結城浩
2003年7月19日
Webページの読者から、私が 「あなたのために、祈ります」の中に書いている 「なお、結城は、オウム真理教、ものみの塔、統一教会、エホバの証人とは無関係です」 という表現(以下※とあらわすことにします)に関して質問と意見をいただきました。
連絡先が分からず、転載の許可がとれないので、以下にこの読者の要点を記します。
順番にお返事します。
1. ※のように表現しているのは、いくつか理由があります。
2. 特に偽善的だとは感じていません。理由は次の3.でお話します。
3. はい、その通りです。すべての人を愛することは神さまの教えです。 でも、私は、※のように表現することと、すべての人を愛することが矛盾しているとは感じていません。 話が長くなるのではしょりますが、以下の(a)から(f)はすべて異なることです。
この違いは細かいことではなく、けっこう重要なことだと思います。 (a)からひとっとびに(f)を結論付けるのは誤りである、と私は思います。 できれば、時間をとってゆっくり考えてみていただけませんか。 私が上記の団体を名指しで「無関係です」と表現したことで、 あなたは「結城さんは、こういう団体の人たちを悪と決めつけ、切捨て、断罪しているのだろう。それはイエスさまの教えに反しているではないか」 と考えられたのかもしれませんが、それはずいぶん飛躍がある、と私は思っています。 ちょうどそれは上記の(a)から(f)を結論付けるような飛躍です。
「その人が属している団体の主張を異端と考えること」と「人を愛さない(=ゆるさない、受け入れない)こと」とはイコールじゃないですよね? ちょっと考えると詭弁に聞こえるのですが、そうではありません。
話がそれますが、「ある人を嫌う」と「ある人を愛さない」の混同も、とても危険です。 嫌うのは感情ですが、愛さないのは意志です。 私たちは嫌いな人でも愛することができます。これはとても大事なことです。 特に、自分や自分に近い人に対して。 自分自身を嫌いであっても、その人を嫌いであっても、 愛する(=ゆるす、受け入れる)ことは(困難ですが)不可能ではありません。 神さまの介入が必要ですけれど。
4. お祈り、ありがとうございます。 ネットワーク上の限られた情報のやりとりでは、互いの誤解を解くのはとても難しいと思っています。 しかし、神さまに介入していただくとき、もっともよいことが互いに起こると思っています。 フィードバックありがとうございました。
それから、 お便りの中には「※のようなことは、たずねられたときに答えればよいではないか」 とありましたが、私は、 はじめから自分の立場を明記しておくことのほうがよいと思っています。
補足:部屋の掃除をしながら、ふと、 ※のような表現で名指しされた団体に属している人が 「私は結城さんに受け入れられていないんだ」 と誤解する可能性を思いつきました。 確かにそういう可能性はあるかも。 今日のこの日記がその誤解を解く一助となるとうれしいのですが。