時間と喪失について

結城浩

2005年4月25日

時間というものについて考える。 この世で生きていくうえで時間が大切であることはよくわかる。 というか、私たちは時間の経過とともに活動しているわけだから、 時間は必須である。

一方で、時間とともに私たちは変化していく。 成長し、老いていく。 できないことができるようになり、できていたことができなくなっていく。 出会いがあり、別れがある。

私たちは時間という流れの中に生きていて、 「いっぺんにすべて」を手に入れることができない。 何かを手に入れ、何かを失う。 何かを失い、何かを手に入れる。

私は、ときどき「それはなぜだろう」と思う。 どうして、得たままではなく、失っていくのだろう。 失っていかなければならないのだろう。 手にした状態のままではいられず、手放さなければならないのだろう。 私は、ときどき、そんなことを考える。

シンプルな答えは、きっと「執着するのがよくないことだから」だろう。 手に入れたものに執着する。自分の現在の状態に固執する。 それがよくないことだからこそ、手放さざるを得なくなっているのではないだろうか。

でも、もう一歩進んで「手放すことは、それ自体が喜びでもあるから」なのかもしれない、と、思う。 自分が手に入れたものを放す。 手放す。 得たものを失う。 もちろん、時と場合によるだろうけれど、 喪失も、喜びにつながるのではないか、などと思う。

音楽のことを思う。 美しい音楽。コンサート。 ささやかなフルートに始まり、目もくらむような音の大伽藍が組み立てられていく。 激しい響き、複雑な構造、予想もつかない展開。 ああ、このすばらしい音楽をいつまでも聴き続けていたい、と願う。 しかし、やがて終わりがやってくる。最後の音が消える。 それで完結。

演奏が終わることで、確かに私たちは何かを失った。 先ほどまで目の前にあった音楽は一瞬のうちに掻き消え、もうどこにもない。 けれど、けれども、その代わりに、最後の音までたどり着き、完結した喜びを得る。 静かで、深い満足。

何かを喪失しても、それが「あるべき姿」ならば、 そこには、ある種の喜びを生みはしないだろうか。

たとえ、いくぶんかの悲しみを伴うとしても。