結城浩
1999年9月6日
プログラミングの書籍を書いたり、雑誌連載を書いたりしていると、 ときどき、間違ったことを書いていないだろうか、と恐れることがある。 プログラムそのものは自分である程度試すことができるからいいんだけれど、 技術的な解説などは、いつも「もっとよい説明の仕方があるのではないか」と思ってしまう。 そういう気持ちは自分の向学心のためにはいいけれど、 度を越すと神経がまいってしまう。 そういうときには、 「いや、現在の私の理解の分だけでも、誰かの役に立つかもしれない」 と自分をはげますようにしている。
「もっとよい説明」を求める心の裏には、 「他の人から笑われたくない」という気持ちや、 「他の人に『すごいだろう』と自慢したい」という気持ちが隠れている。 そういう自己中心的な思いではなく、 「自分の現在の知識や理解が他の人の役に立つように」という気持ちを中心に置くと、 仕事全般に対する姿勢が変わってくるように思う。
典型的なのが「誤り」の扱いだ。 こういう失敗をした、という情報は他の人の役に立つことが多い。 しかし、他の人に自分の能力を自慢したいという思いが先に立つと、 自分のおかした誤りを隠してしまいたくなる。ですよね。 でも、そこでぐっとこらえる。 かえって自分のおかした誤りがどんなものだったのか、 なぜその誤りをおかしたのか、 どうすれば防げたのか、 などにきちんと光をあてる。 すると、その誤りは人の役に立つ上に、自分自身の大きな糧となる。 自己中心の思いで誤りを隠すとき、それは暗いしこりとなって終わる。 しかし誤りを光のもとに出すとき、それは想像を越えた実を結ぶ。
ああ、キリスト教の「罪の告白」に何と似ていることだろう。