結城浩
2004年5月11日〜28日
2005年に出版された、 『プログラマの数学』を悩みながら書いていた頃の日記です。
今日も淡々と本を書きます。
今日は「全体をばたばた書くモード」ではなく「はじめからていねいに少しずつ進むモード」です。 効率を無視し、ふんだんに時間をかけて、一見当たり前に思えることをていねいに考えていきます。 ひとあし、ひとあし、考えつつ書きます。 きちんと、完成原稿に近く、という気持ちで書きます。
そのようにじっくり進んでいくと、 途中で「なるほど、そういうことであったか」という発見があることが経験上わかっています。 実際、今日もそういう発見が3個ほど。
そういう発見の驚きと面白さ、わくわく感が消え去る前に、その部分の文章を書いていきます。 ことばに息を吹き込みます。
ちょうど、神さまが単なる土くれに息を吹き込むのと同じように。
比較にならないほどささやかな規模だけれど、創造の喜びがここにある。
本を書いている。
先日見つけたと思った魔法の呪文は偽物だということがわかったので、全部捨て。 また地道にあちこちをつつきまわっている段階。 編集長からは「どんどんやってください」というはげましをいただいているので、 それに元気をもらって「どんどんやる」ことにする。 Excelの表に章ごとのアイディアをまとめたり、エピグラフを考えたり、 まだ書いてもいないのに「本書ではこのようなことをお話してきました」などという文章を書いて考え込んでみたり。 抽象度のまったく違う作業をやりながら、全体を組み上げている段階。
私ってほんとうに本を書くことに関しては要領が悪い。 というか、わざと手間ひまをかけるように心がけている。 関係がありそうな無駄なことを山ほどやって、外堀を埋めたり。 たくさんの比喩を作り出して、その大半を捨てたり。 わざと無駄なことをやって楽しんでいる。 そのほうが良いものができると信じているからだ。 こんな私に付き合う編集長さんは大変ですね。 ごめんなさい。
毎回、ルーチンワークにならないようにも注意している。 今回も、何とかして、新しい魔法の呪文を発見するのだ。 この一冊限りの魔法の呪文を。
聖霊さま、どうぞよろしくお願いいたします。
本を書いている。
ちょっと広がりすぎか。具体的に書き込んで絞り込むことが必要。 各章の構成を詰めながら、章扉について考える。
まだ、魔法の呪文は見つからない。 見つかっているのかもしれないが、 となえかたが分からない。
昨晩、編集部から校正のお仕事が届いたので読む。 最初は「今日は半分くらい読むことにしよう」と思ったのだけれど、結局全部読んでしまった。 何点か修正が必要そうな箇所を見つけたので、後で再読することにする。
今朝は台風一過の良い天気。 私がマクドナルドに行くタイミングで、 家内も出かけるというので、 抜けるような青空の下で一緒に歩く。 奥さんと並んで歩くのは楽しいね。
本を書いている。 まだ第1章のあたりをうろうろ。 最初は3つのエピソードを入れようと思っていたけれど、 ていねいに書いているうちにそれは無理だということがわかって2つに。 さらには1つのエピソードだけで十分豊かな広がりを持つことがわかったので、1つに絞ることにする。 そのほうが1章の分量としてもちょうどよさげ。
まだ、魔法の呪文は見つかっていない。 でも、あせってはいない。 あ。 もしかすると、今回見つかる魔法の呪文は、 魔法の呪文のような姿はまったくしていないのかも。 そこが魔法だ(って何言ってるんですかわたしは)。
今日も、本を書いている。 書くべき題材は十分そろっているけれど、 ぐちゃぐちゃになっている第1章をなんとか形にしようとして、 こね回している状態。 土日にほったらかしていたから、読み返すとどこが分かりにくいかよく分かる。 でもどうしたら分かりやすくなるかはまだ分からない。 思い切ってばさばさ削ったり、節をあちこち移動してみたりする。
プログラム書きと同じで、文章書きは機械化できないと思うな。 あるいは、機械化できる部分というのは実はたいへんな部分じゃないんだと思う。 最もたいへんのは、なぜそうなるか前もって言葉で表現できない部分なのだ。 できた後から、できたものを見て、あーだこーだいうのはできるし、簡単。 そんなに頭を使わない。 でも、何もないところから、よい形のものを何か作り出すというのは、 とても頭を使う。とても、とても、頭を使う。時間もかかる。 そして、できたものがよい形であればあるほど、 苦労なく作れたかのように見える。 なぜなら、まるで、それ以外の形がありえないように思えるからだ。
そのような形が「よい形」のしるしであり、よい仕事のしるしかもしれない。
ふう。
今日も一日の仕事が終わって、改めてエディタを起動し、 キーボードのホームポジションに両手をそっと置いて、 さあ、何を書こうかな、と考える。
やみくもに忙しい中に充実感を感じることもあるし、 のんびりするはずが、妙にむなしく感じたりするときもある。 それはようするにワーカホリックか? まあいいや。
仕事はもちろん仕事なのだが、私の中ではあまり仕事と趣味の区別が判然としていない。 原稿を書いたり、本を書いたりしているのは、もちろん生活のためではあるが、 それ以前に深い楽しみがあるからだ、と思っている。 自分がほんとうに楽しいと感じることが何かを知っているのは、幸せに生きるコツかもしれない。 他の誰が何と言おうとも、これが楽しい。 もっと効率の良い、もっと割りの良い仕事があろうとも、この仕事が楽しい。 そういうものを見出すことができれば、毎日は楽しい。まあ、それはそうだ。
何かを成し遂げるために、努力し、自分のやりかたを守る。 しかし自分のやり方に固執するのではなく、柔軟に人の言葉に耳を傾ける。 そういうのって良いなあ、と思う。 人の意見に耳を傾ける。ていねいに聞く。本気で感謝しつつ、参考にする。 でも、それを取り入れるかどうかは、自分のハートでしっかり判断する。 だれかの意見を鵜呑みにするのも、だれかの意見を毛嫌いするのも、同じ軸上にある。 方向が逆を向いているだけだ。 もっと広い空間に遊ぶために、心を開く。オープンな姿勢を保つ。 でもやみくもに他の人に引きずられるのではない。 そういうスタンスでいたいなあ、と思う。
本を書いている。
第1章はまだぐちゃぐちゃなのだが、 描くべき図を描いて、じっと眺めてみる。 さて、どの方向に進むべきか。
うーん。もつれた毛糸をほぐそうとして、 かえってぐちゃぐちゃにしているダイナのような気分。 アリスはどこ?
本を書いている。
書き始める前に、祈る。 聖霊さまが知恵を与えてくださるように。 私が言葉を作り出すのではなく、神さまがよい言葉を私の心に与えてくださるように。 それをきちんと書き写すことができるように。
あたかも第1章をきちんとできたような「ふり」をして、 第1章のまとめの節をていねいに書いてみた。 書いているうちに、第1章でいいたいことがくっきりとわかってきたような。 ぐちゃぐちゃに見えたのはぐちゃぐちゃなのではなく、 たくさんのことを言おうとしすぎなのだ、きっと。 もっとばさばさ削ろう。
うん、もう少しがんばると、第1章は形になりそう。 第1章が形になると、他の章も枠組みだけは決まることになるから、 いまより書きやすくなるだろう。
うまずたゆまず、ねばり強く行こう。 効率を求めないようにしよう。 たとえ今やっている部分が後ですべて捨てることになってもかまわないというくらいの気持ちで。 質が上がるなら、もう一度はじめから全部やりなおしてもかまわないというくらいの気持ちで。
いま書いている本が、 生まれて初めて書く本であるかのような気持ちで。
今日も、本を書いている。
まだ、第1章を書いている。 毎日、第1章の頭からていねいに読んで、ちまちまと直している。 そうこうしているうちに、だいぶ形ができてきたような気がする。 きのう気づいたとおり、とりあえずいらないものをばさばさと削ってみると、骨格が見えてきたようだ。
まだ何箇所か、首尾一貫していないところや、フォーカスがゆれている部分があるけれど、 きちんとした骨格ができてくると、そういう部分はあとから自然と切り捨てることができるから、 あまり気にしない。 大事なのは、この章では何を言いたいのかという大きな流れをつかむことだ。
太い幹が一本きちんと通っていると、枝葉や花も安定した美しさを出してくれる。 でも、幹がないと、いくら枝葉や花を飾ってもうまくいかない。 ややこしいのは、枝葉や花もおろそかにせずに整えていかないと、 何が「本当の幹」かはっきり自分にもわからないってことなんだよねえ…。
今回の「魔法の呪文」は、即効性のなさという点で、 いつもとはまったく異なる姿をしているのかも (って、私以外に意味不明なことを書いてもしかたがないのですが)。