「豊かな人生のための四つの法則」への反論とそれに対する返事

結城浩

2000年1月19日

読者からのメール(抜粋+編集してあります)

豊かな人生のための四つの法則。私は断じて反対です。 キリストを受け入れないと、罪を許さないほど神様の心はせまいのですか? キリストを受け入れないと神の子じゃないんですか?じゃあ何の子? キリストを受け入れない人には永遠のいのちを与えないほど 神様は意地悪なのですか?絶対に違う。神がいるなら (神の定義は難しいけれど、私はいるといいます。) 神がいるなら、万物において平等であるはず。どんな奇人変人も、 殺人鬼も一般人も聖職者も同様に愛するはず。(愛しているのなら)

結城の返事

メールありがとうございます。 結城はあなたの後半部分(神はすべての人を愛している)については同感です。 私もそう思います。 神様の方はすべての人を愛していると思います。

でも前半部分についてはそうは思いません。 あなたは、「罪」と「罪をおかす人間」を同一視しています。 でも、キリスト教はこの二つを注意深く分けているように思います。 よく言いますよね「罪を憎んで人を憎まず」って。 私はこれはよくキリスト教の精神を表していると思います。 神は(罪をおかさざるを得ない)人間を愛しているのです。 しかし神は罪を憎むのです。 ですから人間が罪をしっかりと抱きしめて抱きしめて自分の人格と分かちがたく一体になっている場合、 その人間は天国へ(つまりは神様の御もとへ)行くことは本質的に不可能であると私には思います。 そして、問題は、ほとんどすべての人間が生まれながらにして罪をしっかりと抱きしめているということなのです。

それは神様が意地悪だからではなく、もっと本質的な問題なのです。 自分が罪に満ちたまま天国に行くというのは、 空を飛びたくないのだけれど空を飛びたいとか、 東に行きながら西に行きたいとか、眠りながら目を覚ましたいとか、そういう事項のように思えるのです。 神様が聖書を通して教えているのは 空を飛びたいならこうしなさい、東に行きたいならこうしなさい、 そしてそのように心から願うなら、私(神様)がそうさせてあげよう。 ということです。 罪をおかした人は死に値する。そのルールをまげることは神様はしません。 その変わりに、罪をおかさなかった人をあなたの身代わりとして死に渡そう、 と神様はお考えになったのです。

自分の力では、自分にべっとりと染み付いた罪を洗い流すことはできません。 洗い流すことができるのはキリストの血潮だけです。 あ、これは霊的な比喩です。 「キリストの血潮で洗い流される」 「キリストの救いを受け入れる」 「キリストによって罪があがなわれる」 「キリストがあなたの身代金を払った」 など、好きな表現で構いません。

キリストを信じる、というのは道徳的な教義を頭で理解する、という意味ではなく、 キリストがまさに自分の(ほかの人の、ではなく)罪のために十字架にかかって死んだのだ、 という事実を自分の問題として受け入れ、心を開いて、キリストを自分の主として受け入れることです。 神様は、存在するのです。 私たちの存在よりもずっと高い次元で存在するのです(ちょうど小説の主人公よりも小説家の方が高い次元で存在するように)。 その方が自分に関わってくださることを自分から求めるのです。 あなたが心を開かないと、神様は限定された範囲でしかあなたに影響を及ぼしません。 それは神様が自由意志を尊重なさっているからです(このあたりちょっと不正確ですが、簡単に書いています)。

神様は意地悪ではありません。 神様はあなたを愛しているのです。 神様があなたの罪を悲しみ、 あなたが神様を求めることを欲し、 あなたが神様に心を開くことを願い、 あなたが悔い改めることを期待するのは、 神様があなたを愛しているからなのです。 神様があなたを愛していなかったら、 あなたがどんな人間でも関心を払わないでしょう。 でも、神様はあなたを他の誰とも交換不可能な唯一の貴重な一人の人格として愛しているのです。

神は愛です。 そして神様はほかならぬあなたを愛しているのです。 これが聖書の(そしてキリスト教の)中心となる主題です。

あなたの疑問や不満はとても自然です。 多くの人が同じように感じているでしょう。 でも、それは聖書に書かれている「神」「愛」「罪」「ゆるし」の本当の意味を まだ理解していないからだと私は思います。 しかし、あなたの疑問は真摯なものであり、誠実なものであると私は思います。 ですから、ぜひ、もう一度「四つの法則」を読んでくださって、 自分のこととして祈ってみてください。 愛について理解させてくださるのも神様の恵み深い御働きの一つです。 ですから祈って神様の御働きがほかならぬあなたに及ぶように願ってください。

あなたを四つの法則に導いてくださったのは神様の働きです。 この貴重な機会をどうか十分に生かしてください。 「祈る時」はいつだって「今」しかないのですから。