結城浩
2001年6月4日
イエスさまは、こんな風にお語りになりました。
イエスは彼に言われた。 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してでなければ、 だれひとり父のみもとに来ることはありません。 (新約聖書 ヨハネによる福音書14章6節)イエスさまは、自分のことを「わたしが道」と言われ、 「わたしが真理」「わたしがいのち」と言われました。 そして決定的な次の一言。 「わたしを通してでなければ、 だれひとり父のみもとに来ることはありません」
言い換えれば、イエスさまを信じなければ、 神さまのところに行くことはできない、とおっしゃっているのです。 イエスさまが語られた神さま。 イエスさまが示された愛。 そしてイエスさまの十字架を知り、信じることなくしては、 神さまのみもとに行くことはできない。
イエスさまを通してでなければ、だれひとり、 神さまのみもとに行くことはできない…。 努力で天国に行くのではない。 才能によって、献金によって、仕事によって天国にいくのではない。 わたしも、あなたも、他の誰も、世界中の誰であっても、 イエスさまを通してでなければ、天国にいくことはできない。 永遠のいのちを受けることはできない。
もしかしたらある人は、 これを聞いて「キリスト教の神さまはそんなに了見が狭いのか」と 思うかもしれない。 「イエスを信じなければ天国にいけないとは、せこい」 というわけだ。
しかし、そういう風に言える人はきっと余裕のある人。 自分が置かれている状況が見えていない人ではないかと思う。 濁流がうずまく大きな川の真ん中の、小さな砂州に取り残された人がいる。 いまにも押し流されてしまうような状況の中で、 岸から投げられた一本のロープと救命具。 「これにつかまれ! これにつかまれ! そうすれば助かる!」という救急隊員の声が岸から聞こえる。 しかし、砂州に取り残された人がにやりと笑って言う。 「このロープにつかまらなければ助からないとは、せこい」
自分の置かれている状況を、霊の目を開いて見てみよう。 ちょっと油断するだけで自分勝手に振る舞う自分。 思いやりの欠けた一言を人にぶつける自分。 頼りなく、おろおろしている自分。 ざわざわと心が騒ぎ、いてもたってもいられない自分。 不安のあまり馬鹿騒ぎをし、無駄な時間・無駄なお金・無駄な努力を浪費する自分。 TVや小説、映画で吹き込まれる自己中心の自己実現の幻想に振り回される自分。 自分に付加価値をつけようと焦るあまり自分の大事なものを失ってしまう自分。 …こんな状況をいつまでも続けていくわけにはいかない。 濁流の中の、ちっぽけな自分のプライドの上に取り残され、 いまにも押し流されてしまいそうな状況を続けていくわけにはいかない。 …それはまさに死への道と言えるだろう。
しかし、わたしたちには「聖書」が与えられている(ああ、何という恵み!)。 イエスさまの御言葉が与えられている。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。 神を信じ、またわたしを信じなさい。 (新約聖書 ヨハネによる福音書14章1節)
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、 あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべての ことを思い起こさせてくださいます。 わたしは、あなたがたに平安を残します。 わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。 わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。 あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 (新約聖書 ヨハネによる福音書14章26節、27節)
ペンテコステ(聖霊降臨節)、おめでとう!