結城浩
2004年8月1日
質問
神さまが「わたし」を愛していることはどうやってわかるのですか?
お返事
私の場合でいえば、一番大きいのは聖書を読んでいて、でしょうか。 聖書に書かれていること、たとえば新約聖書を読んでいて、 「この言葉は、ほかならぬ私に向けていま語られている」 と思うときがあります。 よく聖書は神さまからのラブレターだと言われますが、 そういうことだと思います。
(以上は非常に話を単純化して書いていますのでご注意)
たとえば、誰かとメールのやりとりをしていて、
「ああ、この人は私のことをわかってくれているなあ」
と思う時ってありますよね(逆もあるかもしれないけれど(^_^;)。
聖書を読むとき、あるいは教会でメッセージを聞くときもにています。 聞きながら、私は、
「ああ、神さまは人間のこと——私のこと——をよくわかっているなあ」
と思います。そしてはっと気がつきます。 そうだ、そうだった。神さまが人間をお創りになったのだから わかっているのは当然だということに。
聖書を読んでいると、自分の心にぐさっと来て痛いときもあるのですが、 逆にまたそれを通して、 神さまは「いまのわたし」を気にかけてくださっているのだなと思うんです。 気にかけるというのは弱すぎる表現ですが。
神さまはわたしを——そして、あなたのことを——こよなく愛しています。 わたしはそれを心から確信しています。 ほかの人と交換不可能な形で。 スペシャルな存在として。
私は「聖書に書かれている神さまがほんとうだとすると、 神さまはどんなことをなさるだろうか」とよく思います。 それは特に、自分の子供に親として接するときに思います。
親としては子供に「こうやってほしい」「こういう風に成長してほしい」 と思って、いろいろ言ったり、示したりするのだけれど、 子供には子供の論理があって、なかなか親の言うことはきかない。 そういうとき、「あ、神さまも私に対して同じことをなさっているのかなあ」 と思うのです。
つまり、
自分 − 自分の子供 の関係から 神さま − 自分 を類推する
ということです。
旧約聖書を読んでいると、しつこいくらいに人間は神さまを裏切ります。 一時期は「神さまの言うことをきいてちゃんと生きよう」とするんだけれど、 すぐに自分勝手に生きようとしてしまう。 そういう記事がたくさん出てきます。 自分自身の自分勝手さと重ね合わせたりしたりなんかして。
新約聖書に入ると、イエスさまというかたちをとってくださって、 神さまのほうから私たちのレベルまで降りてくださる。 そして具体的に人間の姿になって「生き方のお手本」を示してくださる。
もちろんそのお手本の通りは生きられないんだけれど、方向は理解できる。 そして、その方向に進むとき、神さまは大きく私たちを支えてくださる。 その方向が「愛」の方向だと思っています。 で、人間は自分勝手なのでしょっちゅう「愛」をねじまげてしまう。 人のためといいつつ、自分のために行動しちゃう。
神さまはそういう私たち人間のことをよくご存知で、 イエスさまの十字架の救いを備えてくださったし、 聖書を与えてくださったし…。 神さまの配慮というか、備えというのはすごい、と私は思っています。
自分の生きてきた時を振り返ってみると、 その都度その都度自分の希望ってあったわけですよ。 「こうなってほしいな」「これは絶対やだな」という風に。 でも、その自分の希望は希望として神様に伝えたうえで、 「あなた(神さま)は最善をしてくださる方ですから、あなたの考えの通りになさってください」 のように【いったん自分の手から放す】と、 すごいことを神さまがなしてくださるように感じます。 で、そういう態度はしばしば「委ねる」と呼ばれます。
つまりは、自分の人生をコントロールするのは誰か、 という問いに関係してくるわけですね。
ということです。
まとまりませんが、このへんで。 偉そうな話ばかり書いてごめんなさい。 よい道が見出されますように。