結城浩
2002年8月26日
どうしてキリスト教(ほかの多くの宗教でも)「感謝」ということがよく言われるのか、を考える。 「感謝していると傲慢にならない」というのは一つの解答になるだろうか。 感謝していると傲慢にならない、というのは逆に言えば「傲慢だと感謝できない」ともいえるかな。 つまり、いろんなことに感謝できるかどうかは、自分の「傲慢度チェック」に使えるのかもしれない。
神さまに感謝する、ということはどういうことだろう。 それは「ものごとの正しい理解」から来ている。 何か自分によいことが起こったとしよう。 その源は神さまである、という正しい理解がなければ、神様に感謝することはできまい。 いつも神さまに感謝する習慣ができていると、 物事の正しい理解(忘れがちな…)を思い出す助けとなるだろう。
神さまに感謝することで、以下のような嫌なものを吹き飛ばすことができる。 その嫌なものというのは、不平不満、怒り、愚痴、不当な恐れ、悩み、不安、悲しみ…などだ。 なぜかというと、神さまに感謝するというのは、神さまとの人格的な交流の一つだからだ。 どんなときでも自分を愛してくれて、最善をなしてくださる方と対話することは、 言葉にならないほど深い何かが、自分に流れ込んでくることでもあるのだ。
すばらしい演奏をしたオーケストラに、特にその全体を指揮した指揮者に、 私たちは惜しみなく拍手を贈る。 神さまに感謝し、神さまを賛美することは、それに似ているところがある。 うん、そうだ。 オーケストラの演奏の中には、その一部だけを取り出したら 不愉快な音があるかもしれない。 しかし、すべての音はよい指揮者のオーケストレーションの元では、意味がある。
神さまはすべてをご存知である。 私たち人間には、ほんの一部分しか見えていない。 時間的にも、空間的にも、霊的にも。 神さまはすべてのすべてをご存知で、 その上で、いま、私たち一人びとりをここに住まわせてくださる。 さまざまな出来事が起こり、 私たちはつい、 不平不満、怒り、愚痴、不当な恐れ、悩み、不安、悲しみ…を抱いてしまう。 そしてその行為を一生懸命正当化しようとしてしまう。
けれど。
深呼吸を一つ。
どんなことも、いったん神さまに感謝してみよう。
私の目には、このことはとうてい感謝できるようには見えませんけれど、 神さま、あなたはすばらしい方です。 あなたは、私にいつもよいことをなしてくださる方です。 すべてをあなたに感謝いたします。
このような宣言をしてみよう。
人間の目にはバカみたいに見えるけれど、それでもいいのだ。 よく考えてみたら、イエスさまの生涯だって、 神さまのご計画がなかったら、普通の人にはバカみたいに見えるだろう。 自分は罪がないのに、ほかの人のために十字架にかかるなどというのは、 常識的に考えたらバカみたいな話だ。 でも、そのイエスさまの十字架によって、 私たち一人びとりに「救いの道」が開かれたのだ。 だから、人間の目にはバカみたいに見えることも、そうそうバカにはできないはずだ。
いつも、感謝しよう。すべてのことを、感謝しよう。 神さまに、感謝しよう。イエスさまに感謝しよう。 大声を上げて感謝しよう。心の内でひそやかに感謝しよう。 苦しみの涙の中にあっても、感謝しよう。
神さまが、いつも私たちに感謝の心を与えてくださいますように。