結城浩
2000年10月16日
本を書いている。
具体的に書いていくと、どうしてこう引っかかるのかなあ。 そうなんだよね。 頭の中だけで「あれをこうして、これをこうやれば、完璧」などと思っているうちは楽なものである。 実際に「手」を動かして、文章を紡いでいくと、いきなりめたくたになってしまうのだ。 まず、自分の思い通りに文章が登場しない。 それから文章や題材が内包している構造が、予定していた文章の構造を拒否する。 「違う違う。そんな風にやってはまとまらない」と文章が文句を言うのだ。やれやれ。 えーん、どうしたらいいのかなあ。このまま無理やり進んでみようか。 それとも、三歩くらい戻って、別の道を探索してみようか。うーん。 聖霊さまは人生のガイドだから、本の書き方もガイドしていただこう。 知恵を与えていただこう。
…
そうか、自分が行き詰まったところというのは、 他の人もつまづく(誤解する)可能性があるところなのだな。 失敗は成功の元。トラブルはチャンス。悩み事は飯の種。 じゃあ、ここをときほぐせば、役に立つ文章になるのだろう。 ふむふむ。
現代では「自分を信じて」というキャッチフレーズがよく登場する。 私はあのフレーズは好きじゃない。 自分なんか信じられるもんか。この世で一番不安定なもの、この世で一番弱く、愚かで、どうしようもないもの、それが自分だ。 どうやってそれを信じるというのか。 ガソリンがからっぽの車でアクセルをふかして何の役に立つのかね。
大事なのは、自分を信じることではなく、自分に命を吹き込んでくださっている聖書の神を信じることなのだ。
困難にぶつかる。自分にはできないが、神にはできる。 孤独におちいる。イエスキリストはインマヌエル(共におられる)。 誰にも言えない何かが起こる。主は慰め主。 どんなことがやってこようとも、どんな失敗をしようとも、恐れるな。たじろぐな。 自分は弱くとも、神は強いからだ。
目に見えるものに惑わされるな。 本当に確かなものは、目に見えないところにある。 この世の次元でものごとを考えるな。 霊の目が開かれるように祈れ。
あなたは、自分の知恵がどこからくるのかを知らない。 自分の語ろうとしている言葉はどこから来るのか。 いまやろうとしている気持ちの源泉はどこにあるのか。 主に求めよ。主に祈れ。両手をあげて、主に叫べ。
自分の命が尽きるとき、この世の終わりが訪れるとき、私たちは何を持っているか。 この世のものは何一つ意味をなさなくなる。 財産も、知識も、業績も、仕事も…それらはすべて夢のようにむなしくとけさっていく。 持っているものがすべて失われ、着ているものがすべて失われ、 たった一人のはだかの自分になって、神の前に立ったとき、 私はなんと言うのだろう。 そのときのことを想像すると、確かに私は無力だ、と痛切に感じる。 そのとき、主体は自分にはない。 確かに、確かに、そのとき私は 「神さま。ごめんなさい。 自分中心の私をゆるしてください。 自分勝手をゆるしてください。 罪深い私をゆるしてください。 イエスさまの十字架のゆえに、 どうか、おゆるしください」 と言うしかないのではないか。
その時、私は一人、神に向かう。 「あの人がこうだから」「あの人があんなだから」といった言葉は何の意味もない。 人のせいにしたりしてもしようがないのだ。 他の人は、他の人で神様がお取り扱いになるだろう。 しかし、問題は自分なのだ。ほかならぬ私は、何者なのか。ほかならぬ私は、人生で何を選び取っているのか。 ほかならぬ私は、このかけがえのない地上での時間を、いったい何に使うのか。 そして神の前に一人立つとき、何を語れるのか。
確かに私はイエスの十字架を信じ、主の恵みによって永遠の命を得る確信が与えられている。 しかし、人生は選択で満ちている。 昨日も、今日も、いや人生の各瞬間が選択だ。 その選択において、イエスさまを選択し、神の側を選び取り、聖霊の導きと助けを求めなければならない。
人生は短い。
その短い人生は今日という一日の積み重ねだ。 悔い改めの時は今しかない。 イエスさまに向かう時は今しかない。 いつも、今が勝負なのだ。