結城浩
2000年1月27日
夜、新しい仕事で打ち合わせ。担当の方も、とてもよい方でうれしい。感謝。 前もって送っておいた文章も読んでくださり、 いろいろとコメントをいただく。ありがたい。
いま、私はプログラムと文章を書いて生計をたてているわけだが、 小学校や中学校の時代には「国語」が一番点数が悪かった。 先日父に会ったときに私が「文章を書く心がけ」というページの話をすると、 父は小学校時代のことを「国語が苦手だったのにねえ」と笑う。 私も一緒に笑う。 まあ、学校の成績なんて、そんなもんですよね。
どういう教師に出会うか、というのは大切なことだと思う。 特に、励ましを与えてくれる教師は貴重である。
話はそれるけれど、結城のサイトに「自分探し」というページがある。 ちょっとした質問がでて、みんな(10人)が答えるというだけのページだ。 質問はすべて結城が考えたもの(一部投稿もある)だけれど、 自分で答えようとするとけっこう考え込んでしまう。
正直な話をすると「自分探し」というキーワードはあまり好きではない。 自分探しが必要だと思っている人は、 本当は自分以外を探す必要があるからだ。 本当に楽しんでいるときって、自分のことを忘れていますよね。 自分ばっかり見つめていても、自分のことはわからない。 実際、日常生活でも、自分を見たかったら、自分を直接見るのではなく鏡を見る。 自分のことをよく知りたいと思ったら、他のものや他の人を見るほうがいいことも多い。 自分はこれこれこういう人間だと思っていても、 仕事や学校などで他の人と接すると違った自分も引き出されていく。 そして驚いたり、喜んだり、幻滅したりする。
私が洗礼を受けたときの話は以前も書いたような記憶があるが、 もう一度書くと、洗礼準備会みたいなものがあった。 信仰を得て、洗礼を受ける決心をした後、 牧師さんといっしょに聖書とキリストの救いについての基礎的なことを学ぶわけだ。 その中で出た話がその「自分探し」だった。 「私は誰なのか?」というのは哲学上の問題でもあるし、 大人になろうとする人間の根元的な問いでもある。 そのときに、じゃあ「何を鏡にするか」ということがポイントになる。 普通は人、それもたくさんの人を鏡にする。 一人一人は鏡としてはゆがんでいるわけだが、 全体として「自分はこういう人間かな」とつかむわけだ (そうそう、ちょうど「賢者の贈り物」のデラが安い鏡に自分をうつすときのようにね)。
完全な鏡がある。それは神だ。 完全な人格、完全な愛、完全な実在である神という鏡に私をうつす。 そこで普通は自分の現状のみじめさと卑小さに気づく。 そこで終わったなら、 つまり、聖書を読み、神のすばらしさや厳しさを知っただけで終わるなら、 それは悲しいことである。 それはありがちなことだ。聖書を読んで、あわてて「ああ、私にはこれは向かない。 私にはこれはついていけない。これをやれと言われたら私は困ってしまう(今の自分の生活だけでもアップアップなのに)」 という結論に達してしまい、 それっきり聖書を見向きもしないとしたら、もったいないことだ。
聖書の教えを、 自分の力で守る道徳的な教えとしてだけ見たら、 これは大変なことである。 これを自分の力で守ることができるという人がいたら、 神様自身か、うそつきか、何か勘違いしている人なのではないか。 聖書を読んで、神様がどんな方かを知ろう。 本当の意味で知ろう。
神様は実際にいる。 そして私たちを愛している。 「愛している」ということは無関心ではない、ということだ。 それどころか、深く深く関わろうとなさる。 愛する、ってそういうことですよね。 私があなたを愛しているっていうのは、 どんな小さなことも、 どんなつまらない(と他の人が考える)ことも、 あなたが考えること、 あなたがすることのすべてに私は関心があります。 っていうことですよね。 そしてまた、私があなたを愛しているっていうのは、 あなたをロボットや機械のように扱わない、っていうことでもある。 あなたを尊重し、可能な限りあなたの意向を汲んであげたい。 命がけで助けを与え、力を尽くす。 それもまた愛。 そしてその上に、たとえそれがあなたの意向だとしても、 それがよくないことならば、時には厳しく反対したり、 ときには命をかけても防いだりする。 それもまた愛なのだと考える。 神様が私たちを愛する、というときは、 そのような本当の愛をもって愛してくださるのだと私は信じている。
聖書は、基準を与える。それはよいことだから。 神様は、わたしたち一人一人を特別な存在として関心をもっておられる。 神様は、わたしたちをロボットのようには動かさない。 自由意志を与え、 地方自治体のようにわたしたち自身にわたしたち自身(の一部)を管理させる (たとえそれがときに大失敗をやらかすにしても)。 しかしそれをうまくやっていけるように、 イエスさまを送ってくださって罪からの救いをお与えになる。 聖霊様を通してわたしたちが力を得るようになさる。 ときに傲慢という恐ろしいわなにかかるのを防ぐために戒めを与えてくださる。 また他の人を通して厳しい一言が与えられることもある。
何度も、何度も、自分は駄目駄目音頭を踊ってしまう。 聖書を読んでは「自分は駄目駄目」、 他の人を見ては「自分は駄目駄目」 本を読んでは「自分は駄目駄目」。 自分じゃなくて、神様を見ようよ。イエスさまを仰ぎ見ようよ。 神様からたっぷりと愛をいただいて、神様の愛にあふれた視点から、自分をみてあげようよ。 よい状態に至ったのでこれでOK、という静的なものを求めるのではなく、 たとえまた落ち込んだとしても、また神様によって引き上げられる、 何度倒れても、そのたびごとにまた立ち上がる、というダイナミックな働きを求めよう。 そしてそのダイナミックな動きの中で、他の人へ神様をのべつたえていこう。 自分は救われました、というだけではなく、 そんな自分も落ち込むことがある。「自分は」また何度も落ち込む。 けれども、そこで自分を見るのではなく「神様」を見るのだ。 私は何度も落ち込むが、 「神様は」私を離さない (なぜなら神は愛だから)、 「神様は」私を見捨てない (なぜなら神は愛だから)。
なぜなら…聖書にそう書いてあるから!
わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5より)
わたしたちはこの神様からの高らかな宣言になんと応答すればよいでしょう。 ねえねえ。 神様からのこのラブコールには、何とお返事したらいいのかな。 そう、聖書を読もう。聖書は次のように続いている。
主は私の助け手です。 私は恐れません。 人間が、私に対して何ができましょう。 (ヘブル13:6より)
アーメンですか? アーメン!
週末に向かい、あるいは月末に向かい、〆切や納期に向かい、 つらいときを迎えようとしている方もいらっしゃるかもしれません。 人間関係に悩む人、人に言えない苦しみを負っている人、 病のうちにある人、仕事に追われている人…。 でも、どうか、恐れないでください。 自分ではなく、神様を見上げ、神様からいっぱいに愛を受け取ってください。 主はわれらの救い主、助け主。 主がいつもあなたとともにおられますように。 イエスさまのお名前で祈ります。
アーメン! ハレルヤ!