再発見の再発見

結城浩

2003年3月7日

[CR] 淡々と仕事。 擬似乱数生成器の章の、まとめのあたりを書き進めた。 今日はちょっとした発見があって、とてもうれしい。 こういう瞬間って甘美だ。

1つの章をいくつかの節に分ける。 導入の節から書き始め、 読者にこの章で学ぶ概要をつかんでもらい、 具体例を通してより深く理解してもらう。 そしてまとめの節でざっと後ろを振り返る。 その中のどこかで、何かに「気づいて」もらう。

  • 「あっ、そういうことだったのか」
  • 「なるほど、そういう見方をするものなのね」
  • 「それは知らなかった」

…読者にそのような気づきや発見をしてもらえれば、 書き手としてとてもうれしい。 「知識を得た」にとどまらず、 「感動の体験をした」に近づいてもらえれば、 と願うのだ。

もっと書いてみよう。 私が「よい文章」だと思うのはこういうものだ。 普段、自分の目の前にあって当たり前だと考えているもの、 さらには当たり前すぎてすでに見えなくなっているもの、 そのようなものに光を当て、新しい意味を汲み出し、 読者に「再発見」してもらうような文章。 そのような文章を、私は「よい文章」だと思う。 そしてそのような文章を書いていきたい、と思っている。

けれど…、この話は文章に限った話ではない、とも思う。 「受け取り手に再発見をうながす」というのは、 「表現する」という行為の本質ではないのか。

新しすぎると理解されない。 新しくなければ価値がない。

古さがなければ意味をなさない。 新しさがなければ意義がない。 ——これが表現の本質ではないか。

ところで、生き生きした人間関係にも、 「昔ながらの慕わしさ」と「新鮮な驚き」の両方が必要だ。 それは螺旋階段のようなものだ。 ぐるっと回って、なつかしの同じ場所にきたと思ったけれど、 実は一段高くなっているという驚き。

創造の本質にもつながっている。 神様は、日々のめぐりと季節のめぐりをお造りになった。 毎日の当たり前の繰り返しをすごしているうちに、 新しい季節がめぐっていく。 さらに、今年の春は昨年の春と似ているようだけれど、 みんなが少しずつ変化している。

教会の礼拝だって同じだ。 いつもの牧師のいつもの説教、 いつもの聖書、いつもの賛美歌、いつもの頌栄(しょうえい)。 昔ながらの慕わしさの中にありながら、 現在の私にとって必要な、 新しいメッセージが開かれるという驚き。

今日もまた、いつもの毎日の中に新しい何かを発見していこう。