文章公開とオリジナリティ

結城浩

2001年9月19日

淡々と仕事。 「はじめに」を書き、レビューアへ送付準備。 ああ、とても、楽しい、楽しい!(←淡々と仕事してない)

今日文章を書いていて考えたこと。 文章を書くこと、本を書くことを何度もやっていると、 自分なりのやり方(ノウハウ・心がけ・コツ…)というものが身についてくる。 それは、インターネットなどでどんどん公開するのがよい。 人に見せるのは恥ずかしいとか、自分のテクニックが盗まれるとか、 そういうことを考えずに、どんどん公開するのがよい。 蒔いたものを刈り取るというのは聖書の原則だけれど、 それはここにもあてはまる。

少しでも、他の人のヒントや助けになるような情報を公開していると、 その情報に対しての改善案や意見などがもらえることがある。 また、そういうフィードバックがもらえないとしても、 人に公開するつもりになってまとめるのは、 自分の考えの整理にもなり、刺激にもなるのだ。 それはお金なんかには換算できないほどの大きなメリットだ。 得た情報、得た知識、得た知恵、そういうものを (あきらかに他の人の害にならない限り) どんどん公開していこう。 自分が得た、もっともよい部分を公開し、人と分かち合おう。 そうすれば、それ以上の恵みが天からやってくる。 その恵みを神さまに感謝しよう。

学生の頃、 私は自分のアイデンティティやオリジナリティについて すごく悩んだ。 どういうことをやったら「自分らしく」生きられるのだろうか、と。 でも、いまはもうあまり悩まない。 だって、無理にとっぴなことをしなくても、 自分らしさというのはあらわれるのだもの。 神さまに信頼して、神様に自分の人生をゆだねると、 不思議な恵みによって、神さまに渡した分だけ、 自分らしさを保ちつつ豊かに生きられるように思う。 何倍にもなって。 「神さまに渡した分に関しては」というところがポイントだ。 最初から自分で抱え込んでしまい「ここは私の領分」としてしまうと、 そこはだんだん腐っていくのだ。不思議なことに。

文章の話に戻ろう。 自分が必死になっていろんなことを公開しても、 やっぱり、オリジナリティは残るのである。 オリジナリティというのは盗むことは不可能だし、 譲渡することすら不可能なのだ。 だから、もう私は恐れない。 安心して、どんどん、思うことを文章に書き、 どんどん、公開する。

どうせこの世で生きる時間なんてたかが知れている。 だからその間に、 自分にできることはどんどんやってしまおう。 失敗してもいいじゃないか。 失敗したらば、やりなおせばよい。 うまくいったら、神さまに感謝すればよい。 神さまが与えてくださった命に感謝しよう。 神さまからお預かりしている命なんだもの。 惜しげもなく公開しよう。 そうすれば、公開したものを受け取った誰かが、 それをさらに豊かに展開してくれるかもしれない。 遠い未来に至るまで。

たとえ、どんなつまらない(ように思える)仕事でも、 手を抜かないで、感謝しつつ、ていねいにやっていこう。 1つ1つが人生をかたちづくるのだから。 そしてその全体が、自分自身のオリジナリティ、ということなのだ。