結城浩
2000年4月21日
病院の帰り、 咳が出て胸が痛いのでコンサートホールのロビーに立ち寄って少し休む。 人がぱらぱらと行き交う様子をぼんやり眺めていると、 「どうかしましたか」 と話しかけてくる声がする。 声の方を向くと、真っ白のエプロンドレスを着た女の子が立っている。 私はちょっとびっくりしつつ、いや、大丈夫です。 などと変な応対をする。 「クリスチャンなのですか」と言いながら、 女の子は空いている私の隣の椅子にふわりと座る。 見た目は十歳くらいだと思うのだが、話し方は大人びている。 どうしてわかったの、と私は言いかけて、手に持っている新約聖書を思い出す。 うん、そうだよ。と私は答える。 「そう」と言って、女の子はしばらく黙ったまま、 私といっしょに人の往来を見るともなく見ている。 「何をこわがっているのですか」とだしぬけに女の子が口を開き、続けて話し出す。 何をこわがっているのですか。 人を傷つけないようにしているようだけれど、 本当は自分が傷つかないようにしているだけなのでしょう。 やさしい言葉とか、思いやりのある態度とか、親切めいた振る舞いとか。 確かに相手はそれを心地よく思うけれど、 あなた自身の考えや気持ちが相手に伝わることは少ないのでしょう。 もしかしたら相手を傷つけるかもしれない、そしてそれで自分も傷つくかもしれない、 けれど、それでも言わなければならないこと、は ないのでしょうか。 相手に本気でぶつかることがないのは、 愛ではなくて、ただの臆病です。 相手にやさしさだけを示して、 その他のすべてを自分で飲み込んでしまうのは、 単なる横着です。 他の人によって直接傷つけられることは、本当は少ない。 他人は、胸の奥に抱えている卵を壊すことはできない。 壊すどころか、触れることさえできない。 胸の奥の卵を傷つけられるのではないか、というのはおびえだ。 いいわけだ。 あなた自身が許さない限り、胸の奥の卵は傷つかない。壊れない。 傷つくまではおびえ、 傷ついた後は --- 実際には傷ついていないのに --- 他人を逆に責めるいいわけに使っている。 あの人に傷つけられた、あいつに損なわれた、彼が悪い、彼女がいけない、 親に責任がある、子どもがいるから、病気のせいだ、社会が…。 女の子は淡々と言葉を続けていく。 私は僕になり、泣きながら反論を試みるが、言葉にはならない。 最後に女の子は、優しい声に変わり、静かだがきっぱりとした声で言う。 「あなたの信仰はどこにあるのか。恐れるな」 名前を呼ぶ声にふと目をさますと、私はまだ病院におり、 診察の順番待ちをしている間に眠っていたことに気がつく。