結城浩
2002年1月29日
(おとうさん、こどものときのはなしをして) そうだなあ、何の話をしようか。 中学生の時の話をしよう。 お父さんの中学校は木でできていた。 全部木だ。床から壁から窓枠まで。 いまはもう古くなって壊してしまった。 昔グランドだったところに新しい校舎を建て、 古い校舎があったところを新しいグランドにした。 もう昔の校舎は——お父さんが勉強した校舎はどこにもない。 でも、思い出すことができる。校舎の匂いまで。 お父さんが好きだったのは、図書室だ。 図書室は理科室の上にあった。 体育館をぬけて、理科室の左側の階段——うん、階段も木だよ——を上ると、 そこに図書室がある。 お父さんは、休み時間や、放課後にその図書室に行く。 * * * 図書室はたいていがらんとしている。 当番の図書委員が文庫本を読んでいるだけだ。 今は5月。 窓の桜はもうすっかり散って、青い葉が繁っている。 気持ちのいい風が窓から入ってくる。 僕は、本棚の間をゆっくりと歩く。 きちんと並んだ本の背表紙を見ながら歩く。 本とインクがいりまじった、図書室の匂い。 僕のポケットには『赤毛のアン』が入っている。 新潮文庫の。村岡花子訳の。 僕は図書室の中を歩きながらアンのことを考え、マシュウのことを考える。 僕は、女の子に向かうと、気恥ずかしくなる。 まるでマシュウみたいだ、と思う。 * * * (ねえ、おとうさん。のど、かわいた。お茶、持ってきて) ああ、いま持ってこよう。 * * * ほら、お茶。両手で持って。ゆっくり飲むんだよ。 どこまで話したかな。 まあいいか。 もう眠りなさい。 歌、歌ってあげるから。 すくいぬし イエスと ともに ゆく身は とぼしきことなく おそれも あらじ…