いま、腹を立てている相手がいるならば、
急いで、仲直りをしましょう。

「そうはいっても、仲直りなんかできない」と思われる方も多いと思います。
そして、次のように思われるかもしれません。

「あいつにこっちの弱みなんか見せられるもんか」
「甘い言葉を言ったらつけあがるに決まっている」
「何言っても聞く耳持たないんだから無駄無駄」
「そんなことしたら私の面目が丸つぶれですよ」
「もとはと言えばね、あいつが悪いの。あいつが。何で私から折れるわけ?」
「他の人にはね、私の気持ちなんかわからないんだよ。どんだけひどいめにあったか」

そうですね。
きっとあなたの主張は正しいのでしょう。
あなたの怒りには正当な根拠があるのでしょう。

神さまは、あなたのことをご存知です。
神さまは、すべてのことをご存知です。
あなたの主張も、あなたが受けてきた傷も、苦しみも、怒りの理由も、
すべて神さまは(あなた自身よりも)よくご存知です。
あなたが腹立たしく思っていることも、もちろんご存知です。

そして、その上で、
あなたがその怒りにどう対処しようとしているのかを
ごらんになっていらっしゃいます。

もしもあなたにしかあなたの気持ちがわからないなら、なおさらのこと。
ゆるしの宣言はあなたにしかできないのです。

腹を立てるのは殺すことと同じ。

私はあなたに、何も強制することはできません。
この文章は、ただの文章です。
あなたに対する強制力は何もありませんし、
私もあなたに強制しようとは思っていません。
この文章を読んでいるあなたのいまの状況も、私にはわかりません。
でも、あなた自身は自分の状況を知っています。
腹を立てるのをやめ、仲直りをするための一歩を踏み出すかどうかは、
あなたの自由意志にゆだねられているのです。

一言祈ります。

もしも、あなたが腹を立てている誰かがいるならば、
以下の祈りの最後の部分を私といっしょに声に出して祈りましょう。
神さまは必ずあなたの祈りを聞いてくださいます。

愛する天の父なる神さま。
あなたの御名を賛美します。あなたの御名をほめたたえます。
あなたはすばらしい方。この天地万物をお作りになり、
私に命を与えてくださった方。あなたの御名を心からほめたたえます。

今日は、聖書のマタイ 5:21-24を通して、
腹を立てることの危険について学びました。感謝します。
イエスさまご自身が、
「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」
と語られたことを覚えます。
『ばか者。』や『能なし。』と口にだしては言わないとしても、
心のうちに思うことのある我が身を省み、深く悔い改めます。
イエスさま、おゆるしください。
どうぞ、これからそのような思いを抱くことがないように、
また腹を立てそうになったときには、
イエスさまのことを思い出し、すぐに悔い改めることができますように。

いま、この文章を読みながら祈ろうとしている方とともに、
あなたにお祈りします。

 神さま。あなたを賛美します。
 イエスさま。わたしは----さんに腹を立てていました。
 その状況、私の気持ち、そのすべてを神さまはご存知です。
 いま、聖書の言葉を通して、
 腹を立てることが大きな罪になることを知りました。
 神さま。ゆるしてください。
 わたしは----さんに対して怒っていましたが、いま----さんをゆるします。
 感情的に納得のいかないところや、気のすまないところもありますが、
 いま、わたしは、自分の意志で----さんのゆるしを宣言します。
 わたしの心の傷、痛み、悲しみ、理解されない思い、
 そのすべてをイエスさまにお預けいたします。
 私を怒りの束縛から解き放ち、自由にしてください。
 もし、怒りが襲ってくるときがあっても、
 万軍の王であるイエスさまが護ってくださいますように。
 どうか、勇気をもって----さんと仲良くすることができますように。
 イエスさまが十字架の上で受けた傷と、流された血によって、
 どうか、わたしを救ってください。
 いまイエスさまに向かい、心を開きます。イエスさまの愛と喜びで私を満たしてください。
 イエスさまのお名前を通してお祈りします。
 アーメン。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる

では、どう言っていますか。
「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」
これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

なぜなら、
もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

聖書はこう言っています。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。
同じ主が、すべての人の主であり、
主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる。」のです。

(新約聖書 ローマ人への手紙 10:8-13)
信仰生活において、自分の口でイエスを主と告白することはとても大切だと思う。
自分の口で罪を告白することと同じように大切だ。

「告白」というものを考えると、
信仰が、第一に神さまと自分との個人的な関係であることがよくわかる。
自分の口で告白することは自分にしかできないからだ。
自分の告白を、誰かに頼むわけにはいかないのだ。プロポーズと同じだ。

また自分の口、という肉体を使って信仰を表すことは、
単なる理屈や知識ではなく、実際の行為のはじまりであることにも気がつく。
信仰の告白は、他の誰でもない私が、他の誰でもないあなた、に実際に語っているのだ。
ああ、これもプロポーズと似ているなあ。

それとも、プロポーズへの返答に似ているのかな。

「あなたを愛しています」という神さまのプロポーズ、イエスさまのプロポーズに対して、
「はい、あなたに従います。私を導いてください」と答える自由も、
「いいえ、私は自分の力で自分のやりたいようにやります」と答える自由も、あなたにはある。
それから、神さまのプロポーズを「聞かないふり」をする自由もね。

罪の告白や、信仰の告白は、とても簡単なようで、とても困難なものだ。
そこにはやはり神の何らかの介在がある。
例えば罪の告白。

「私はあのとき、あの場所で、これこれのことをしました。
 でもそれはやってはいけないことでした。
 ごめんなさい。ゆるしてください」

このような罪の告白を(神さまに対してであれ、人間に対してであれ)
自分の口で行なうことは、本当に難しいことだ。
(やったことのある人は、わかると思いますが)
そこにはやはり神の何らかの助けがあるように思う。

旧約聖書

質問

旧約聖書には大虐殺が登場するが、あれは正しいことですか。
またあれは神が命じたことでしょうか。

結城の個人的な意見

旧約聖書には確かに多くの戦争が登場します。
私はその個々の戦争について正しいかどうかを判断することはできませんが、
なぜあのような戦争の記述が聖書に書かれているのか、
については思うことがあります。

私たちの人生には、ときに「戦い」が必要になることもあります。
それは心の内の戦いのこともあるし、
家族を守るための悪者との戦いのこともあります。
また忍耐をもって何かを遂行しなければならないという戦いもあります。
(実際、そういう意味では毎日が戦いですね)

私は旧約聖書を読むとき、神が示してくださる指針を読もうと努めます。
例えば、
    「必要以上に恐れるな」
    「自分勝手に戦うな。必ず主の御心を求めよ」
    「秩序を乱すな。正当な権威を尊重せよ」
    「雄々しく戦え。そして徹底的にやるべきときには徹底的に」
などという指針です。

私たちはいろんな局面で「恐れ」を抱きます。
病や死の恐れ、「失敗したらどうしよう」という恐れ、人に対する恐れ。
しかし本当におそれるべき方は神さまだけである、と聖書は語ります。
自分勝手な判断で行動して失敗する者の姿を聖書は描き、
身を低くして主の命令に従い、悪いものと戦う者の姿を聖書は描きます。
自分の欲得のために、戦利品をかすめとる者が主の怒りにあう姿を聖書は描きます。

当時の時代背景、社会的事情を考慮せずに、
現代的な価値観で旧約聖書を読むのではなく、
神さまは旧約聖書を通して現代の私たちに何を示そうとしているのか、
聖書は現在の、自分に、どのような意味をもっているのだろうか、
という態度で私は聖書を読んでいます。

いまの自分にとって「戦い」とは何だろう、と思います。

当然ながら、聖書には私の理解を越えている部分や、
何でこんなことまで、と思う部分もたくさんあります。
不可思議な箇所もあります。
そう、まるで、自分の人生と同じように。
けれども、それをはるかに上回る恵みもたくさんやってきます。
聖書に対して心を開き、
神の御声を聞く態度で接すると深い謎が解き明かされるときが多いのですが、
心を閉ざし、批判と疑いだけで読むと、恵みがどこかで止まるようにも思います。
そんなところも、自分の人生と似ています。

話がそれました。
あなたの質問への答えにはなっていないと思いますが、
以上が私の答えです。ご意見ありがとうございました。

ある対話

こんにちは、結城さん。

    こんにちは。

結城さんはクリスチャン、ですよね。

    はい、そうです。

結城さんのページには学ぶことがたくさんあるんですが、
私は神様を信じられませんし、信じたくありません。

    はい。

ごめんなさい。

    別にあやまる必要はありませんよ。信仰は強制じゃないんですし。

結城さんのページではそんなにむかむかしないんですけれど、
なんだか「神様神様」っていってるのを聞くと、何考えているのかな、と思うことがあります。

    何考えているのかな、といいますと?

世の中、悲惨なことってたくさんあるでしょう?
もし神様がいるなら、神様ってそんなひどい方なんですか?

    神様はひどい方ではないですよ。

じゃあなんでこんなにひどいことがたくさんあるんですか。世の中に。
それに宗教が原因で起こっている戦争ってたくさんあるでしょう?
そういうのを忘れたふりして「神様神様」っていうのに我慢ができません。

    世の中の多くの悲惨は人間が原因なことが多いと思いますよ。
    戦争も、宗教がらみの戦争であっても、それは宗教がいわば素材になっているだけであって、
    他の人をゆるさず、神様に従わない人間の本性が本当の原因になっているのだと思います。

そうですか? それって勝手な理屈じゃありませんか。

    話は、ずれるのかもしれませんが、世の中に悲惨が多いから神様がいない、
    という方はたくさんいるんですが、
    そのような方は神様がしてくださっているすばらしいことを忘れているように
    思うときもあります。

すばらしいことって?

    たとえばこの地球があることとか。あなたがいまそこにいることとか。

あまりピンときません。ごめんなさい。わたしひねくれているんです。

    別にあやまらなくてもいいんですよ。
    私もうまく説明できないんです。
    うまく説明できないんですが、世の中の残虐さとか、悲惨とか、戦争を思うとき、
    それは神さまがいないことの証明じゃなくて、
    人々が神さまに従っていないことの証明なのじゃないか、と思ったりもします。
    それは、人のことじゃなくて、我が身のことを振り返るとそう思うのですが。
    神さまに従っていないとき、私の内部は戦争のような状態になりますから。

宗教やっている人はいいんですけれど、
それを人に強制しないでほしいって思うんです。

    ええと、私はべつにあなたにキリストを信じるように強制しようとは思っていませんよ。
    それに強制して信仰を得ることはできないので。

ああ、別に結城さんがそうだっていうんじゃないんです。ただ強制してほしくないな、と。
だって、どんな宗教でも根本は一つでしょう?いろんな宗教があるけれど、
それを極めると同じところに行き着くような気がするんです。
だから、宗教でいがみあうのはやだな。もっと尊重すればいいのに。

    人は信仰の自由がありますから、信仰は強制すべきではない、というのには賛成します。

そうですよね。

    でも「どんな宗教でも根本は一つ」とか「宗教は極めれば一つになる」というのには
    強く反対ですね。

そうなんですか? ごめんなさい、よくわからないんです。

    どんな宗教にも似ている点がある、のは認めます。
    たとえば代表的なものとして「自分勝手はいけない」とかね。
    「親を大切に」とかもそうですね。

ええ。なかなか親を大切にはできないですけどね。

    でも、その宗教上似ている点っていうのは、
    そもそも宗教じゃないところでも似ているのじゃありませんか?

ごめんなさい…

    どちらかというと道徳的側面というか。

…よくわかりませんが。

    つまり、たとえば「自分勝手はいけません」というのは道徳的な側面に
    フォーカスをあてていて、そこに関してはいろんな宗教が似ているのです。
    でも、各宗教の本質的な部分においては「宗教は一つ」とはぜんぜんいえないように思います。

ごめんなさい。難しくてよくわかりません。

    一つだけ例をいえば、キリスト教は
    「人間は本来つみびとであって、イエスキリストの救いを信じることでのみ、救われる」
    と主張しています。これは、キリスト教でとても大切なことの一つです。
    でも仏教はそのような主張はまったく行ないません。

それは仏教とキリスト教の違いなんじゃないんですか。

    そうです。でもその違いはとても大きな違いなのです。
    その違いを無視して「宗教は一つ」というのは意味がないほど大きな違いです。

私が宗教をいやなのは、共通な部分を無視して「もめる」からです。
宗教には共通の部分があるのだからそこで理解を深めればいいのに。

    もちろん、他の宗教を信じている人に向けて寛容なこころを持つことは大事だと(私は)
    思います。けれど、だからといってすべての宗教を一つにしていい、とはなりません。

私はそんなことをいいたいのじゃありません。
すべての宗教を一つにしろなんていっていません。

    あ、そうですね。ごめんなさい。私がいいたかったのは、
    人に対して寛容になるということと、
    各宗教の本質的な部分をぼかすことは違うっていうことなんです。

なんだか私のいいたいこととずれているような気がするんですけど…。
でもうまく言えません。

    私はクリスチャンなので、キリスト教のことしか本当にはわかっていないのですが、
    クリスチャンじゃない人は私の話を聞いても、
    神様のことがすっぽり抜けて聞こえるみたいなんです。

すっぽり抜けるってどういうことですか。

    うーん、うまく言えないですね。またいい例が思い付いたら話します。(^_^;

とにかく、私は「もめる」のがいやなんです。
宗教なんてみんな同じようなものなのに、言い合いばっかりしてもめていますから。

    あなたは、もめるから宗教が嫌いなのでしょうか。

そうです…そうかしら。よくわからないです。嫌いっていうより、よくわかっていないんです。
関心がないっていうか。…でも、結城さんが書いている祈りのことや、神さまのことや、
愛のこと、人の心のことには関心があります。

    はい。

強制されるの、いやなんです。ごめんなさい。私のペースで進みたいのに、
何だかがあがあ言われるの、苦手なんです。
愛のことはよくわからないけれど、私に必要なような気がします。
私を愛してくれる人なんていないんですけど。

    神さまはあなたのことを愛していますよ。

そうかしら。ごめんなさい。よくわかりません。

    だから、あなたの最もよいときに、あなたに語られると思いますよ。
    (でも、神さまは飼い慣らされたライオンではないので、ご自身のなさるようになさいますが)

結城さんが書いている日記とか読んでいると、私って何も知らないって思います。
だって、私のまわりに神さまの話をする人いないし。
何だか変な新興宗教の人はいるんです。でも、それも…私に関係ないって感じで。
があがあ言ってるだけ、みたいな。
しっかりした考え方をしたい、と思っているんですが、わたしはふらふらばかりしていて。

    …神さまはあなたのことを愛していますよ。
    あなたがいま持っている不安とか、悩みとか、焦りみたいなものも、神さまは全部ご存じですし。
    あなたの中には何か「恐れ」みたいなものがあるのかもしれませんが、
    イエスさまを通して神さまに祈り、神さまからイエスさまの本当の愛をいただくとき、
    その恐れもなくなりますよ。恐れるべき方は神さまただお一人なんですから。

私は何か恐れているかしら…。そうですね。
いろいろたくさん恐れていますね。ごめんなさい。ここでは言えません。

    あ、いいんですよ。別に書かなくても。うん。
    どんなことでも、神さまに信じて祈れると、恵みなのですが。
    もしもあなたが必要だと感じるものがあったら、神さまに求めていいんです。
    どんどん願っていいんです。
    神さまはあなたを愛しているんですから。
    願いはそのままの形でかなうとは限りませんが、
    神さまはあなたの願いに耳を傾け、最善をいつも備えてくださる方なんです。
    神さまはあなたを愛しているんです。

結城さんのページには学ぶことがたくさんあります。これからも頑張ってください。
私はこれからも絶対に神さまを信じないと思うのですけれど、
でもちょっぴり結城さんがうらやましくなるときもあります。
信じているものを持っているということで。

    ありがとうございます。絶対に神さまを信じない、というのはずいぶん強い信仰ですね (^_^)

別に私の信仰っていうわけじゃないんですけれど…。
ところで、結城さんはクリスチャンになってしあわせですか。

    ええ、とてもしあわせですね。

それは、やっぱり信じているものを持っているからでしょうか。

    どうでしょうか。信じているものを持っているから、というより、
    本当の神さまにつながっているから、だと思います。わかりにくいかな。

わかりにくいです。ごめんなさい。それって違うんですか?

    えっとね。私のしあわせって、私の中からくるんじゃなくて天からくるんです。神さまから。
    私が何かしたからしあわせ、という表現は私の実感とは少し違うんです。
    もちろん、そういう面もありますよ。
    神さまに祈れるしあわせとかは、私が祈る時に感じる幸せです。
    けれど…何に対して祈っていてもしあわせか、というとそうじゃない。
    自分一人で言葉をとなえていればしあわせか、というとそうじゃない。
    天にまします、あのいと高き方、この世のすべてをお作りになったあの方、
    この上なく厳しく、この上なく強く、この上なく愛深いお方、
    その方に祈るから、そして対話できるから、しあわせなんです。
    失敗したり、罪をおかしたりしたときも、全部神さまにお話します。
    そして、イエスさまの十字架でゆるしていただくんです。

ふうん。

    結婚にたとえるとわかりやすいかなあ。
    結婚しているからしあわせ、というのはあまり正確じゃなくて、
    かけがえのない方、あの、世界中でたった一人しかいない自分の妻(夫)と
    結婚しているからしあわせ、なのですよね、普通は。

そうでしょうね。

    他の誰でもない私を見てくれ、自分のよいところもわるいところもひっくるめて、
    まるごと愛してくれる、率直な対話が可能な、人格をもった相手がいるから、
    その相手と結ばれているからしあわせ、なのですよね。

そうでしょうね。

    私が、イエスさまのお名前を通して神さまに祈る時のしあわせというのは、
    それにとても近いように思います。
    宗教だからいい、霊的なものだからいい、祈っていればいい、わけではなくて、
    「どなたに向かって」祈っているかがとても大切だと思います。
    信心深いことは、それだけではよいわけではない、と私は思います。

私は独身なので(それにクリスチャンでもないし)よくわからないです。
ごめんなさい。でも、ちょっとうらやましいです。

    神さまについて、イエスさまについて、
    そしてもちろん、本当の愛についてもっと知りたいときには、
    豊かな人生のための四つの法則をぜひごらんくださいな。
    あなたが自分の罪を認め、イエスさまの救いを信じて受け入れ、信仰を口で告白するとき、
    あなたはもうクリスチャンです。

このリンクは結城さんのページのあちこちにあるのですが、
この先を見たことはありませんでした。そのうち見てみます。
今日は長い時間ごめんなさい。

    こちらこそ。またいらしてくださいね。(^_^) ではまた。

結城さんは偉いですね

ネットでお祈りをしたり、人の話を聞いたり、アドバイスをしたりしていると、
「結城さんは偉いですね」とか、
「結城さんは立派な方ですね」というおほめのメールをいただくことがあります。
ほめられるのはうれしいもので、
「ふむふむ、もっとほめて、もっとほめて」という気持ちが37パーセント。
「いやいや、ほめられて喜んでいてはいけない、神さまに栄光をお返ししなくては」という気持ちが21パーセント。
「けんそんなふりをしていた方が、もっとほめられるぜ」という気持ちが18パーセント。
「そんなことないんですう、だって私は…」と偽悪者になりたがる気持ちが7パーセント。
(ええと、あと何パーセント残っているかな…まあいいや。人間ってややこしいものですね)

学校にいたころは、ほめられると、うれしい反面、
自分はそんないい子じゃないんだ、ぞー!
とつっぱったことを言いたくなったり、
何だかわけわからない状態だった。
自分で自分らしさを出そうとして、でも何が自分なのかわからなくて、混乱していた。
(だからいまでも「自分の気持ちに正直に」というセリフにはちょっとまゆつばなのだ)

ともあれ。
聖書に書かれた本当の神さまを知る以前と以後で何が大きく変わったかというと、
…「視点」だ。
よいことをしていても、よくないことをしていても、
昔の視点は自分しかなかった。自分が自分を見ている視点しかなかった。

神さまがいらして、わたしを愛してくださっていること、
いのちがけで愛してくださっていることを知ってからは、
ちょっぴり、神さまの視点を知ることができるようになった。

私が生きていて、いろんなことを考えていて、よいことも、よくないこともさまざまあるのだけれど、
それをすべてまるごとごらんになっている方がいらっしゃるという事実。

私がその方に気付くよりもずっと以前から、その方は私をごらんになっていて、
私の人生のすべてを誰よりもよくご存知で、
私がしてきた、よいことも、わるいことも、ものすごくわるいことも、
誰よりも、誰よりもよくご存知で、
それにも関わらず、今日もまた、私に、

    「わたしはあなたを愛している」
    「わたしはあなたを愛している」
    「わたしはあなたを愛している」

と語り続けてくださる方がいらっしゃる。
私がその方のことを忘れていても、忘れたふりをして悪いことをしても、
その方は力強い御手で、何度も何度も私を抱いてくださる。

神さまは、そのような方。
愛のあかしとして、御子イエスを送ってくださった方。

いいことをして、ほめられても、わざと悪いことをするのはもうやめよう。
思い上がる心や、もっとほめてもらいたいという心があるのもすべて認め、

「神さま、これがいまの私です。あなたのご存知の通りです。
 いろいろ、あれこれ、ぐちゃぐちゃ考えちゃいますけれど、
 あなたの御用のために、この小さき者を整えてください。
 ほんのわずかな、この世では短い人生ですけれど、
 この人生の中でわたしがなすべきことをどうぞ教えてください。
 そして、あなたからの御力を得て、なすべきことをなすことができますから感謝です」

と祈ろう。

何度も、何度も、あきらめず、神さまのところに帰ろう。
醜い自分が出てきても、汚い自分が出てきても、
神さまから離れる方向ではなく、神さまの方に向かおう。
醜い自分を変えてくださるのは神さまであり、
汚い自分を洗いきよめてくださるのは神さまなのだから。

神さま。この身をあなたにおゆだねいたします。

これが、今の私の信仰告白です。

いまこそ、あなたが祈る時。今日こそ、あなたの救いの日。

何年も前に、ある方から聞いた話を思い出した。その方は
「神さまは私の願いを聞いてくださるわけがない」と言いながら、すぐ後で、
「神さまに自分の願いを祈るのは正しくないような気がする」と言っていた。
それを聞いたときには気がつかなかったのだが、こうやってあらためて
文章で書いてみると、あることに気がつく。

この方は結局、祈らないのだ。

「神さまに自分の願いを祈るのは正しくないような気がする」というのは
御利益信仰が間違っているという意見にも聞こえる。
でもそれならなぜ「神さまは私の願いを聞いてくださるわけがない」と言うのだろう。

私の心にも、いろんな思いが浮かぶ。
それはときに信仰を妨げ、祈りを妨げ、自分が正しいと思う行動を妨げる思いだ。
その思いは本当に巧みな論理を組み立てる。
しかし、その巧みな論理は、何というか…コドモの論理にどこか似ているのだ。
むりやりひねりだした理屈に似ている。
そして実際上の役にはまったく立たない理屈だ。

空虚な論理から身を避け、思いを神さまに向けよう。
両手を上にあげて、声をあげて祈ろう。
イエスさまの御名によって、主にすべての思いをゆだねよう。
自分のコリクツがごちゃごちゃいっても気にかけない。
とにかく主にすべての思いを祈りによって語ろう。
時には愚痴になることだってある。神への恨み言になるときもあるかもしれない。
でも、とにかく神さまに目を向けよう。
そして祈ろう。

なかなか信じられないときもあるだろう。
そんなときは「信仰が増し加わるように」と祈ろう。
スタートはほんのちょっぴりの信仰(からしだねの信仰?)でもいいのだ。
そのちょっぴりの信仰を主に向けよう。
よちよち歩きの赤ちゃんがお父さんにちっちゃなおててをあげるように、
本当の父なる神さまに手をあげよう。
神さまは必ずあなたを受け止めてくださり、あなたの信仰を増し加えてくださる。
大胆に祈ろう。
「いま、信仰が与えられるように」
「もっと強い信仰が与えられるように」
「いつも、イエスさまに従えるように」
「もっと『あの人』を主によって愛することができるように」
「『あのこと』をゆるすことができるように」
自分でできることではなく(それも祈ってよいけれど)、
とうてい人間の力ではできないことを、大胆に信じて祈ろう。
主は必ずあなたに応えてくださる。
あなたの思ったようにではないかもしれない。
しかし、神さまはあなたの祈りを必ず聞いてくださる。
そして願った以上のことが起こるのだ。

祈りは力です。
私たちには力がないけれど、神さまには力があるのです。

あなたも、あなたのまわりにあるすべてのものも、
山も海も、鳥も動物も、地球も太陽も、宇宙全体も、
神さまがお創りになられたのです。

神さまは強いお方です。
しかし、神さまはもっとも偉大なお方ゆえ、もっとも謙遜になられました。
すなわち、御子イエスキリストとして人間の姿をとられたのです。
それは人間の弱さを受け止め、人間の痛み、人間の傷、を我が身に受けるためでした。

もっと言おう。
人間一般の弱さ、ではなく、わたしの弱さ、そしてあなたの弱さだ。
 わたしの痛み、わたしの傷、わたしのあの罪の刑罰…
 あなたの痛み、あなたの傷、あなたのあの罪の刑罰…
それをイエスさまは人間として引き受け、十字架にかかったのだ。

死んでよみのくにに下り、しかしイエスさまは死に打ち勝って復活なさいました。
だから、イエスさまを信じるものは永遠の命を受けるのです。
誰も、自分の力で天国に行くことはできません。
イエスさまによって引き上げられるのです。
イエスさまは誰よりも低くなられ、誰よりもどん底に落ちられました。
そしてどん底のどん底から上がられたので、
どんな人間でも、どんなに落ち込み沈んだ人間でも、
イエスさまを信じることによって、引き上げてくださるのです。

ハレルヤ! 主の御名を賛美します。

今日も、自分にあるのはわずかばかりの信仰だ。
ほんのぽっちりの信仰しかない。
しかし、祈ろう。どんどん祈ろう。大胆に祈ろう。信じて祈ろう。
わたしの、そしてあなたの祈りは、必ず神さまに聞いていただける。

いまこそ、あなたが祈る時。
今日こそ、あなたの救いの日。

 pray と today が韻をふむのは、ゆえなきことではないのです。
(祈り)  (今日)