自分のこととして考える

結城浩

2004年8月7日

最近、@ITの掲示板で、質問とその回答をめぐって騒動があり、 いろんな日記やブログで取り上げられています。 こういう騒動は珍しいことではなく、毎日のようにネットのあちこちで起こっています。

結城は以前 「技術系メーリングリストで質問するときのパターン・ランゲージ」 という文章を書いて、質問者の便宜をはかると共に、 回答者の労力軽減になることを期待しました。 感謝なことに、上記のページは多くの方からリンクされ、愛用されています。 でも、それはそれとして、やっぱり毎日のように騒動は起こるわけです。

私自身は、MLや掲示板で回答するときには、 それを「自分のこと」として考えるのが好きです。

相手の質問の仕方については上記の 「技術系メーリングリストで質問するときのパターン・ランゲージ」のURLをさりげなく示しておくのが便利です。 へたに相手を諭す文章を書くとかえって質問者の気持ちをさかなでして逆効果だからです。

質問の内容に関しては、 自分がその回答を準備するプロセスを「自分の勉強の機会」とみなすのが好きです。 質問に答える(答えようとする)のは自分の学習を深めるいい方法だと思っています。 自分が答えられそうな質問があったら、最新情報をちょっと調べて答えを考えてみる。 すると、自分の知識が意外に古いことを発見したり、よりよい解決法を見つけたりすることもあります。

質問者に不快感を与えずに、なおかつ必要な情報を引き出し、 適切な情報を返信する、というのは非常に勉強になります。 そして、そのような「オンラインのコミュニケーション力」というのは、 現代に必要とされている能力だと思います。

そういう意味で、回答者が質問者の役に立つだけではなく、 質問者は(回答者の心がけ次第で)回答者の役に立つことができると思っています。 ネットワークのコミュニティは、参加者の心がけ1つで、参加者自身が大きな恩恵を受ける可能性のある場なのです。

つまりはネットの活動は、 「相手のため」にやっているのではなく「自分のため」にやっている、と思うことにする。 そう思えないときは、何もしない。 それが精神衛生上、とてもよい態度だと思っています。 少なくとも、私はそう思っています。

(ここにちょっと逆説があっておもしろいですね。 つまり、自分の利益をほんとうに追求するなら平和が訪れ、 相手のためによかれと思ってやると騒動が起こる。 …ことがある)

ところで、話はずれますが、 私は常々、ネットワークのコミュニケーションで最も大事なのは、 「語るべき時に語り、黙すべき時に黙す」ではないかと思っています。 特に後半。 なにかひとこと言い返したいときであっても「黙る」というのはエネルギーをとても使いますけれど、とても大事。

騒動が起きた時、場が荒れるのは多くの人が余計なことを語りすぎるからです。 騒動の当事者も熱くなってしまって、 「最後に一言だけ言っておきますが」 「これを最後にもう書くのをやめますが」 といいつつ、語るのをやめられない。 「いままで黙っていましたが、一言だけ言わせてもらいましょう」となってしまう。 最後の一言を「相手」に取られると負けたようなくやしい気分になるからかもしれません。 これでは、軍拡競争のようなものですね。

自分が誤解されたり、自分に不当な言葉が投げかけられたとき、 適切なタイミングで黙する技術(あるいは、心の強さ) を身につけるのは難しいものだと思います。

最後に、覚えておく価値がある教訓を1つ。 ネットに出す文章は、よく読み返すこと。 公にされるその文章は、今後何年も、何十年も、もしかしたら何百年も、残るかもしれないんですよね。